2009/11/16

主イエス様の十字架の叫び 

〜エリ・エリ・レマ・サバクタニ〜

2009年11月15日
聖書:マタイの福音書 27章45〜50節
説教:滝田新二牧師

45.さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。

46.三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは「わ が神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。

47.すると、それを聞いて、そこに立っていた人々のうち、ある人たちは、「この人はエリヤ を呼んでいる。」と言った。

48.また、彼らのひとりがすぐ走って行って、海綿を取り、それに酸いぶどう酒を含ませて、 葦の棒につけ、イエスに飲ませようとした。

49.ほかの者たちは、「私たちはエリヤが助けに来るかどうか見ることとしよう。」と言った。

50そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。

序. 今日のみことばは、詩篇22:1で旧約の神の人・ダビデ王が預言したメシヤ(救い主)の叫びである。  十字架上のイエス様の叫びの御言葉から、共に主の恵みと祝福を受けよう! 

1.   イエス様の叫び(45〜46節)

 主イエス様は、なぜ十字架につけられなければならなかったのか? 十字架で、なぜ、このような叫びをしなければならなかったのか?それは、私たちのためであった。 イエス様のお心を自分の心とすることができるだろうか? 十字架の身代わりにより救われた一人一人である。 だから、救いの恵みに感謝しつつ、その救いの恵みを伝えていく大切な使命がある。

2.   イエス様の叫びと私たちの罪 (マタイ3章15〜17節)

 父なる神は、イエス様をご自分の「かけがえのないひとり子」「これを愛する」と宣言された。そのイエス様を見捨てなければならない、ここに愛と罪との厳しい交差がある。罪がどんなに恐ろしいものか、私たちは知っているようで知らない。(ローマ5:12・23)

 主イエス様は、罪について、山上の説教で教えられた。マタイの福音書の7章1-5節に目を留めてみよう。1.さばいてはいけません。さばかれないためです。2.あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなた がたも量られるからです。3.また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつか ないのですか。4.兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。 見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。5.偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の 目からも、ちりを取り除くことができます。

 私たちは簡単に人を裁く者である。裁く心はどこから来るのか? それは自己中心にものを見ていくから人を裁いてしまう。自分を正しいとする物差しがあるから人を簡単に裁いてしまう。 裁く心が膨らむと、やがて人は傲慢になってしまう。(参照:マタイ5:21-22、43-44、48)48節「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」この完全なお方、完全な存在はイエス様以外に誰がなり得るようか? 一方、私たちは本当に自己中心で、罪のゆえに、不完全そのものである。

3.   イエス様の叫びと私たちの救い (45節) 

 「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と主は叫ばれた。イエス様は、私たちの罪の姿を見過ごすことはできなかった。主はあなたを見捨てることができなかった。 ご自分の身をもって十字架で「彼を赦して下さい。わたしは彼を愛しているから。彼のためにわたしを裁いてください。」と祈られた。主はあなたの身代わりにならずにはいられないで、自ら進んで身代わりになって下さった。しかし、「どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」との叫びは、誰一人、神の御前には立つことができない罪の裁きの現実、神の厳しさを示している。イエス様は、あなたを愛して、自らの身を十字架の上に捧げてくださったのである。それゆえに、私たちは、イエス様を信じる信仰によって、罪が赦され、傷が癒され、回復する。

結 論:  キリストの心を、私の心に!

①  キリストの愛の心を受けよう。 十字架で現されたキリストの愛の心を受けよう。主の赦しを受けよう。主の癒しをうけよう。主の愛であなたの心が満ち溢れるように。キリストの愛の心を今日、心に刻ませて頂こう。

②   キリストの愛を届けよう。 イエス様の愛を頂いて、私の罪が赦されたことだけで済まされない。この滅びをあなたの家族に招いてはならない、友人や知人にこの滅びを招いてはならない。主の叫びを私たちの心の痛み、叫びとし、そしてとりなす者、祈る者、伝える者、愛を現すことのできる者と変えて頂こう!

