2008年4月27日 召天者記念礼拝
聖書:ヨハネの黙示録21章1〜27節
説教:滝田新二牧師
1.また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
2.私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神 のみもとを出て、天から下って来るのを見た。
3.そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、
4.彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」
5.すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」
6.また言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。
7.勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。
8.しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、 偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。 これが第二の死である。」
9.また、最後の七つの災害の満ちているあの七つの鉢を持っていた七人の御使いのひとりが来た。 彼は私に話して、こう言った。「ここに来なさい。私はあなたに、小羊の妻である花嫁を見せま しょう。」
10.そして、御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行って、聖なる都エルサレムが神のみもとを出て、天から下って来るのを見せた。
11.都には神の栄光があった。その輝きは高価な宝石に似ており、透き通った碧玉のようであった。
12.都には大きな高い城壁と十二の門があって、それらの門には十二人の御使いがおり、イスラエ ルの子らの十二部族の名が書いてあった。
13.東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。
14.また、都の城壁には十二の土台石があり、それには小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった。
15.また、私と話していた者は都とその門とその城壁とを測る金の測りざおを持っていた。
16.都は四角で、その長さと幅は同じである。彼がそのさおで都を測ると、一万二千スタディオンあった。長さも幅も高さも同じである。
17.また、彼がその城壁を測ると、人間の尺度で百四十四ペーキュスあった。これが御使いの尺度 でもあった。
18.その城壁は碧玉で造られ、都は混じりけのないガラスに似た純金でできていた。
19.都の城壁の土台石はあらゆる宝石で飾られていた。第一の土台石は碧玉、第二はサファイヤ、 第三は玉髄、第四は緑玉、
20.第五は赤縞めのう、第六は赤めのう、第七は貴かんらん石、第八は緑柱石、第九は黄玉、第十 は緑玉髄、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。
21.また、十二の門は十二の真珠であった。どの門もそれぞれ一つの真珠からできていた。都の大 通りは、透き通ったガラスのような純金であった。
22.私は、この都の中に神殿を見なかった。それは、万物の支配者である、神であられる主と、小 羊とが都の神殿だからである。
23.都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都の あかりだからである。
24.諸国の民が、都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。
25.都の門は一日中決して閉じることがない。そこには夜がないからである。
26.こうして、人々は諸国の民の栄光と誉れとを、そこに携えて来る。
27.しかし、すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行なう者は、決して都にはいれない。
小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、はいることができる。
序:召天者記念礼拝で天に召された兄姉を偲び、やがて私たちも向かう天国の祝福について御言葉を受ける。
1. 天国は、すべてが新しくなる (21:1〜2)
「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。」(1節)
① 救いが完成する世界すべてが新しくなる。世界の歴史の完成・贖いの完成・人類の救いの完成・新しい天と地が再創造される。
② 悲しみのない世界天国は、不安や恐れ、危険がない世界。天国は悲しみの全くない、平安と祝福に満ちあふれる世界である。
2. 天国は、主と共に住むすばらしい都 (21:3〜4・16・22〜23)
すばらしい天国の栄光が最高の宝石の輝きで表現されている。(例話:ローマを訪ねた天正少年使節)
① 神と共に住む (3〜4節)
堕落により神と人間との間に生じた隔ての壁を、インマヌエル(神は私たちと共におられる)と呼ばれたイエス様が、十字架の贖いの御業によって取り除かれた。天国は神が人と共に住む祝福された所である。そこでイエス様が、ひざまずいて地上でのあなたの目の涙を拭って下さる。天国は、魂が慰められる。
② 神中心の完全な世界 (16・22〜23節)
16.「都は四角で、その長さと幅は同じである。彼がそのさおで都を測ると、一万二千スタディオンあった。長さも幅も高さも同じである。」長さも幅も高さも同じなのは神の臨在を地上で表した神殿の至聖所と同じ。
(例話:米国の黒人解放運動の指導者マルティン・ルーサー・キング牧師が、この「都は四角で長さも幅も高さも同じである。」について語っている。それは「全き生命の三次元」である。「長さ」とは「自分を成長させる」次元であり、「幅」とは「他者と共に生きる」愛の次元であり、「高さ」とは「神と共に生きる」信仰の次元である。
我々の人生は、この三方向において成長を遂げることである。)主が私たちをありのままに受け入れ、主の十字架を通して救われる時、深い感謝を持って、自分を主の御用のために捧げ、神の使命と目的のために生きる人生が始まる。主に生かされて隣人と神を愛する人生となる。
③ 宝石のような私たち聖徒 (18〜21節)
「聖なる都エルサレム」は12使徒を土台にして美しい宝石で輝いている。それは全世界の歴史を通して集められた神の民・聖徒、教会全体を表している。宝石の一つ一つは教会の一員とされた私たち一人一人である。
結 論: 『 私たちは天国をめざす天国人となりましょう! 』 〜新天新地を待ち望む信仰〜
① 神の恵みは溢れてとどまることがない。(6節)
「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者 には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。」神には時間はない。永遠のお方である。その神がこの 大いなる恵みをキリストにあって私たちに与えて下さる。
② 神の子とされ、祝福を相続する。(7節)
「勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。」 この地上で私たちが生きている間は、様々な悲しみがある。しかし、逃げることなく、主が与えてくださ る新天新地を待ち望むのである。(例話:21節の真珠の門とノアの箱船)
③ イエス様を信じて天国人となる (花嫁の準備 19:7−8節)
「私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。 花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである。」
あなたは天国人となっているだろうか? 今の時代は、結婚式を前に花嫁が準備をしている時期にたとえられる。花嫁は、結婚式への期待と新郎(キリスト)と共に歩む新しい歩みの希望に心が満たされる。この準備は、第1にイエス様を信じる信仰を持つ事。第2にイエス様ご自身の前に出るための用意をする事である。
《マラナ・タ》という言葉は「主イエスよ来てください。」という意味。(参照:22:17-21)あなたは、「主イエス様、来てください」と主に祈っているだろうか? もし、今日イエス様が再臨されても、主を喜んでお迎えできる者、新天新地をめざす天国人となりましょう!
主よ感謝します。
2008/05/06
天国 〜新天新地の祝福〜 あなたは天国人ですか?
