2012/05/01

舟の右側に網をおろしなさい

2012年4月29日
聖書:ヨハネの福音書21章1-14節
説教:滝田新二牧師

序.あなたは一生懸命に頑張ったのに、期待した成果を得ることができなかったことはないだろうか?徹夜で漁をしても何もとれなかった弟子たちが、大漁を経験した。ここから実を結ぶ生涯の秘訣を学ぼう。

1.なぜ、何もとれなかったのか? (1~3節)     

(1)十字架から逃げたから

なぜ、ガリラヤ湖で徹夜の漁をしていたのか? 牧者の召命を受けたが、主の十字架の死と自分たちの裏切りに失望落胆して、生活のために昔の漁をしていたのではないか。彼らが、十字架から逃げ出したことに違いはない。ヨハネ15:5「 わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです」十字架の道には、苦しみ、悩み、痛み、戦い、誤解、そしり、犠牲が伴う。しかし、十字架の道を歩む者だけに約束されている恵み、祝福、勝利がある。あなたは、自分の十字架の道を避けていないか、心を吟味しよう。

(2)自分たちの能力や経験だけに頼っていたから

本当に頼るべきお方から離れたら、私たちは自分の力や経験に頼ることになる。そして、主から離れ、限りある自分の能力や経験、あるいは財産やお金に頼りきってしまうところに大きな落とし穴がある。

2.なぜ、おびただしい魚をとることができたのか? (4~14節)

(1)イエスさまに再びお会いしたから

ペテロたちが疲れ果てた早朝、イエス様は岸辺に立たれた。主は、失望する者の傍らに立たれる。5節「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」と優しく呼びかけた。英語のNIVは"Friends, haven't you got any fish?"(友よ、魚は獲れましたか?) 心を探る質問である。イエス様を離れては、どんな実も結ぶことが出来ない。キリストなき家事や育児、仕事や勉強、キリストなき人生設計や家庭形成の空しさ、喜びなき人生を主は知らされた。反対に、主に結び付いた時、大漁の恵み、祝福がもたらされた。ペテロは裸であったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。主との回復には「上着」が必要である。それは「悔い改めと信仰という服」を意味する。今、私たちは悔い改めと信仰という衣をまとい主との関係を回復させていただこう。

(2)主のみ言葉に従ったから

主の御言葉に従うことは祝福の基礎・土台である。6節「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」「右側」とは「神の側」を聖書では意味する。今までの自分の考えや経験ではなく、新しく神の側に網を打ってみよ!その結果は大漁であった。153匹という数字は、当時知られていた魚の種類と言われる。これは教会は全世界のすべての民族を迎えるという預言的な励ましである。教会はどのような人々が来ても救いの網が破れることがない。そして教会は1つである。私たちも、主のみことばに従う時、大きな祝福を受け、実を結ぶ生涯となる。パウロは「私を強くして下さるお方(キリスト)によってどんなことでもできる。」(ピリピ4:13)と語った。「さあ来て、朝の食事をしない。」(12節) 疲れた弟子たちに、主は温かい朝食を備えておられた。焼きたてのパンと魚、これは聖餐式であり、黙って弟子たちに給仕し、仕える主のお姿は、叱責以上の効果がある。弟子たちには、生涯忘れ得ぬ恵みと祝福の交わりとなった。

◎適用:『舟の右側に網をおろしなさい』

ヨハネ14章12節のイエス様の約束の御言葉「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。」 あなたの生活へ実践・適用しよう。 ①何もとれなかった経験の原因は何か? ②あなたが御言葉に従うとき大漁と祝福がある。実を結ぶために新しく神の側に、舟の右側に網をおろして、主のみ言葉のチャレンジに応え、祝福の実を結ばさせていただこう!

(例話:べサニー・ハミルトンの証し) 

主よ感謝します。

あなたは誰と一緒に歩んでいますか?

~エマオの途上の物語~

2012年4月15日 召天者記念礼拝
聖書:ルカの福音書 24章13ー32節
説教:滝田新二牧師

序.先週は、主の復活を記念するイースター(復活祭)でした。 今日は、その夕方のエマオの途上の物語である。

1. イエス様は、あなたの人生の同伴者です。 共に歩まれるお方(13-16節)   

復活の夕べ、ローマ帝国の圧制からの解放者として待望したメシヤ(救い主)が十字架の死を遂げ、絶望した2人の弟子が、都エルサレムから西の村エマオに行くため日没の夕日に向かってトボトボと歩いていた。そこに復活の主イエス様が近づかれた。しかし、彼らには分からなかった。私たちが、神はどこかに行ってしまった!と思える時も、悲しみと失意の感覚とは無関係に、主は共におられる。主イエス様は、あなたの人生の同伴者である。