例話: ロナルド・レーガン元アメリカ大統領の養子マイケル・レーガン氏の父と子の関係の癒しと愛の回復の物語。

 11月29日の「秋の伝道礼拝」やクリスマスは伝道のチャンスです。主の救いの希望を伝える者、主の愛の配達人となろう。 「私は福音を恥とは思いません。福音はユダヤ人をはじめキリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」(ローマ1:16)        

主よ、感謝します

2009/11/13

主イエス様の十字架

〜自分を捨て、自分を与える〜

2009年11月8日
聖書:マタイの福音書27章33〜44節
説教:滝田新二牧師

33.ゴルゴタという所(「どくろ」と言われている場所)に来てから、

34.彼らはイエスに、苦みを混ぜたぶどう酒を飲ませようとした。イエスはそれをなめただけ  で、飲もうとはされなかった。

35.こうして、イエスを十字架につけてから、彼らはくじを引いて、イエスの着物を分け、

36.そこにすわって、イエスの見張りをした。

37.また、イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである。」と書いた罪状書きを  掲げた。

38.そのとき、イエスといっしょに、ふたりの強盗が、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架 につけられた。

39.道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって、

40.言った。「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。 十字架から降りて来い。」

41.同じように、祭司長たちも律法学者、長老たちといっしょになって、イエスをあざけって 言った。

42.「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王さまなら、今、十字架から降り てもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。

43.彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。『わた しは神の子だ。』と言っているのだから。」

44.イエスといっしょに十字架につけられた強盗どもも、同じようにイエスをののしった。

序. 若者は「自分には居場所がない」という。家庭でも学校でも、親や先生に引かれたレールがあるだけで、そこから外れてしまうと、もう自分の居場所がなくなってしまう。主イエス様のご生涯は、初めから、この世に居場所はなかった。主の十字架は、居場所がない人に、本当の生きる居場所を与え、悲しみと苦しみむ人の友となり、愛と救いを与えるためである。

1.  十字架で、ご自分を捨てられたイエス様 (33〜44節)

① 麻酔効果を拒まれた主(34節)

33.ゴルゴタという所(「どくろ」と言われている場所)に来てから、34.彼らはイエスに、苦みを混ぜたぶどう酒を飲ませようとした。イエスはそれをなめただけで、飲もうとはされなかった。
十字架の苦しみを和らげるためのぶどう酒についてマルコは「没薬を混ぜたぶどう酒」であったと語っている。没薬には神経を麻痺させる効果があったが、イエス様はそれを拒み、痛みと苦痛のすべてを受け取られた。それは私たちの痛みや苦しみ、あなたの傷を癒されるためである。

② 衣が分けられた主(35-36節)

35.こうして、イエスを十字架につけてから、彼らはくじを引いて、イエスの着物を分け、36.そこにすわって、イエスの見張りをした。
マタイは、詩篇22篇18節の預言「彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします。」が成就したと語る。主はすべてを捨て、与えられた。

③ 嘲りを受けられた主 (39-44節)

39.道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって、40.言った。「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。 十字架から降りて来い。」41.同じように、祭司長たちも律法学者、長老たちといっしょになって、イエスをあざけって 言った。42.「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王さまなら、今、十字架から降り てもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。43.彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。『わた しは神の子だ。』と言っているのだから。」44.イエスといっしょに十字架につけられた強盗どもも、同じようにイエスをののしった。

群衆は、イエス様に王としての誉れや賛美。栄光や賞賛に代わって、罵声と怒号、嘲りを浴びせた。群衆の姿は私たちである。私たちは自分が何者であるのか知らず。どこから来てどこに行くのか?それを知らない。迷える子羊救うためにイエス様は自分を捨てられた。
(参照:ピリピ人への手紙2章6〜8節)6.キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えな いで、7.ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。8.キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の 死にまでも従われたのです。

2. 十字架で、ご自分を与えられたイエス様 (37〜38節)

37.また、イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである。」と書いた罪状書きを  掲げた。

38.そのとき、イエスといっしょに、ふたりの強盗が、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架 につけられた。