2008/04/23
恐れを希望に変える主の平安〜私はあなたがたに平安を与えます〜
2008年4月20日
聖書:ヨハネの福音書20章19〜23節
説教:滝田新二牧師
19.その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人 を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があな たがたにあるように。」
20.こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。
21.イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣 わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
22.そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
23.あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそ のまま残すなら、それはそのまま残ります。」
序. イエス様が復活された喜びの日の夕方、弟子たちは、なおも不安と恐れに捕らえられて、戸を堅く閉ざしていた。そこに復活の主が来られた。恐れを希望に変えられた主の平安の秘訣の御言葉を受ける。
1. 弟子たちの恐れと不安 〜なぜ?〜 (20:19)
① 人生の目的を失っ た。
イエス様をユダヤの王様、ローマの支配からの解放者・ヒーローと信じていた。しかし、主は十字架の上で釘付けにされ、無力にも死んで行った。その主のお姿は大きな衝撃であった。彼らはイエス様を失い、生きる目標を失って、絶望し、不安と恐れの中にいた。
② 身の危険を感じ、ユダヤ人を恐れていた。 弟子たちは、次は自分たちが狙われると心配していた。
2. 恐れる弟子たちに与えられた平安 (20:19〜20)
「週の初めの日」とは、復活された日曜日で、「新しい時代の初めの日」を意味していた。 世界の歴史は復活の日を境に変わった。私たちも、既に、新しい時代に属する神の民とされた自覚を忘れてはいないか? 主は弟子たちの不信仰や臆病さを責める代わりに、「平安(シャローム)があなたがたにあるように」と宣言された。恐れに捕らわれて「戸をしめて」いたにも関わらず、復活の主は入って来られ、平安に満たされた。十字架の傷跡は死の力に打ち勝たれた証拠である。
「あなたがたの心は喜びに満たされます。その喜びをあなたがたから奪い去るものはありません」(16:22) 新時代の幕開けである。
3. 派遣される弟子たちへの平安 (20:21〜23)
主はもう一度、「平安があなたがたにあるように」(21節)と言われた。二つ目の「平安」は、患難に満ちた世に「派遣」されるための平安である。この「遣わす」という言葉はヨハネ福音書のキーワードである。たとえば「愛する」は16回だが、「遣わす」はその3倍も繰り返されている。イエス様は「父がわたしを遣わしたように、私もあなたがたを遣わします」と言われた。(「遣わす」:動詞はギリシャ語でアポストローで、使徒はアポストロス“遣わされた者”)イエス様を信じるとは、イエス様が父なる神から遣わされたことを信じることを意味する。御子を御父との三位一体の関係で理解するのが信仰の核心。
主が、あなたを世に遣わされるのは、世の人々が、あなたを通してイエス様を信じるようになるため。
結 論: 聖霊を受けなさい 〜勝利と祝福の秘訣〜 (21〜23節)
主は、息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」(22節)と言われた。「土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。」(創世記2:7)創造の御業を想起させる。
弟子たちは、今、聖霊様によって新しく生まれ、再創造された。そしてこの世界で主の代理としての使命を果たすために派遣される。イエス様が「わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます」(14:12)と言われた約束がこうして成就する。
しかも、主は「あなたがたを」と複数形で語り、ご自身の息を、ひとりひとりにではなく、弟子の集団(教会)に、吹きかけられた。私たちはひとりで世に遣わされるのではなく、教会の交わりに生きる者としてこの世界に遣わされる。その上で「あなたがたがだれかの罪を赦すなら」(23節)と、教会に罪の赦しの権威を与えられた。「教会の外に救いはない」と言われるように、イエス様は、教会を、この世界で唯一の神の代理として立てられた。神は、罪に満ちた世を愛するために、御子を世に遣わされた。そしてイエス様が私たちに「平安・平和」を与えて、この地に遣わされるのは、罪に満ちたこの世界に、神の和解と平和を実現するためである。
例話: <イエスに遣わされた者の祈り>(神の愛の宣教者会/マザーテレサの創立の祈り)
『 イエス様 私たちがどこに行こうとも、あなたの香を広めることができるよう、助けてください。 私たちのたましいをあなたの御霊といのちであふれさせてください。 あなたご自身が、私たちを通して輝き、 私たちに触れるすべての魂が、私たちの心の中に、 あなたの存在を感じることができます ように。 人々が、私たちではなく、イエス様、あなただけを見ますように! 光は、すべて、あなたから来るものです。 私たちを通して他の人を照らしているその光は、 あなたご自身に違いありません。 あなたが最も愛するその方法で、あなたをたたえさせてください。 ことばよりは行ないで、あなたのことを伝えられますように。 私たちの行ないを喜ぶ人々によって、 励まされた私たちの心が、 ただ、あなたのところに導かれますように。“
私たちも、このように祈り、ここから遣わされて行きましょう!
主よ感謝します。
復活の主を見る信仰
2008年4月13日
聖書:ヨハネの福音書20章11〜18節
説教:滝田新二牧師
序. イースターの出来事の後に人生を変えられた人がいる。墓の前で、ただ泣いていた涙の人生から喜びの人生に変えられたマグダラのマリヤの信仰から、復活の主を見る信仰について御言葉を受ける。
1 . 主のそばに居続けるマリヤ
マグダラのマリヤは、いつも主のそばに居続けた。十字架の時も、復活の朝も、真っ先に駆けつけたのは彼女であった。(ヨハネ19:25・20:1)墓の中に主イエス様の遺体がない事が分かった時、マリヤは天使に向かって「私たちの主」(複数形)ではなく、「私の主」(単数形)としっかりと主と結びついている。弟子たちがユダヤ人を恐れ、逃げた時、マリヤは堂々と、墓の管理人に「私の主を返してください!」「私が遺体を引き取ります」と断言している。マグダラのマリヤにとってイエス様は「私の主」であり、自分の命ほどに大切なお方、大事な存在であった。主のそばに居続ける事が祝福となる。
2. 主を求め続けるマリヤ
マリアは、ただ一人墓の前に立って泣いていた。深い失望、絶望がマリヤを支配していた。彼女は全く希望のない、死んでしまった主イエス様の遺体しか求めていない不信仰な状態であった。 私たちの信仰生活はどうか? 希望がなく泣いていることはないだろうか?それは死んでしまった主を求めることなのである。しかし、マグダラのマリヤは、主を追い続ける。執着し続ける。泣きながら主イエス様を探し求め続ける。このようなマリヤに主が現れて下さった。16節『イエスは彼女に言われた。マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)」とイエス様に言った。』 主は、マリヤがこれほど熱い思いで主を求めている、ただ主だけを捜している、その気持ちを喜ばれ、たった一言、その名を呼ばれた。これほど心を揺すぶる会話はない。主を求め続ける事が祝福となる。
結論: 「私は主にお目にかかりました」 〜復活の主を見る信仰〜
① 目線を変えること。(14節) ライフサイクルからソウルサイクルに目線を変える。マリヤには主がわからなかった。イエス様の呼びかけを聞いて、マリヤは分かった。私たちは礼拝やデボーションを通して、主の御言葉を聞いて、主を知らされる。だから、礼拝を大切にしよう。
② 聞くという姿勢を通して、心の向きを変えこと。 (20:14・16)「彼女は振り向いて」これは体を向けるだけではなく、自分の心の向きを変えること。実は御言葉を聞くということである。コロサイ3:10「あたら人を着たのです。ますます新しく(毎日と訳される)毎日、ということで、量的なことではなく、時間的な継続の事である。日々新たにされて、あなたは主の似姿に変えられる。コロサイ3:16「詩(詩篇)と賛美と霊の歌を」繰り返し、繰り返し、心に刻むことで日々、「主よ、感謝します」と目線を変え、ライフサイクルからソウルサイクに目線を変えること、自分はキリスト者であること、自分のアイデンティティ、自分は本当は神の子どもであるという自覚を持つ事である。 あなたも、マグダラのマリヤのように18節「私は主にお目にかかりました。」と告白できる者へと変えられ、新しい使命(証と宣教と兄弟姉妹の励まし)に、主はあなたを派遣される。(17節)
*例話: マザーテレサは、「傷つくまで愛し続けなさい」と語っている。
詩: <しあわせ>『私たちは、みな、しあわせ になるために、生まれてきました。そして、神(イエス)を愛するようになったときにだけ、ほんとうの しあわせ と やすらぎ を見いだすことができます。イエスを 愛することで、喜びを感じ、大きな しあわせ を 感じるのです。
イエス様!私をお救いください。愛されたいという欲望から
ほめられたいという欲望から
名誉を得たいという欲望から賞賛されたいという欲望から
人よりも好かれたいという欲望から
相談されたいという欲望からよく思われたいという欲望から
人気を得たいという欲望から
屈辱を受けるという恐れから軽蔑されるという恐れから
非難されるという恐れから
中傷されるという恐れから忘れ去られるという恐れから
ひどい扱いを受けるという恐れから
嘲笑されるという恐れから疑われるという恐れから 』 (マザーテレサ)
主よ、感謝します。
2008/03/27
キリストの復活~主は今生きておられる~
2008年3月23日 イースター・新会堂礼拝開始
聖書:マルコの福音書16章1〜8節
説教:滝田新二牧師
1.さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。2.そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓に着いた。3.彼女たちは、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか。」とみなで話し合っていた。4.ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった。5.それで、墓の中にはいったところ、真白な長い衣をまとった青年が右側にすわっているのが見えた。彼女たちは驚いた。6.青年は言った。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。7.ですから行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます。』とそう言いなさい。」8.女たちは、墓を出て、そこから逃げ去った。すっかり震え上がって、気も転倒していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。
序. イースターおめでとうございます。新会堂礼拝開始を共に喜び、主に感謝しましょう! 主イエス様が十字架に架けられ、墓の中に納められた。その墓の入り口は大きな石で閉じられたが、 復活の朝、その石が転がされた。その意味と復活のメッセージとは何か?