例話①:詩『 Footprints (足跡)』

"ある夜、私は夢を見た。私は小高い丘に立ち、これまで歩んできた人生の砂丘を振り返って眺めていた。 延々と刻まれた自分の足跡と並んで、もう一組の足跡がついていた。それは、「私は決してあなたを離れない」と約束してくださった、主イエス様のものだった。しかし、足跡がところどころ、一組しかなかった。それは、私がもっとも辛く苦しかったとき、悲しみのどん底にあったと思えるようなときだった。私は驚いて、イエスさまに尋ねた。「私があなたをもっとも必要としていたとき、どうして私を見放したのですか?」すると、こんな返事があった。「愛するわが子よ。私は一度も、あなたから離れたことはない。あなたが試練にあって苦しんでいたとき、そこに、一組しか足跡が見えないのは、私があなたを背負っていたからだよ。」"

2.イエス様は、あなたの人生の解説者です。 あなたのエマオ(現実)を解説するお方(17-27節)

困惑する弟子に主イエス様は、旧約聖書からご自身の十字架の死と復活による神の救いのご計画について解き明かされた。ここでイエス様は解説者として聖書を説き明かす。私たちも弟子と同じように、聖書の意味も、自分の直面している現実も理解できないことがある。しかし失望しなくてもよい。主は、あなたの人生に起こる出来事の苦しみの意味や人生の価値と目的を説き明かす人生の解説者である。

例話②:『人生は刺しゅうの絵』

中世のアウグスチヌスは、「人生とは、刺しゅうの絵の裏側を見ているようなものだ。色々な糸が絡み合いごちゃごちゃしている。しかしやがて天国に行った時に、主は表に描かれた美しい絵を見せてくださる。」 聖霊様は、みことばを通してあなたの人生を解説され、私たちは慰めと励ましを受ける。

結論:『イエスは、あなたの救い主・人生の主です』 (28-32節) 

(1)イエス様によって、あなたの人生に『主客転倒』が起こる。

弟子たちは共に家に入り食卓に着いた。不思議なことに客であるイエス様が主人のように振る舞う。パンとぶどう酒を分かち合う、これは「聖餐式」である。聖餐式は、主の十字架の記念である。あなたの人生の痛みや悲しみや罪・咎のすべてを主が身代わりに背負われ、裁きを受けた。こうしてあなたの罪と痛みや傷も癒される。イエス様はあなたの救い主である。主を受け入れ従う時に、人生の主客転倒が起り、イエス様はあなたの人生の主となる。

(2)イエス様によって、あなたの『信仰と生活は一元化』する。

私たちは、しばしば生活と信仰を区別(二元化)する。信仰とお金、信仰と仕事、信仰と学校・家庭と分けやすい。しかし、教会も家庭も職場も同じである。なぜなら、私たちが主と共に歩む所だからである。家族の団欒、それは分かち合い、神に感謝する礼拝の場でもあり、台所は、主婦の祭壇である。主イエス様を、あなたの罪からの救い主として受け入れよう!毎日、ディボーションで、イエス様をあなたの心と生活(家庭・学校・職場)に受け入れ、①『人生の同伴者』  ②『人生の解説者』  ③『人生の王』であるイエス様を体験しよう。

主よ、感謝します。

2012/04/11

主は、今生きておられる

2012年4月8日 イースター礼拝
聖書:マタイの福音書28章1~10節
説教:滝田新二牧師
                
1.さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤと、ほかのマリヤが墓を見に来た。
           
2.すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわったからである。

3.その顔は、いなずまのように輝き、その衣は雪のように白かった。

4.番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。

5.すると、御使いは女たちに言った。「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。

6.ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。

7.ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そこで、お会いできるということです。では、これだけはお伝えしました。」

8.そこで、彼女たちは、恐ろしくはあったが大喜びで、急いで墓を離れ、弟子たちに知らせに走って行った。

9.すると、イエスが彼女たちに出会って、「おはよう」と言われた。彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ。

10.すると、イエスは言われた。「恐れてはいけません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです。」

序.ハレルヤ。イースター(復活祭)おめでとうございます。

1.主にあって、不可能は可能となる (1~4節) ~石は転がされた~
  
イエス様にとって十字架の死は死で終わりません。三日目の朝早く、マグダラのマリヤともう一人のマリヤがイエス様の遺体に香油を塗るために墓に行きましたが、その墓はすでに空っぽでした。イエス様は既に復活なさっていたので、そこにはおられなかったのです。その事実を彼女たちに見せるために、主の使い・天使が彼女たちよりも一足早く墓の入り口を閉ざしていた大きな石を転がして、その石の上に座っていました。イエス様の遺体を収めた墓の入り口にあった石の扉です。死は、すべてのものを奪い取ります。勉強も、仕事も、家族の団欒も、将来も、死は、すべてを私たちの手から奪い去ります。死はすべての望みを失望に変えます。私たちを不可能の中に、失望と絶望の穴に閉じ込める絶望の象徴です。墓の石は、人類の絶望の象徴です。イースターのこの朝、その石はわきにころがされました。イースターのメッセージの第1は、主にあって不可能は可能となるのです。