1. 石は転がされていた (16:1〜4)
日曜の早朝、墓の入り口の石が転がされていた。 大きな石(死の象徴)を転がしたのは誰か?死と生とを支配しておられる主である。死の問題に真の解決を与えることができるのは人間ではない、主だけである。主は、私たちの生活の中の石のような困難な現実を転がして、解放し、道を開き、祝福が注がれる。新会堂建築に立ちはだかる数々の困難な石が、全て主によって転がされた。 イースターの朝、墓の口を開き、永遠のいのちと希望の光が射し込んだ。
2. 十字架にかけられ、復活された主(16:5〜8)
この復活の出来事において、私たちは、死を打ち破ることのできる命の神、生けるまことの神に出会うのである。ではなぜ、イエス様の復活、イースターは喜びの日なのか? 主の復活後、最初に与えられた6節の天使のメッセージにもう一度耳を傾けよう。 大切なことは、ただ「死んでしまったイエスが復活させられた」と告げられたのではなく「十字架につけられたナザレのイエスが復活させられた」と告げていることである。復活という神の決定的な神の御業は、十字架にかけられた方の復活として現された。ここに大きな意味がある。復活は十字架と結び付けられている。主イエス様はご自分の命をもって私たちの罪を贖うために十字架へと向かわれた。あなたのために、罪の贖いの十字架がこの地上に立てられた。だから、復活された主を仰ぐ時、私たちの希望となるのである。
3. ガリラヤへ行け 〜新しい使命に生きる〜 (7節)
御使いは、ガリラヤで再び主にお会いすることができると告げられた。ペテロは、主を裏切った。その主を裏切り、罪を犯した人生の失敗者、落伍者、挫折を経験した者にも知らせてあげなさい、と御使いは語る。主は、私たちを再び主と共に生かそうとしておられる。 主が先にガリラヤに行っておられる。ガリラヤとは、弟子たちが主と最初に出会った場所、「わたしについて来なさい」という主の御声を聞いた場所である。私たちも罪と死から解放され、主と共にやり直すことが許されている。あなたも「わたしについて来なさい」という主の御声を聞くことができる。
結 論: 『 ハレルヤ! 主は今生きておられる 』
今朝、私たちにも復活の希望のメッセージが届けられている。「ペテロにも告げなさい」と言われたお方は、あなたにも呼びかけておられる。復活のメッセージを伝えられた私たちは、もはや死によって閉ざされた者、困難や絶望の石に閉じこめられた者として生きる必要はない。主は私たちをも、キリストの十字架と復活の出来事を通し、罪と死から解放された者、キリストと共に生きる者として下さった。 主は私たちを再びガリラヤへと導かれる。そこで、あなたも「わたしについて来なさい」という復活の主イエス様の招きの言葉を再び聞くことが許されている。そして主は今生きておられる。
マルコ 16:15-17 『それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」
例話:ミャンマーの死から生き返った僧侶(ヤテイ・ファン・シンタウ・パウロ)の証
イースターは、私たちにとって、復活の主に出会い、新しい使命に生きることを決断する時に他ならない。 復活の勝利の主と共に、今日からスタートした新会堂で、新たな信仰生活と宣教とキリストの体である教会形成に励もう!
主よ感謝します。
主が、お入り用なのです~子ロバに乗られた主イエス様~
2008年3月16日
聖書:マルコ11章1‐11節
説教:滝田新二牧師
1.さて、彼らがエルサレムの近くに来て、オリーブ山のふもとのベテパゲとベタニヤに近づい たとき、イエスはふたりの弟子を使いに出して、2.言われた。「向こうの村へ行きなさい。村にはいるとすぐ、まだだれも乗ったことのない、 ろばの子が、つないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いて来なさい。3.もし、『なぜそんなことをするのか。』と言う人があったら、『主がお入用なのです。すぐ に、またここに送り返されます。』と言いなさい。」4.そこで、出かけて見ると、表通りにある家の戸口に、ろばの子が一匹つないであったので、 それをほどいた。5.すると、そこに立っていた何人かが言った。「ろばの子をほどいたりして、どうするのです か。」6.弟子たちが、イエスの言われたとおりを話すと、彼らは許してくれた。7.そこで、ろばの子をイエスのところへ引いて行って、自分たちの上着をその上に掛けた。イ エスはそれに乗られた。8.すると、多くの人が、自分たちの上着を道に敷き、またほかの人々は、木の葉を枝ごと野原 から切って来て、道に敷いた。9.そして、前を行く者も、あとに従う者も、叫んでいた。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によ って来られる方に。10.祝福あれ。いま来た、われらの父ダビデの国に。ホサナ。いと高き所に。」11.こうして、イエスはエルサレムに着き、宮にはいられた。そして、すべてを見て回った後、 時間ももうおそかったので、十二弟子といっしょにベタニヤに出て行かれた。
序. 過越祭が近づき、主イエス様も弟子たちと共に群衆の中をエルサレムに向かわれた。主イエス様の様子はいつもと違っていた。その御顔には、ただならぬ決意が表れていた。皆は、ただ恐れを覚えるばかりであった。主はご自分の受難について語る。(10:32-34)主イエス様は、十字架へと向かうために、子ロバに乗られた。 私たちは、この受難週にあたり、その意味を、今一度深く考えたい。
1. 主がお入り用なのです (マルコ11:1〜6)
ここには奇妙なアンバランスがある。「主がお入り用なのです」と主は王として振舞われる。一方、王がお入り用であったのは、何とまだ誰も乗ったことのない借り物の子ロバであった。この奇妙なアンバランスこそ、かつて預言者が語った御言葉の実現に他ならない。(ゼカリヤ書9・9)「柔和」という言葉は、「貧しい」と言う意味で、富んだ者たち、傲慢な者たちに苦しめられる貧しい者の惨めさを表す。さらに「惨めな」「みすぼらしい」とも訳せるような言葉。それが来るべき王の姿であるとゼカリヤは預言している。 真の王の王、主の主、神の御子は、実に貧しき姿でエルサレムに向かわれた。この醜いお姿こそ、十字架における最も惨めな死に様へと向かう苦難のしもべの姿である。(参照イザヤ53章)預言の成就である。 ここに父の御心があった。イエス様は父なる神への愛のゆえに、その御心に従順に従おうとしておられた。
2. 歓呼の叫びの中をエルサレムに向かう (マルコ11:7〜11)
十字架へと向かうイエス様の御心を知らない群衆は、あたかも王の即位を祝うかのように、自分の服を道に敷き、棕櫚(シュロ)の葉の枝を道に敷いた。そして熱狂的に歓呼の声を上げながらイエス様を迎えた。 当時のイスラエルはローマの支配下にあり、多くの人々はローマからの解放を待ち望んでいた。かつてエジプトにいた先祖たちがモーセによって奴隷の地から解放された過越祭と重なっていた。力強い王なるメシヤ(救い主)が現れて、ローマ帝国を打ち倒し、彼らを解放してくれる日が来ることを待ち望んでいた。 「ホサナ」とは「お救いください」という意味である。彼らはそのように叫んで、主を迎えた。人々は、貧困や病からの救いを叫び求める。私たちは、苦しみや試練から解放されれば救われると考える。しかし、現実はどうか? 一つの苦しみから逃れれば、他の苦しみがそこにある。一つの支配を脱すれば、他の力の支配の下にある自分を見出す。苦難から逃れることが救いなら、人は決して救われることはない。たとえこの世の抑圧から解放されたとしても、罪の支配から解放されない限り、人は本当には救われないのである。
結論: 『主が、あなたをお入り用なのです』