2.初めの愛に立ち返れ (5~7節) ~ガリラヤに行きなさい~

どうして女性の弟子たちにはこのエルサレムでご自身の復活を啓示して下さったのに、使徒と呼ばれる弟子たちにはガリラヤで会うと言われたのでしょうか?ガリラヤは弟子たちの故郷だったからでしょうか?いいえ、そうではありません。ガリラヤ、そこは彼らが初めて主イエス様と出会った所だからです。主に出会い、主に召され、主に献身したところなのです。いわばそこは彼らの信仰の出発点です。信仰の原点なのです。だから主イエス様は彼らをもう一度信仰の出発点に立ち帰らせたかったのです。イースターの第2のメッセージは、「初めの愛に立ち返れ」というメッセ-ジなのです。
            
10.すると、イエスは言われた。「恐れてはいけません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです。」

私たちは、イエス様に会うことができます。あなたもイエスさまに出会うのです。あなたにも、あなたのガリラヤがあるのです。信仰の原点、立ち帰るべき場があるのです。イエスさまに出会い、罪を悔い改め、主に救われ、主イエス様の弟子として立ち上がる決心をされた場があるはずです。あなたももし復活の主イエス・キリスト様への信仰が曖昧になることがあったら、この世の惰性に流されることがあるなら、あなたのガリラヤに立ち帰りなさい、わたしはそこであなたに会うと主イエス様は言われます。イースターの第2のメッセージは、「初めの愛に立ち返れ」というメッセ-ジなのです。
            
3.すべての希望は復活にある(8~9節) ~大喜びで、知らせに走って行った~
    
これが世界で最初のイースターの出来事です。主イエス様が甦られたという知らせを女性たちは、大喜びで伝えて行きました。これこそ聖書が言う「福音」なのです。これに優るビッグニュースはありません。それはわたしたちの罪を完全に贖う力となり、全能の神がわたしたちに与えると約束して下さった永遠の生命の保証となりました。多くの人の間で死は全ての終りと考えられていますが、イエス・キリストを信じる者には復活の命が与えられています。ここに希望があります。

第Ⅰコリント15章19~22節

19.もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。

20しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。た。

21.というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。

22.すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。

復活は「単なる蘇生(そせい)」を意味するものではありません。復活とは、死者の霊に新しい衣が与えられるのです。聖書はこれを「霊のからだ」と言います。地上の肉体は死をもって朽ちますが、霊のからだは永遠の生命を持ち、もはや死も滅びもありません。時間や空間の束縛を受けません。天地創造の神は、この見える世界をお造りになったばかりではありません。イエス・キリスト様を信じる者を、受け入れる永遠の御国、天国をも備えていてくださいます。イエス様は死を打ち破り、私たちのためによみがえり、今も生きておられるのです。ここに希望があります。

マタイ16章26節「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」多くの人々は、肉体の命、即ち健康を取り戻すためには全財産をつぎ込むことも惜しみません。しかし、その肉体の命もいつかは土に帰るときが来るのです。ここに言う「まことの命とは(原語は、ソウル 魂のことです)主イエス様は、「あなたは死後神に出会う備えができているのか?」とわれています。この世で巨万の富を得て、健康管理に万全を期しても、永遠の生命を持っていなければそれは全く空しい人生と言うほかありません。復活の主は今あなたにその備えをさせたいのです。

例話:先週3日、袴田喜秀兄は82歳11カ月の生涯を全うさして、召され、天国に凱旋されました。そして昨日、本当に幸いな告別式がこの礼拝堂で執り行われました。袴田兄弟は、警察官として務めを立派に果たされ、晩年イエス様を救い主として信じ、永遠のいのちを頂き、今、復活のイエス様と栄光の天国で私たちよりも先にお会いして、永遠の祝福の中に置かれています。私たちもその後に従いたいと思います。

●ジョン・ダン(1571~1631年)は、詩人であり、英国国教会の監督として教会に仕えていました。後世の人は彼を評して第2のアウグスティヌスと呼んでいます。敬虔な神の人で祈りの人です。彼の「天国の幻」という詩を紹介します。

『 ああ、主よ、私たちが最後の眠りから目覚めるとき、

私たちを天国の門に、そして天の家に伴ってください。

そこには、暗黒も、ぎらつく光もなく、どこにも均一な明るさがあふれているでしょう。

そこには、沈黙も、喧噪(けんそう)もなく、一つの音楽がみなぎっているでしょう。

そこには、恐れも、願望もなく、誰もがすべてをひとしく所有しているでしょう。

そこには、終りも、初めもなく、

どこにも永遠が存在しているでしょう。

あなたの御稜威(みいつ;神の威光)と御栄えの輝く、とこしえの住まいには。』

主よ感謝します。

2012/03/25

エル・ロイ

〜顧みてくださる神〜
                  
2012年3月25日
旧約聖書:創世記16章6〜15節
説教:滝田新二牧師               

6.アブラムはサライに言った。「ご覧。あなたの女奴隷は、あなたの手の中にある。彼女をあなたの好きなようにしなさい。」それで、サライが彼女をいじめたので、彼女はサライのもとから逃げ去った。

7.主の使いは、荒野の泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで、彼女を見つけ、

8.「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか」と尋ねた。彼女は答えた。「私の女主人サライのところから逃げているところです。」

9.そこで、主の使いは彼女に言った。「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」

10.また、主の使いは彼女に言った。「あなたの子孫は、わたしが大いにふやすので、数えきれないほどになる。」

11.さらに、主の使いは彼女に言った。「見よ。あなたはみごもっている。男の子を産もうとしている。その子をイシュマエルと名づけなさい。主があなたの苦しみを聞き入れられたから。

12.彼は野生のろばのような人となり、その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう。彼はすべての兄弟に敵対して住もう。」

13.そこで、彼女は自分に語りかけられた主の名を「あなたはエル・ロイ」と呼んだ。それは、「ご覧になる方のうしろを私が見て、なおもここにいるとは」と彼女が言ったからである。

14.それゆえ、その井戸は、ベエル・ラハイ・ロイと呼ばれた。それは、カデシュとベレデの間にある。

15.ハガルは、アブラムに男の子を産んだ。アブラムは、ハガルが産んだその男の子をイシュマエルと名づけた。

序.このハガルの物語は、困難と試練の中にある者への「希望のメッセージ」です。

第1は、「エル・ロイの神」(私を顧みてくださる神)がいる (7~9・13節)

ハガルの物語は、聖書を読む者の涙を誘う物語である。アブラハムの妻サライの女奴隷である故に、主人の子を産む代理妻とさせられた。その後、主人サライを見下げたために、イジメられて、ついに家を飛び出した。こんな事がなければ、ハガルは平穏無事な一生を送ることができたであろう。ハガルはサライの犠牲者である。彼女は荒野を彷徨い、シュルの道の泉のほとりで、主の御使いと出会う。主はわざわざ捜し出してくださった。そして主は、女主人のもとに帰るように命じられた。主は、見捨てないでハガルとお腹の赤ちゃんの命を救われた。主は、どんな時でも、私たちの味方である。

(詩篇27:9~10)

27:9 どうか、御顔を私に隠さないでください。あなたのしもべを、怒って、押しのけないでください。あなたは私の助けです。私を見放さないでください。見捨てないでください。私の救いの神。

27:10 私の父、私の母が、私を見捨てるときは、主が私を取り上げてくださる。  

それゆえに、主の御名は「エル・ロイ」(ご覧になる神・13節)である。ハガルは、女主人の冷酷な扱いと荒野の孤独な中で、私たちを顧みてくださる神に出会ったのである。

例話:日本を代表するキリスト者・内村鑑三の『一日一生』の言葉より。

『産を失うも可なり、願わくは神の御顔を失わざらんことを。
病に悩むも可なり、願わくは神の御旨を疑わざらんことを。
人に棄てられるも可なり、願わくは神を棄てざらんことを。
死するも可なり、願わくは神より離れざらんことを。
神はわがすべてなり、神を失うは、我が全てを失うなり。
我らに父を示し給え、さらば足れり。
わが全生涯の目的は、神を見、彼を我がものとするにあり、その他にあらず。』 

私たちもこの「エル・ロイ」(顧みてくださる神)を心から信じ、告白しよう!

第2は、人は自分の意志でない重荷を背負う (8~10節)

人は、思っても見ない出来事で自分の意志でない重荷を背負う。ハガルの物語がそうである。不妊の女主人サライの命により、ハガルはアブラハムの妾となる。しかし、ハガルは身ごもり、高慢となり、主人のサライにイジメられて、逃げ去る。そこで故郷エジプトに帰る荒野のシユルの街道で、主と出会う。ハガルのように、人生の荒野に、たった一人ぼっちで立たされる時が私たちにもある。そのような時にこそ主があなたの最も近くにいて下さる。身分を忘れ主人サライを軽んじたハガルに「女主人のもとに帰り、身を低くして」(創l6:9)仕えるように主は悔い改めを求められた。後にハガルの産んだイシュマエルはアラビア人の先祖となる。悲しい出来事が祝福になることを教えられる。私たちに必要なことは、主の御言葉を聴き、主に従順することである。

第3は、天との契約の祈りがある。 (10~12節)

聖書には多くの契約がある。ここには神とハガルとの祝福の契約がある。(10~12節) アブラハムへの祝福の契約の故に、ハガルの子イシュマエルの子孫もまた、大いに増え、数えきれないほどに祝福されるという祝福の約束である。  

(例話:ユダヤ人精神科医のビクター・フランクルは、ナチスのアウシユビッツ収容所の絶望的な生活の中で、天との契約を結び、希望を持って生き抜くことができた。)

結論:『主は、あなたをいつも顧みてくださる』 (13節)

主は、奴隷であったハガルを、顧みてくださり、助け導かれた。その上、祝福の約束を与えられた。

例話:あるキリスト者教師から新しく巣立つ学生に送った励ましの一文である。

主は、あなたの人生の荒野においても、いつも顧みてくださる。だから、試練と苦難の中で、問題を見るのではなく、主を認め、御言葉に傾聴し、主に従順しよう。エル・ロイの神の顧みがあなたと家族に豊かにありますように! 