イエス様は、人々の歓呼の叫びが、まもなく「十字架につけろ!」という呪いの叫びに変わることを知っておられた。人の罪は、闇を愛して光を憎む。そして自分の欲望を求め、神の御心に逆らう。人間の内に潜む恐るべきエゴ(罪)は、神の子さえ十字架にかけて殺してしまう。そのような弱さと罪の支配から私たちを救うためにこそ、主は来られた。(参照:マルコ10:45)イエス様はあなたを愛するゆえに、そしてあなたを救うために十字架の道(ドロローサ=悲しみの道)』をあえて進まれた。主は死刑を宣告され、侮辱され、唾をかけられ、鞭打たれ、殺されるために、人々の歓呼の声がこだまする中を進まれた。こうしてエルサレムへと向われた主の内に燃えていた父への愛、そして私たちへの愛を、深く想い巡らしたい。そして主に従うとは何か? 主のために、教会のために、隣人のために、自分は何をすべきか? を問いつつこの週を祈りつつ過ごそう。
主よ、感謝します。
●今日から曜日ごとに神の御言葉を読み、静かに主の御苦しみを黙想し、祈りつつイースターを迎えよう。
▼16日(日)主のエルサレム入城・ベタニヤ泊。(ヨハネ12:12〜19、マタイ21:1〜17)
▼17日(月)ベタニヤ発・いちちじくの木呪う、神殿宮きよめ。(マタイ21:18〜22、マルコ11:12〜19)
▼18日(火)いちちじくの木枯れる、宮で最後の説教(権威論争・悪い農夫の譬え話・王子の結婚披露宴の譬え話・カエサルへの納税論争・復活論争・一番大切な戒め・ダビデの子論争)やもめの献金、終末の教え。(マルコ11:20〜13:37、マタイ21:23〜25:46、ルカ20:1〜21:38)
▼19日(水)イエスの殺害の陰謀とユダの裏切り(マタイ26:14〜16、マルコ14:1〜11)
▼20日(木)過越しの準備を命じる。最後の晩餐ゲッセマネの祈り。イエスの逮捕。カヤパの官邸。 (マタイ26:17〜75、マルコ14:12〜72、ルカ22:7〜65、ヨハネ13章〜18章)
▼21日(金)ピラトがイエスを十字架につける。主イエス葬られる。(マタイ27章、マルコ15章、ルカ22:66〜23:55、ヨハネ19章)
▼22日(土)安息日(ルカ23:56)
▼23日(日)ハレルヤ! 主は復活された。(マタイ28章、マルコ16章、ルカ24章、ヨハネ20章)
主よ、感謝します。
花婿を迎える10人の娘~主の再臨を待ち望む賢い人と愚かな人~
2008年3月9日
聖書:マタイの福音書25章1〜13節
説教:滝田新二牧師
1.そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人 の娘のようです。
2.そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。
3.愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。
4.賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。
5.花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。
6.ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ。』と叫ぶ声がした。
7.娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。
8.ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私た ちのともしびは消えそうです。』
9.しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足 りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』
10.そこで、買いに行くと、 その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっし ょに婚礼の祝宴に行き、戸が しめられた。
11.そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』と言 った。
12.しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』と言った。
13.だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。
序. 当時の「結婚」には3つの段階があった。①親が子どもの結婚の約束を取り交わす。②夫婦の契約(婚約であるが法的には結婚) ③婚約から1年後に夫婦として生活を始める。
今日の「たとえ話」の花婿は、イエス様ご自身。10人の花嫁の友人(娘)は私たちである。
1. 賢い娘と愚かな娘との「類似点」は何か?
① 両者ともに、花婿が来るのを待ち望んでいた。(1節)
10人の娘たちは、皆、信仰のともしびを持っていた。
② 両者共に、同じような弱さを持っていた。(5節)
③ 両者共に、花婿が来る直前に呼び起こされた。(6〜7節)
眠っている娘たちが目を覚ますために、声をかけられたのは主の憐れみではないか。
「しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のよう にあなたがたを襲うことはありません。 」 (第一テサロニケ人への手紙 5:4)
2. 賢い娘と愚かな娘との「相違点」は何か?
① 5人は賢く、他の5人は愚かであった。 (2節)
「そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。」(エペソ5:15-16)
あなたの霊的な生活に弛(ゆる)みが生じ、怠慢に陥っていることはないだろうか?
自分自身の信仰生活をチェックしよう。では一体何が賢さなのか?それは油を持っていること。
パウロは、第1テサロニケ5:19「御霊を消してはなりません。」と御霊に満たされることが大切と語る。
② いつも目の前、目先の楽しみや出来事に心を遣い、将来に備えていない。(3〜4・8節)
愚かな娘たちも灯火は持っていた。問題は、いざ花婿が来た時には油がなかった。今まで持っていたものが、肝心の本番の時には全く役に立たない。本番でその真価が問われる。 (例話:大島の大爆発)
③ 愚かな娘は「ともしび」だけ。賢い娘は「ともしび」と「入れ物に油を入れて」いた。(3〜4節)
「入れ物」は、私たちの霊と心(精神)と体のすべての総和である私たちの全人格を指している。聖書では、油は、聖霊様を象徴して用いられている。クリスチャンの生涯は、聖霊様に満たされ、潔められ、心と生活のすべてを神の愛に支配していただく必要があることを教えている。(参照:使徒19:2)
結 論:『花婿(主の再臨)が来てからでは遅すぎる』 (9−13節)
① 今、イエス様を信じ、受け入れる。
花婿が来てからでは遅すぎる。死ぬ間際に信じるからという人がいるが、救いを予約することはできない。門が開かれているうちに入らなければならない。そして、神の国への扉は一たん閉じられたら,開くことはあり得ないのだから。聖書は「今は救いの時」と教えている。人生の途中で燃料が切れてしまった、「ガス切れ」ということがないように心を用いよう!
② 主の主権を認める。
賢い娘たちは主の主権を認めている。現代は、自分のスケジュールを絶えず優先させる時代である。相手のスケジュールのために自分のスケジュールを捨てることはあまりない。主との関係はどうか?
自分の祈りが聞かれないとイライラし、待ち望んでも、なかなか得られないと、不信仰になったりしないだろうか? 何事にも主の時がある。神の主権による。(信仰の人アブラハムは待ち望み祝福された)
③ 聖霊様に満たされなさい。
(エペソ 5:18)「また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。」 用意の出来ていた賢い娘のように、私たちも、今、聖霊様によってきよめられ、満たされよう。(例話:ご主人様を待ち続けた忠犬ハチ公) 私たちも主への愛を持って、主の再臨を待ち望もう。 あなたも、主の愛と御霊様に満たされて、主を愛し、隣人(家族や友達)を愛し、仕え、歩もう!
主よ、感謝します。
2008/02/12
再臨を待ち望むクリスチャンの生き方 ~賢いしもべと愚かなしもべ~
2008年2月10日
聖書:マタイの福音書24章45節〜51節
説教:滝田新二牧師
45.主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深いしもべとは、いったいだれでしょうか。46.主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。47.まことに、あなたがたに告げます。その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。48.ところが、それが悪いしもべで、『主人はまだまだ帰るまい。』と心の中で思い、49.その仲間を打ちたたき、酒飲みたちと飲んだり食べたりし始めていると、 50.そのしもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。51.そして、彼をきびしく罰して、その報いを偽善者たちと同じにするに違いありません。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。
1. 私たちは主のしもべである。 (45節)
私たち人間はしもべで、神が主人なのである。創造の初めにアダムとエバが神に造られた時、人間にとって、神が主である事を忘れないために、エデンの園に、いのちの木と善悪の知識の木を置かれた。主に従順するために、その善悪の知識の木を食べてはいけないという命令を与えられた。しかし、主を主とする事をやめて、サタンに従うように誘惑を受けた。ついに人は主である神に背き、人は主を主としない罪、神を神としない罪を犯し続けて来た。これが原罪である。神への不従順、自己中心が人間の原罪である。 この罪を悔い改めて、主イエス様の十字架による身代わりの死と復活により、罪の赦しと救いを受けた私たちクリスチャンは、あらためてイエス様を主とする者に変えられた。しかし、罪の性質を残している私たちは主を主としない罪を犯す危険がいつもある。 私たちは、主に仕えるしもべであって、主が私たちのしもべではない。
2. 主のしもべには使命がある。 (創世記 1:26 マルコ 16:15)
① 文化命令(世界管理の使命=キリスト者の社会的責任) 創世記 1:26『そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。』 私たちは労働を通して、この使命にあずかる。そこで主の栄光を現す。
② 世界宣教命令(福音宣教の使命) マルコ 16:15『それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。』 私たちは、家庭や学校、職場で、イエス様の愛と救いを証する。 そして、教会は、この地域(さいたま)と全世界に向かって、福音宣教の使命を委託されている。
◎片柳教会のビジョン
《キリストの愛に変えられ、神の目的のために生かされる人生》
〜地域に開かれた、誰でも安心できる教会を目指して〜
私たちは、“人々をキリストの救いと安息に導き、人々の人生がキリストの愛に変えられた人生となり、神の家族(礼拝の民)のメンバーとなり、キリストの御丈にまで成長し、神に祈り、教会の奉仕のために整えられ、この地域と世界の宣教に仕え、主の御名が讃えられることをめざす。”
3. 愚かなしもべ (48〜51節)
愚かなしもべとは? 全く主人の期待と正反対に、管理し世話すべきものを支配する者である。いつしか自分を主として、富も、仕事も、家族も、教会の兄姉も、主から委ねられていることを忘れている。次に「酒飲みたちと飲んだり食べたりし始めている」これはクリスチャンに対する世俗化の警告である。 この世と同じ価値観、同じ生き方をすれば、聖霊様を悲しませることになる。(2ペテロ3:3-14)
結 論: 私たちは「賢いしもべ」となる (45〜47節)
① 主人に委ねられるしもべとなる。
主人にとって最も信頼のできるしもべとは? たとえ主人がいなくても、委ねられるしもべである。主は、あなたに働きを委ねて、目には見えない形で私たちと共にいてくださる。私たちの全てを見ておられる。主人が共にいるかのように、日々仕えるしもべは、主人が帰って来たときに、誉められる。
② 主に従うしもべとなる。
私たちの主人である神の語られた通りに従うしもべは幸いである。主と主の器に従順なしもべとなる。
③ 主に祝福されるしもべとなる。 〜主人の全財産を委ねられる(47節)〜
・エジプトの王パロの総理大臣となったヨセフ。(創世記41:38-43) ・ バビロン帝国でネブカデネザル王の長官となったダニエル。(ダニエル2:4-6)
例話:フランクリン・ルーズベルトは、小児麻痺の障害者からアメリカの第32代の大統領となった。
主は、あなたに使命を与え、賢いしもべとなり、主の大いなる祝福を与えてくださる。
主よ感謝します
2008/01/21
人は変えられるか?
2008年1月20日
聖書:エペソ人への手紙4章17-32節
説教:柳神学生
序論
今日の主題は、「人は変えられるか?」とういことであります。新年度に入って、初めてのメッセージーなので、何を話せばいいのかと祈っていましたが、ちょうど、先週の日曜日のときに、与えられました。実際この主題は、新年度に入ってから私が一番思わされていたことです。自分自身が本当に変わらなければならないと思っています。今のままでとまっているのではなく、もっと成長したいです。かしらなるキリストに達することができるためにもっと祈り、求めていきたいです。
皆さん!私たちが変えられる必要があると思うでしょうか?
Ⅱコリント5章17節「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、身よ、すべてが新しくなりました。」
私たちはもうすでにイエス・キリストを信じることによって新しく生まれました(新しく変えられました、新しく造られました)。
イエス・キリストは私たちを変わらせるために、苦難を受け、十字架につけられ、死なれました。キリスト教の福音は、変化についての知らせであります。すなわち、イエス・キリストによって新しく生まれるという本質的な変化と、聖化していく漸次的な変化についての知らせであります。ですから、私たちはキリストによって新しく造られた者としてそれにふさわしい生活をしなければならないのです(それにふさわしく変えなければなりません)。
それでは、皆さん!本当に人は、変えられるでしょうか?人の心や品性などが変えられると思うでしょうか?ある人々は人が変わることは難しいことであると、無理であると、できないことであると言います。(例、父と言い争った話)
人の性格、気性、習慣、品性、行動などが変わることは本当に難しいことであります。いや、不可能であるかのように思わされています。本当にそうだと思います。
しかし、聖書はいたずらのように絶えず私たちが変わることを強く勧めているのです。今日の箇所の31、32節「無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」
なぜ聖書は私たちが変わること(難しいこと、不可能であるかもしれないこと)を強く勧めている(勧告している)でしょうか?それは、人が変わるかどうか(変化、聖化)によって、祝福かそれともわざわいかということに直接つながっているからです。後で説明します。
皆さん!もう一度質問します。本当に人は変えられるでしょうか?人が変わることができるでしょうか?もし変わることができるのであれば、どうやってできるのでしょうか?