主よ、感謝します。

2012/03/18

信仰と人の知恵

~アブラハムの生涯⑧~
           
2012年3月18日
旧約聖書:創世記16章1~6節
説教:滝田新二牧師              

1.アブラムの妻サライは、彼に子どもを産まなかった。彼女にはエジプト人の女奴隷がいて、その名をハガルといった。

2.サライはアブラムに言った。「ご存じのように、主は私が子どもを産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにお入りください。たぶん彼女によって、私は子どもの母になれるでしょう。」アブラムはサライの言うことを聞き入れた。

3.アブラムの妻サライは、アブラムがカナンの土地に住んでから十年後に、彼女の女奴隷のエジプト人ハガルを連れて来て、夫アブラムに妻として与えた。

4.彼はハガルのところに入った。そして彼女はみごもった。彼女は自分がみごもったのを知って、自分の女主人を見下げるようになった。

5.そこでサライはアブラムに言った。「私に対するこの横柄さは、あなたのせいです。私自身が私の女奴隷をあなたのふところに与えたのですが、彼女は自分がみごもっているのを見て、私を見下げるようになりました。主が、私とあなたの間をおさばきになりますように。」

6.アブラムはサライに言った。「ご覧。あなたの女奴隷は、あなたの手の中にある。彼女をあなたの好きなようにしなさい。」それで、サライが彼女をいじめたので、彼女はサライのもとから逃げ去った。

序.アブラハムが、主の召しを受け、カナンの地に移り、時が流れ、10年が経過した頃の出来事である。

1.信仰の試練  (16:1)

1節「アブラムの妻サライは、彼に子どもを産まなかった。」ここに信仰の試練がある。主の約束はあるが、現実は、年老いて、子どもを得ることから遠ざかる。信仰には必ず、試練が伴う。主が私たちに求めておられるのは、神を信じる信仰だけである。主は、私たちの信仰を本物にするために試みられる。

2.人の知恵  (16:1~2)

約束の子が生まれない現実の中で、アブラハムの心に迷いが生じた。サタンは、サライを誘った。妻サライは人の知恵で考えた。自分の身近にいる若いエジプトの女奴隷ハガルに目が留まった。奴隷は、主人の所有物で、奴隷が産んだ子は主人の所有物となる。サライは「きっと主は、ハガルによって約束の子を与えて下さる。神の約束の実現のために、族長の妻としてのプライドを捨て、自分が犠牲になろう。」と考えた。 このように人間の知恵で判断し、アブラハムにすすめた。これは当時の習慣であった。アブラハムはこの妻の提案を受け入れた。

(例話:エデンの園での堕落の出来事に似ている。サタンはエバを誘い、アダムを罪に誘った)

神の御言葉は、人間の知恵や分別、常識、現実の上に立って判断するのではない。神の御言葉は、どこまでも信仰を持って受け入れる言葉なのである。

3.人の知恵の愚かさ  (16:4~5) 

4節「彼はハガルのところに入った。そして彼女はみごもった。彼女は自分がみごもったのを知って、自分の女主人を見下げるようになった。」古代では、子どもを産めない事は、女性の最大の恥辱であった。また宗教的にも神の祝福の外に置かれた者だと考えられた。妊娠の事実がハガルに高ぶりの心を起こした。これは罪人の当然の姿である。ハガルの姿は私たちの姿でもある。信仰の事でも起こる。恵まれた経験をすると、すぐにそれを誇りに変えてしまう。何も持たぬ時は謙遜であったのが、それを誇るようになる。持たない者、信仰の体験のない者に対して、それを誇るようになる。一方、サライも、自分の罪を認めないで、その罪を夫アブラハムに転嫁した。サライの女心は傷つき、ハガルに嫉妬した。信仰の人アブラハムの妻でも、初めから信仰の人であったのではない。試練を通して、主に取り扱われ、信仰の人に変えられたのである。(参照ヘブル11:11)

結論:『信仰によって歩む』 (創世記16章6節、ヘブル書11章6節)

アブラハムは、すべての誤ちを自分に負っている。彼は、妻を憎まず、ハガルを憎まず、自分の弱さ、罪を認め、不信仰を認め、いっさいをサライに明け渡した。ここに信仰の父アブラハムの素晴らしさがある。甥のロトを救出するために、自分のしもべ318名で大軍を打ち破り、見事に分捕り物を持ち帰った。あの勇士アブラハムの信仰者の姿も男らしい姿であった。しかし、神の前に砕かれた魂をもって立ち、言い訳もせず、誤ちを素直に認め、神と人の前にも、頭を下げて行く。アブラハムの何とも潔い、男らしい姿がある。一方、どこまでも自分をかばい、誤ちを他の人のせいにして言い立てていく肉の人サライ。私たちは、この2つの性質を持っている。信仰の人・御霊の人(霊の人)と、 生まれつきの人・罪の人(肉の人)である。信仰の人か肉の人か? 私たちは、みことばと御霊様に導かれ、信仰によって歩むのである。

(ヘブル11:6)「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」 

例話:信仰の人 ハドソン・テイラー 

中国宣教の父と呼ばれるハドソン・テーラーはいつも祈りと信仰で歩んだ。人に訴え、求めることをしないで、いつも主ご自身にのみ祈り求め、中国宣教を全うした。それゆえに信仰の人と呼ばれる。

主よ感謝します。

2012/02/20

主はあなたの盾です

~アブラハムの生涯⑥~

2012年2月19日
聖書:創世記15章1~6節
説教:滝田新二牧師
                 
1.これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」

2.そこでアブラムは申し上げた。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私にはまだ子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」

3.さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう。」と申し上げた。

4.すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」

5.そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」

6.彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

1.恐れの中のアブラハム (1節)

「主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。“アブラムよ。恐れるな。」(1節) 

先週、アブラハムの信仰義認を学んだ。この時、彼は大きな恐れの中にいた。14章の戦いと勝利の結果、敵のケドルラオメル王が復讐に来るかも知れない恐怖と、死海の邪悪なソドムの王との同盟を拒否し、新たな敵になる不安があった。その上、年老いたアブラハム夫婦には約束の子が与えられず、跡取りがいなかった。将来への大きな不安と恐れの中にいた。主は、それをご存知で彼に優しく語りかけた。1節「アブラムよ。恐れるな。」と励まされた。このアブラハムの姿は、実は私たちの姿でもある。 人の心には、様々な思いが沸き起こり、不安や恐れとなって、さざ波がいつも寄せては返す。私たちも、受験や仕事、経済や家族や老後の事、やがてすべての人におとずれる死の不安がある。 

2.主は盾である (1節)

1節「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。」
 
「盾」は昔の戦いで自分を守る武器である。現代の家やパソコンを守るセキュリティ・システムと言える。「神が私たちの盾である」という比喩的な表現は、旧約聖書を通しては、多くの人々を励ましている。

(参照:申命記33章29節「主はあなたを助ける盾である」 他に、詩篇3:3.7:10.8:8.33:20.115:9~11.119:114。新約はエペソ6:16などがある。)

3.日々の戦いの中で

私たちの日常生活は、一歩外に出ると何が起るか分からない。通り魔事件や人からの悪意や皮肉、中傷・あざけり、おどし等などが私たちに襲ってくる。しかし、もしそれらの敵よりも強力な盾となってくださる真の神に信頼するならば、私たちは衣服の下に防弾チョッキを付けているようなもの。あらゆる敵からあなたを守ってくれる。神に信頼する者に対して、イザヤは54章17節で語っている。 「あなたを攻めるために作られた武器は、どれも役に立たなくなる。」主はあなた守られる。さらに創世記15章1節「あなたの受ける報いは大きい」と言われた。これは私たちに対する約束でもある。主は外敵からあなたを守ってくださるだけではなく、あなたの空虚な心を満たすことのできるお方である。クリスチャンの一番大きな報いは何か? 主なる神をあなたが持っている事、キリストという永遠のいのちの祝福を受けことである。 

例話:ビルマ宣教の父アドニラム・ジャドソン(1788~1850)