結論を先に言いますと、人は変えられます!どうやって変わるかをこれから見ていきましょう。
本論
1.信仰によってであります。信仰は変えられることを信じることであります。
牧師先生や聖徒たちの中で“人は変えられない”、“あの人の性格(気性)は変わらない!絶対に変わらない!”と言う人々もいます。皆さんはどうでしょうか?このように言ったことがないでしょうか?私はあります。“あの人はだめだな。あの人は本当に変わらないよ!”と言ったことがあります。
もしかしてキリスト者である私たちがこのように言うならば、私たちはイエス・キリストを間違って信じているかもしれません。なぜなら、イエスを信じるということは変わるということであるからです。ただ信じれば天国に行けると思うでしょうか?私たちはイエスのように変わらなければなりません。エペソ4章15節「むしろ、愛を持って真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。」
聖書は、人が自らの力で変わるのではなく、イエス・キリストの力を通して変わると言っていますし、変わることを強く勧めています。
イエスを信じるということは、イエスが私に知恵と力を与えられ、私を古い人から新しい人(古い気性から新しい気性に、今まで持っていた品性から新しい品性に)に変えられるということを信じることであります。これがまさにイエスを‘私を罪(わざわい、呪い)から救ってくださった救い主’として信じるということであります。
民数記13,14章のカナンに遣わされた12名の話し。
私たちがよく知っている箇所です。13章では、モーセは神様から命じられたように12名を選び、カナンの地を探らせます。カナンの地を探って、帰ってきた12名の報告が13章の後半に書いてありますが、12人のうちに二人(エフネの子カレブとヌンの子ヨシュア)を除いて、10人が“私たちはカナンに入れない”と、“カナンの民族に絶対勝てない”“自分がイナゴのように見えた”と報告します。
人は変えられませんと、 罪悪の古い人(気性、習慣、性格、品性、行動など)は変えられませんと言う人は、まさに罪悪の象徴であるカナンの民族をイスラエルは勝てないと言っている10人の同じ信仰です。このように言うということは、実際にイエスを信じてないこと(不信仰であること)を明らかにしているのです。
荒野のイスラエル民族がカナンの民族に弱かったように、私たちは罪に弱いため、さらに変わることは難しいと、できないと思ってしまうのです。しかし、結局イスラエル民族が信仰を持ってカナンの地を一つ一つ占領して行ったように、信仰を持って、イエスの知恵と力に頼って大胆に行けば、私たちは変わることができるのです。私たちは変えられます。放棄しないでください!私たちは必ず変えられます。信仰を持ってください!
カレブとヨシュアは最後まで信仰を持っていたため、天国の象徴であるカナンの地に入りました。ですから、信仰を持たないと、放棄すると、変わることできませんし、カナンの地に入れません。
私たちは今すぐできなくてもイエス・キリストによって必ず変えられますと告白し、絶えず追求しなければなりません。これが信仰であり、望みであります。
2.自らの意志と神様の助けがなければなりません。
変化するためには、かならず二つの要素がなければなりません。一つは、変化しようとする自らの意志であります。もう一つは、神様の助けを求めることであります。
ピリピ4章13節「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」
変わろうとしない、あるいは神様の助けを認めない、求めない人は、神様のみことばによって絶対に変わることができませんし、どうしようもないです。すなわち、変わろうとしても神様の助けがなくてはできませんし、いくら神様が助けようとなさっても本人が変わろうとしなければ絶対できないのです。自ら変わろうとしない人より問題がある人はいません。
しかし、哀れみ深い神様はこのような人のためにも、実際、本人が自ら変わろうと決断するように働いてくださいます。すなわち、変わろうとしない人には、神様のみこころの通りに変えられるため、いろんな苦労や試練を用いて働いてくださるのです。
神様が私たちを絶えず赦してくださる理由は、私たちが変わることを期待しておられるからです。神様の慈悲は、私たちが罪に負けることに対しての認定ではありません。私たちが変わることに対する期待であるのです。
変わろうとする自らの意志を持ち、神様の助けを求めて幸せな人生を過ごしましょう。
結論
聖書は絶えず変化しなさいと語っていますし、変わらなければわざわいがあると語っています。また変わらないでそのままとまっていても神様は喜ばれません。
ルカ13章1-9節
ヘブル6章7、8節「土地は、その上にしばしば降る雨を吸い込んで、これを耕す人たちのために有用な作物を生じるなら、神の祝福にあずかります。しかし、いばらやあざみなどを生えさせるなら、無用なものであって、やがてのろいを受け、ついには 焼かれてしまいます。」
本人の間違えている信仰生活(気性、習慣、性格、品性など)が変わらなければなりません。私たちは恵まれた時代に過ごしています。聖書も自由に読めるし、毎週の日曜日の礼拝、水曜祈祷会、聖書勉強会などを通して神様のすばらしいみことばを聴いています。
皆さん!どうでしょうか?そのすばらしいみことばによって、皆さんは成長しているでしょうか?
もしかして、そのすばらしいみことばを聴いて、家に帰ったときは、もうすでに全部忘れてしまい、古い人にまた戻って、前と同じように生活している(信じていない人の生活と同じ生活をしている)のではないしょうか?
私たちは今一度自分を省みなければなりません。だれだれが変わればいいなとか(家族、友たち、兄弟姉妹たちなど)を全部切り捨てて、まず自分から変わるようにしなければなりません。(例、父と言い争った話)私は本当に変わりたいです。教会のかしらなるイエス・キリストに達するまで成長したいです。皆さん!変えましょう!私と皆さんが本当に変われば、私と皆さんの家族、友たち、学校、会社、教会が変わります。アブラハムを通して全世界が祝福されたように、私たちの信仰を通して、各自つながっているすべてが祝福されるのです。カレブとヨシュアのように、最後まで信仰を強く握り、絶えず神様の助けを求めて、私と皆さんに約束された地を占領し、幸せな人生を過ごしましょう!
2008/01/15
主キリストだけを仰ぎ見る〜主の祝福を受ける秘訣③〜
2008年1月13日
聖書:マタイによる福音書14章22〜33節
説教:滝田新二牧師
22.それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸へ行 かせ、その間に群衆を帰してしまわれた。
23.群衆を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、 ひとりでおられた。
24.しかし、舟は、陸からもう何キロメートルも離れていたが、風が向かい風なので、波に悩 まされていた。
25.すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。
26.弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ。」と言って、 おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。
27.しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることは ない。」と言われた。
28.すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いて ここまで来い、とお命じになってください。」
29.イエスは「来なさい。」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエ スのほうに行った。
30.ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください。」 と言った。
31.そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。な ぜ疑うのか。」
32.そして、ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ。
33.そこで、舟の中にいた者たちは、イエスを拝んで、「確かにあなたは神の子です。」と言 った。
序. 新年にあたり、主の祝福を受ける秘訣を、イエス様の模範からみことばを受けます。
先週は、主の祝福を受ける秘訣は、 私たちが主を第一として、
①礼拝を聖別し、②信仰の応答としての十一献金をささげ、
③デボーションで主との祈りの交わりから一日をスタートして、歩むことです。でした。
1. 私たちの信仰のテスト (14:22〜26)
私たちの人生には、人の力ではどうすることもできない逆風や嵐が襲って来る。どんなに大きな家に住んでいても、どんなにがっちりした4輪駆動の車に乗っていても、決して避けることのできない、さまざまな人生の波風が起こり、迫ってくる。ここで、弟子たちが経験した嵐にはもっと複雑な意味がある。
なぜか?彼らは自分勝手に湖に漕ぎ出したのではなく、イエス様に無理に「強いて」舟に乗り込まされたのだ。主の言葉に従った結果、逆風にあって、波に悩まされた。弟子の気持ちは複雑だったに違いない。 あなたはどうか? 思うようにならない問題が起こると誰かのせいにしたくなる。弟子たちの心には、主に対する、苦い思いが起こっていたかも知れない。私たちの信仰は、主にテストされ、訓練される。
それはあなたの霊的成長のためである。主は愛する者を訓練される。主に訓練される時、落ち込んではならない。
ヘブル 12:7「訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。」
イエス様が見えなくなる。弟子たちは、夜中に湖の上を歩いて来られる主の姿を見て幽霊だと思った。あなたも、主に対して反発の思い、にがい思いが心を占めていると、主イエス様が見えなくなる。そばに来られても恐れてしまうのである。
2. 主イエス様との出会いの信仰 (14:27〜33)
信仰が試され、悩みや苦しみに遭う時ほど、主は、あなたのそば近づいておられる。今日も人生の様々な苦しみや問題のただ中で、多くの人が主イエス様に出会い触れられる。
主の御言葉に従って、その結果、辛く、苦しい思いをした人は見捨てられていない。必ず主は、あなたのそばに近づいて来られ、励ましを与え、勇気を与えられる。ペテロは「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じ下さい」と言った。
主と出会い、私たちの信仰は、さらに深く御言葉に従う信仰へと導かれる。
結論: 奇跡(祝福)を経験する信仰とは?