アメリカより宣教師としてミャンマー(昔のビルマ)に派遣され、苦労の末、聖書をビルマ語に翻訳したビルマ宣教の父と言われています。ジャドソンがちょうど聖書をビルマ語に翻訳し終わった頃、1824年にイギリスとビルマとの間に戦争が起こった。イギリス人と間違えられ投獄されました。幸いに夫人は捕えられなかったので、夫が長年苦心して訳した聖書の草稿を人に奪われないようにと家の床下を掘って地中深く埋めて隠した。だが雨季が間もなくやって来て、腐る恐れが出てきたため、永く地下に隠しておけなくなった。夫人は知恵をしぼって一策を考え出した。原稿を掘り出して、よく重ねて巻き、それを綿で厚く包み、その上に布をもって覆い、ジャドソンの枕として牢屋に差し入れた。ジャドソンも大変喜び、安心していました。9ヶ月後、さらに厳重な牢屋に移され、翌朝、他の100人と共に処刑されることになったのです。
足かせをかけられ、大切な枕を奪われました。自分の命がまもられる事よりも、大切な枕がなくならないようにと熱心に祈って一夜を明かした。処刑直前に、なぜかジャドソンの死刑が中止となり、他の牢屋に入れられます。さらに不思議なことには前に用いていた枕が再び彼のところに入れられたのです。だが喜んだのはつかの間で、またその枕を看守が取り上げられてしまったのです。その看守は上に巻いてあった綿をはぎ取り、芯になっていた原稿をほご紙だと思い、ゴミ溜に捨ててしまったのです。ところが、さらに奇妙なことが起きます。ビルマ人の一人のクリスチャンが、これを拾って、敬愛するジャドソン宣教師の持ち物だとわかったので、これをしまっておいたです。やがて戦争が終わって、再び草稿がジャドソンの手に戻り、1834年、最初のビルマ語の聖書が発行されます。 ジャドソンの労により、ビルマ族、カレン族、モン族の間での開拓の働きがなされました。ジャドソン宣教師の死から100年後、1950年には、この国の教会によれば、約20万人のクリスチャンがいるとの統計が出されました。さらに50年を経た現在、およそ4百万人、人口の8%のクリスチャンがいるといわれています。 ある新聞記者が、アドニラム・ジャドソンにインタービューして、「 あなたは初代教会の使徒のような人です。 」と言いました。これを聞いたジャドソンは、大変心苦しく思い、こう言ったそうです。「私は昔の使徒と比較されるような人物ではありません。昔の使徒のようになりたいとも望んでもいません。私の願いは、ただいくらかでもキリストに似た人間になりたいという、ただそれだけです。」主を愛し、主を恐れる者は、主があなたの盾となって下さる。 

結論:「主はあなたの盾です」

①あなたの盾であるイエス様を、心にお迎えしよう。

②あなたが盾となって、人々に仕えよう。 
                                  
家族や友、主を知らない人々に、人生の盾である救い主イエス様を伝え、あなたも盾となってあげよう。

主よ感謝します。

2012/02/13

天を見上げなさい

~信仰義認~ アブラハムの生涯⑤

2012年2月12日                       
聖書:創世記15章1~6節
説教:滝田新二牧師

1.これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」

2.そこでアブラムは申し上げた。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私にはまだ子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」

3.さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう。」と申し上げた。

4.すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」

5.そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」

6.彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

序.アブラハムの生涯は、3期に分けられる。

①「アブラハムの信仰の生涯の出発と初期」(12~14章)。

②「アブラハムの信仰の試練の時期」(15~22章)。

③「アブラハムの信仰の円熟期と死」(23~25章)。                       

今日は、第2期の始めである。4千年前、星空を見上げアブラハムは数え切れない神の祝福の約束を仰ぎ見て信じた。 
           
1.アブラハムの恐れ? (15:1)

 「これらの出来事の後」とは、14章のエラムの王ケドルラオメル王の大軍に捕らえられた甥のロトとその家族と持ち物を奪還するための命懸けの戦争の後である。人間には、外に現れて見える所と、心の中の見えない所と両方が必ずある。表面は立派に見えても、心の内側はそれとは反対だという場合もある。アブラハムは、神の約束はあっても、現実には後継ぎがいない。神の約束に対する疑い、将来への不安や恐れを心に抱いた。誰しも自分の心の真相、心の闇に愕然とする。

2.アブラハムへの主のみことば (15:1~5) 
   
幸いなことは、私たちの不安や恐れを、私たち以上にご存知の主がおられることである。「恐れるな。 わたしはあなたの盾である。」とは、すべて人への温かい、慰めの御言葉である。天地を創造した神があなたを守って下さる。4節「主のことばが彼に臨み」主の圧倒的な迫りである。アブラハムを再び立ち上がらせ、希望を与え、信仰に導くものはいつも神の御言葉であった。たとえ現実がどうであれ、アブラハムから生まれる者が後継ぎとなる。私たちは、主の御言葉を、自分の常識、可能性の上に立って受け取ろうとする。だから、主の言葉が主の言葉ではなくなってしまう。 5節「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。あなたの子孫はこのようになる。」 これは実物教育である。満天の輝く星を誰が数えることができようか? 神の創造された無数の星を有限な人間が数えることなどできない。神の御業は人の計りを超えて無限である。主は天の星を通して、アブラハムのチッポケな自分の常識、経験や可能性で、目の前の事を図ろうとする愚かさを、徹底的に粉砕された。「あなたの子孫はこのようになる」 神の約束は必ずなる。可能性はただ神にある。私たちの救いも、徹頭徹尾、主の恵みである。

3.アブラハムの信仰義認 (15:6)   

6節「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」アブラハムは、そのまま信じ、主はそれを義とされた。パウロは、ローマ書で、この言葉を引用している。人はただ信仰だけで救われる。これが信仰義認である。

結論:『信仰によって救われ、義認の恵みを受けよう』(ローマ4章23~25節)

23.しかし、「彼の義とみなされた」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、

24.また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。

25.主イエスは私たちの罪のために死に渡され私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。

私たちもこの信仰で救われる。信仰とは、あなたの側が、どういう状態であれ、神の側で全部成し遂げてくださったイエス様の十字架の救いを、ただ素直に受け取り、信じて救われる事である。これが神の恵みなのである。この救いの恵みに感謝し、いつも天を見上げ、主の約束をただ信じ受け、主の祝福にあずかろう!