① 主イエス様の御言葉をいだだく。(28節)
28.すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いて ここまで来い、とお命じになってください。」
ペテロは自分も水の上を歩きたいと願い、まず主イエス様の御言葉を求めた。主の祝福を受ける秘訣は、御言葉を求める信仰である。
② 受けた御言葉をそのまま信じて、行動に移す。(29節)
29.イエスは「来なさい。」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエ スのほうに行った。
主は「来なさい。」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエス様の方に行った。御言葉を頂いても、信じて行動に移さなければ何も起こらない。行動にはリスクが伴う。それが信仰である。ペテロは信仰によって、世界で始めて湖の上を歩く人となった。御言葉に従えば、私たちも湖の上を歩くことができるということではない。あなたもペテロのように御言葉に従うことが求められている。
例話:舗装工事の証 ヤコブ 4:6「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」
ところで、ペテロは、主から目を離し、荒れ狂う波を見て、怖くなり、海の中に沈み、溺れそうになる。
問題や困難の中を通されている人に、大切な教訓である。主イエスに目を留め続けることである。
私たちは、周囲の人の言葉や状況や問題に気を取られ、心を奪われてはいけない。風や波に目を留め、主イエス様から目を離すと、落ち込んでしまう。いついかなる時にも主から目を離さない。
あなたが、いつも主を仰ぎ見続けることが、主の祝福を受ける秘訣である。
33節、『イエスを拝んで、「確かにあなたは神の子です。」と言った。』
まだ、主イエス様を信じておられない方は、まず信じて受け入れて下さい。その時、主はあなたの心の内に来て下さり、そこからすべてが始まる。
あなたの今年の歩みが主の祝福で満ちあふれますように。
詩篇 37:4-5 『 主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。あなたの道を 主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。』
主よ、感謝します。
祈りの祭壇を築く、主の祝福を祈る
2007年1月1日 元旦礼拝
聖書:創世記26章15〜29節
説教:滝田新二牧師
15.それでペリシテ人は、イサクの父アブラハムの時代に、父のしもべたちが掘ったすべての井戸 に土を満たしてこれをふさいだ。
16.そうしてアビメレクはイサクに言った。「あなたは、われわれよりはるかに強くなったから、 われわれのところから出て行ってくれ。」
17.イサクはそこを去って、ゲラルの谷間に天幕を張り、そこに住んだ。
18.イサクは、彼の父アブラハムの時代に掘ってあった井戸を、再び掘った。それらはペリシテ人 がアブラハムの死後、ふさいでいたものである。イサクは、父がそれらにつけていた名と同じ名 をそれらにつけた。
19.イサクのしもべたちが谷間を掘っているとき、そこに湧き水の出る井戸を見つけた。
20.ところが、ゲラルの羊飼いたちは「この水はわれわれのものだ。」と言って、イサクの羊飼い たちと争った。それで、イサクはその井戸の名をエセクと呼んだ。それは彼らがイサクと争った からである。
21.しもべたちは、もう一つの井戸を掘った。ところが、それについても彼らが争ったので、その名をシテナと呼んだ。
22.イサクはそこから移って、ほかの井戸を掘った。その井戸については争いがなかったので、そ の名をレホボテと呼んだ。そして彼は言った。「今や、主は私たちに広い所を与えて、私たちが この地でふえるようにしてくださった。」
23.彼はそこからベエル・シェバに上った。
24.主はその夜、彼に現われて仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神である。恐れて はならない。わたしがあなたとともにいる。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加え よう。わたしのしもべアブラハムのゆえに。」
25.イサクはそこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。彼はそこに天幕を張り、イサクのしも べらは、そこに井戸を掘った。
26.そのころ、アビメレクは友人のアフザテとその将軍ピコルと、ゲラルからイサクのところにや って来た。
27.イサクは彼らに言った。「なぜ、あなたがたは私のところに来たのですか。あなたがたは私を 憎んで、あなたがたのところから私を追い出したのに。」
28.それで彼らは言った。「私たちは、主があなたとともにおられることを、はっきり見たのです。 それで私たちは申し出をします。どうか、私たちの間で、すなわち、私たちとあなたとの間で誓 いを立ててください。あなたと契約を結びたいのです。
29.それは、私たちがあなたに手出しをせず、ただ、あなたに良いことだけをして、平和のうちに あなたを送り出したように、あなたも私たちに害を加えないということです。あなたは今、主に 祝福されています。」
序. 新年あけましておめでとうございます。
森の大木の年輪から数百年前の気象状況を調べている学者がいるそうです。
切り倒された木の根株の年輪から時の「経緯」を見る。「経」とは、もとは「徑」と書く。
「徑」は織物をする時のピンと張った縦糸を意味します。「緯」は織物の横糸をさす。地球儀の経度、緯度はこれから来ています。経は縦糸の意味で「時代を縦に貫いて伝わる不変の道理」として使われます。まさに聖書は道理を越えた永遠不変の真理である。希望の見えない時代。そこで時代を貫いて時代を超えて、永遠不変の真理のみことばから、イサクの祝福された秘訣を学びましょう。
序.イサクの生涯に学ぶ
イサク。原語の意味は、「神は笑う」である.年老いていた父アプラハム(l 00歳)と母サラ(90歳)は神の約束を笑ったので、それにちなんで命名された(創世記2l:6)
イサクは、父と同じように生涯の大半をベエルシェバ付近で過ごす。時にこの地に飢饉が起こる。
創世記 26:2「主はイサクに現われて仰せられた。「エジプトへは下るな。わたしがあなたに示す地に住みなさい。」
3.あなたはこの地に、滞在しなさい。わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福しよう。それはわたしが、これらの国々をすべて、あなたとあなたの子孫に与えるからだ。こうしてわたしは、あなたの父アブラハムに誓った誓いを果たすのだ。」
と言われた。そこで彼はゲラルに住み、神の祝福を受け富み栄える。
15.それでペリシテ人は、イサクの父アブラハムの時代に、父のしもべたちが掘ったすべての井戸 に土を満たしてこれをふさいだ。
16.そうしてアビメレクはイサクに言った。「あなたは、われわれよりはるかに強くなったから、 われわれのところから出て行ってくれ。」
しかし、その地に住むペリシテ人がイサクの繁栄えを妬み、ゲラルの地より出て行くことを強いられます。 その後、創世記26章15〜29節である。
この箇所よりイサクの祝福の三つの秘訣をみことばから受けます。
1 祝福の第1は、人との争いは避けること。(15〜22節)
19.イサクのしもべたちが谷間を掘っているとき、そこに湧き水の出る井戸を見つけた。
20.ところが、ゲラルの羊飼いたちは「この水はわれわれのものだ。」と言って、イサクの羊飼い たちと争った。それで、イサクはその井戸の名をエセクと呼んだ。それは彼らがイサクと争った からである。
21.しもべたちは、もう一つの井戸を掘った。ところが、それについても彼らが争ったので、その 名をシテナと呼んだ。
22.イサクはそこから移って、ほかの井戸を掘った。その井戸については争いがなかったので、そ の名をレホボテと呼んだ。そして彼は言った。「今や、主は私たちに広い所を与えて、私たちが この地でふえるようにしてくださった。」