主よ感謝します。

2012/01/30

実を結ぶ弟子になろう

2012年1月29日 
聖書:ヨハネの福音書15章1~12節
説教:滝田新二牧師        

1.わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。

2.わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。

3.あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。

4.わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。

5.わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

6.だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。

7.あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。

8.あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。

9.父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。

10.もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。

11.わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。

12.わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。

序.本日は「第40回年次総会」である。この40年の教会の主の導きと祝福に心から感謝します。40年とは、旧約の民が40年の荒野の旅が終わり、約束の地カナンに入る年である。つまり、教会が成熟して地域社会で宣教と隣人愛の業が拡大して、影響力をもたらす教会となることが期待されている。そのためには、私たちひとりひとりが主につながり、実を結ぶ弟子として成長することである。

1.わたしにとどまりなさい。(15章4~6節)

「あなたがたは多くの実を結ぶ」(2・5・8節)ここに祝福の約束がある。4節「わたしにとどまりなさい」 イエス様のご命令に従う時に「わたしも、あなたがたの中にとどまります」これが主のお約束である。私たちが「まことのぶどうの木」であるイエス様に「枝」のようにとどまる時、主が私たちの心の内に住んでくださり、自然と「多くの実を結ぶ」という結果になるのである。あなたも、多くの実を結ぶ主の弟子となりたいと願わないだろうか?

2.みことばと祈りで、主にとどまる  (15章7節)

7節「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」 「主にとどまる」とは、主のみことばにとどまることである。みことばがあなたの心の中にとどまり、あなたがそのみことばに生かされる。

例話:日野原重明先生(聖路加国際病院の理事長)の本 『子どもを育てる聖書のことば』の中で語っている。

「100年の歩みを振り返り、牧師の家庭に生まれ、子どもの頃に心に刻んだ聖書の御言葉がいかに自分を生かしてきたのか」に驚いている。1970年、58歳の時、「よど号」のハイジャック事件に遭遇し、「予期しない出来事」の中で心に真っ先に浮かんだものは、日曜学校で暗証した聖書の御言葉であった。マタイ8:26『“なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。”それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。』 50年の時を経て、心にとどまっていた御言葉が予期しない人生の嵐の中で、不思議な平安を心にもたらした。みことばに力がある。 祈祷会や女性会、デボーションを大切にしよう。「主にとどまる」とは、また同時に「教会にとどまり」「礼拝にとどまる」ことでもある。 主のみことばの共同体であり、神の家族である教会につながり、礼拝に出席することで主の祝福を受ける。

3.主の愛にとどまる (15章9~12節)

例話:中世の偉大な神学者アウグスチヌスは、主に対する服従を譬えて、「それは犬が鎖につながれて飼い主の後についていくようなものではなく、鎖から放された犬が、喜んで飼い主の後についていくようなものだ」と語った。イエス様ご自身も、父なる神様に喜んで従い、しかも、ご自分の自由意志で、十字架を選ばれて、父なる神に従順した。そこには父・子・御霊の三位一体の愛と自由の交わりがあった。イエス様は父の愛の中にとどまっておられた。主の愛は、あなたにも今も豊かに注がれている。ただ、注がれている太陽の光も、遮光カーテンを閉め切っているので届かない。それを開く必要がある。私たちは、主の御言葉を受け、愛の光の中にとどまっていないと、奉仕も伝道も力を失い、喜びも平安も無くなり、やがて不平不満で、感謝もなくなり、枯渇してしまう。イエス様の愛にとどまり、三位一体の神との愛と信頼の交わりを楽しもう。自由と喜びに解放されよう。

結論:実を結ぶ弟子となろう! (15章8節) 

8.節「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」

私たちは2つの実を結ぶようになる。

(1)御霊の実を結ぶ。(ガラテヤ書5章22~23節) 

すべてのクリスチャンへの約束である。あなたはしゅにとどまり、キリストの似姿へ成長する。
  
(2)御霊の賜物の実を結ぶ。(ローマ人への手紙12章5~8節) 

キリストの体(教会) を建て上げるための賜物が与えられる。これはひとりひとり賜物は異なる。あなたも主の祝福を受けて、主の弟子としてキリストの似姿に変えられ成長し、仕事の実・奉仕の実・証しの実を結ばさせて頂こう!そして教会のビジョンの実現のために神と人々にお仕えしよう。
         
主よ感謝します。