荒野では、井戸は無限の価値を持つ財産です。ゲラルの地より追い出されたイサクは、昔、父アブラハムが掘った、井戸の水を求めます。ペリシテ人がアブラハムの死後、ふさいでおいたものでした。その時、イサクのしもべたちは、新しい湧き水の出る井戸を見つけます。
ところが、ゲラルの人々は「この水はわれわれものだ」といっていちゃもんを付けます。
そこで、① 最初の井戸の名はエセク(争い)と名付けます。
② 次にイサクは、また新しい井戸を見つけます。ところがゲラルの人々はまたいちゃもんを付けます。そこで、この二番目の井戸をシテナ(敵意〉と名付けました。
③ イサクは、そこからさらに移動して、新しい井戸を見つけます。そこの井戸は嵐がなかったので、、第三はレホボテ(広々とした所)と名付けました。
井戸を次々に奪われる。これは一族全体に係わる大損害です。しかしイサクは、平和を愛する人でした。さすが、クリスチャンホームの2世ですね。再三の虐待と屈辱を受けても、イサクは忍従し、柔和、謙遜、寛容、をわがものとしたのです。その結果、最初の物よりももっとすばらしい物を見出したのです。彼は、この地で、最終的はシブア(誓い)〈創世記26:33)の井戸を最終的に堀り当てたのです。
32.ちょうどその日、イサクのしもべたちが帰って来て、彼らが掘り当てた井戸のことについて彼に告げて言った。「私どもは水を見つけました。」
33.そこで彼は、その井戸をシブアと呼んだ。それゆえ、その町の名は、今日に至るまで、ベエル・シェバという。
この地こそ、神に祝福されベエルシェバとして今日に至っています。
2. 祝福の第2は、祈りの祭壇を築くこと (23〜25節)
23.彼はそこからベエル・シェバに上った。
24.主はその夜、彼に現われて仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神である。恐れて はならない。わたしがあなたとともにいる。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加え よう。わたしのしもべアブラハムのゆえに。」
25.イサクはそこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。彼はそこに天幕を張り、イサクのしも べらは、そこに井戸を掘った。
井戸の争いの後に、イサクはベエルシェバへとに上ります。
その夜主が彼に現れ「わたしはあなたの父アブラハムの神である。恐れて はならない。わたしがあなたとともにいる。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加えよう。わたしのしもべアブラハムのゆえに。」という約束が語られます。
そこでイサクは父アブラハムが行なったように主のために祭壇を築きます。
(26:25)。「イサクはそこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。彼はそこに天幕を張り、イサクのしもべらは、そこに井戸を掘った。」
第1にしたことは「祭壇」を築くことでした。
「祭壇」とは、神を「礼拝する場所」を備えることです。イサクは、何よりも一番最初にしたことは、主を第1として、礼拝すること、kまいとの祈りの交わり、祈りの祭壇を築くことでした。
私たちも、今年も毎週の主日の神の民として「会衆礼拝」をささげましょう。
毎日のデボーションでの個人礼拝。主との祈りの交わり、人格的な関係を築き上げましょう。
第2は、「天幕を張りました」は「天幕は住居」を構えることです。家族との家庭生活です。、
第3は、「井戸を掘りました」そして「井戸は生活の糧」です。「仕事」と言ってよいでしょう。
私共は、いいえ私自身は、逆の生き方をしている。よい仕事(井戸)にやっきになり、住居(天幕)で苦労し、最後に神(信仰)でも求めようとする。ここで考えたいのです。
私たちは、今朝、選び直しが求められているのです。
私たちが信仰を持って生きるとは、生き方の順序を変えることです。生活の優先順位を変えることです。形式的な順序でなく、時間の長さではありません。重点がどこにあるのかという内容的な順序です。信仰生活において今一度 第1に「神礼拝」。第2に「家庭」、第3に「仕事」の秩序を回復したいのです。
3. 祝福の第3は、主を第一とし、主の祝福を受ける。 (26〜29)
26.そのころ、アビメレクは友人のアフザテとその将軍ピコルと、ゲラルからイサクのところにや って来た。
27.イサクは彼らに言った。「なぜ、あなたがたは私のところに来たのですか。あなたがたは私を 憎んで、あなたがたのところから私を追い出したのに。」
28.それで彼らは言った。「私たちは、主があなたとともにおられることを、はっきり見たのです。 それで私たちは申し出をします。どうか、私たちの間で、すなわち、私たちとあなたとの間で誓 いを立ててください。あなたと契約を結びたいのです。
29.それは、私たちがあなたに手出しをせず、ただ、あなたに良いことだけをして、平和のうちに あなたを送り出したように、あなたも私たちに害を加えないということです。あなたは今、主に 祝福されています。」
① 第1に、主の祝福は、回りの人々の間に和解と平和を与える。
イサクを妬み、ゲラルから追い出したアビメレクはイサクを訪ねて、「和解と平和の契約を結ぶために来ました」 迫害者アビメレクをして、イサクに「あなたは主に祝福されたお方です」(創世記26:29)と告白させたのです。主の祝福は、敵対する者を、和らげ和解へとへと導くのです。 主の祝福は、あなたの回りに、あなたの家族全体に及び、満ち溢れるのです。
例話: ある女性の証
二十年前、ミッションスクールを卒築した一人の女性がいた.彼女は職場結婚をし、三女をもうけたが、両親はその結婚に初めから反対であった.転勤となり大阪へ,その後たよりの主人は仕事を辞め、酒とギャンブルに溺れ。、生活が乱れ、彼女の前から蒸発し、いなくなりました。彼女は生活のため幼いわが子を友人に預け、昼・夜となく働きました。寒い冬の夜のこと、疲労困憊して、帰宅すると侍ち疲れたのか、子供たちが身を寄せ合ってコタツで眠っていました。いつも遅くなったタ食は、l 1時近くであった。彼女は両親の女は元へ帰って詫びたいと幾度も思いました。しかし若き日の過ちを思うと自分が許せなくなり勇気はなくなりました。日に日に生活は益々、困窮し、失望感と絶望感に襲われました。彼女は疲労し途方に暮れます。.ある年の暮れ、子供たち一人ひとりに手紙を書いた。遺書です。自分の居場所がこの地にないことを悟り、死に場を求めたが、その日は死ねなかったとそうです。
そして数日後、ふと女学生の頃に学園で歌った讃美歌を思い出し、清らかに死にたいと思った。日曜日に教会の門をくぐり、主日礼拝がなされ、彼女も涙ながらに歌った。青春時代の若き日のことが昨日のように甦った。すると彼女に生きる勇気が湧いてきたのです。それは人が与える勇気ではなく天的なもの、主イエス・キリストの御霊・聖霊様によるものでした。
今までは人に信頼し、人に頼り、人に裏切られてきた。しかし、これからは真の神様・主イエス・キリスト様を信じて従おう。そしてこの子ども達のために生きよう。主は愛と勇気を、将来に対する希望を与えられたのです。やがて、彼女は生まれ故郷に戻り、今までの事を両親に詫ぴました。春が来て、雪が解け、水が流れるように、今までの事に和解が与えられ、家族も救われ、家族とも交わりも回復していったのです。そして再起をかけました。今では唯一の楽しみは、子どもたちと聖日礼拝を守ることでだそうです。
② 主の祝福は、経済的にも霊的にも満ち溢れる。
12.イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た。主が彼を祝福してくださったのである。
13.こうして、この人は富み、ますます栄えて、非常に裕福になった。
私たちが主を第1として、礼拝を聖別し、信仰の応答としての十一献金をささげ、デボーションで主との祈りの交わりから一日をスタートして、歩むことです。
神第一、家庭第二、仕事(学校・部活)第三です。
その時主は、あなたの今年の歩みに勉強においても、仕事においても、百倍の祝福をもた