「ユダヤ人の王」という罪状書きが掲げられた。当時の世界中で使われていた「ヘブル語・ラテン語・ギリシャ語」の三カ国語で書かれた。実際にイエス様は世界の救い主・王であった全主の王座は黄金ではなく、主の王座は十字架であった。イエス様がお生まれになる700年前に預言者イザヤは預言しました。イザヤ書53章3〜6節。

3.彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむける ほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。4.まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は 罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。5.しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼 への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。6.私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、 主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。イエス様は、神の子羊として、私たちの救いのために、与えられ、愛と救いを完成して下さいました。

結 論: 十字架の道を歩もう  〜自分を捨て、自分を与える〜

1. 自分を第一とする生き方を捨てよう! (マタイ16章24〜26節)

24.それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、 自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」25.いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだ すのです。26.人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。 そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。

イエス様は、自分を捨てて、あなたのために十字架を背負って歩まれた。私たちも、自分を第一とする生き方を捨てよう。それが本当の幸せになる祝福の道だからである。(例話①:盲目の青木優牧師)

2. 他者の為に、自分を与えよう! (ヨハネ12章24節・使徒20章35節)

ヨハネの福音書 12章24節「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」    使徒20章35節「このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、「受けるよりも与える方が幸いである。」イエス様は、あなたのために、十字架でご自分を与えられた。ここに祝福されたクリスチャンライフ、私たちの新しい生き方がある。また教会のあり方、使命がある。あなたが、他者(家族や友・弱者・病人)のために自分を与える生き方、これが幸せな人生の秘訣である。

 例話②:『与える事の喜び』について

「きびしい競争と貪欲なこの世界で、与える事の喜びに触れる機会が失われていることは悲しいことです。私たちの多くは、幸福は所有することにあるかのように生きています。しかし、私は、持っているがゆえに本当に幸福だという人を誰も知りません。真の喜び、幸せ、内なる平安は、自分自身を他者に与えることから来ます。幸福な人生とは、他者のための人生です。」(ヘンリ・ナーウェン著「愛されている者の生活」P120より)

 今朝の聖餐式は、イエス様の自分の命を捨てて、与え、私たちと分かち合う祝福である。

主よ感謝します。

2009/10/28

恵みの革命

~宗教改革が再確認した信仰義認~

2009年10月25日宗教改革記念礼拝
聖書:ローマ人への手紙3章20〜24節
説教:滝田新二牧師

20.なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。

21.しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。

22.すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。

23.すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、

24.ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

序. マルチン・ルターは、1505年落雷に打たれて大転換をする。カミナリに神の怒りを見、死の恐怖におののく、21歳のドイツ青年は献身の誓いをし、将来が約束された法律の学びを捨てて、修道院に飛び込む。まじめに魂の救いを求める修道士がここに誕生した。宗教改革の夜明けである。「塔の経験」を通してローマ書の研究を通じて、信仰義認による救いの恵みを体験した。恵みの革命である。

1.  当時のカトリック教会の「救い」   〜行いによる救い〜

20.なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないから です。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。

   ◎ 信仰(50%)+ 行い(50%) =  救い(100%)

  当時のカトリック教会では、魂の救いには、神の恵みだけでは不十分である。救われるためには、良い行い(善行)を積まなければならないことを教えていた。ルターの課題は「いかにしたら、私は恵み深い愛の神が私のものにするることができるのか、私の魂はどうすれば救われるのか?」であった。ルターの修行は難行苦行の連続であった。しかし、修行を重ねれば、ますます、自分の罪深さを知る、恐れおののいた。「私はこのような義の神を憎んだ」と後に語っている。彼はノイローゼになり、先輩の修道士が「気晴らしに聖書でも読んでみないか?」とアドバイスした。当時聖書は軽んじられていた。修道院の学びは、アリストテレスの哲学が中心であった。まじめな青年ルターは今度は聖書の研究に没頭し、ついに1512年、28歳の時に聖書学博士号を受ける。翌年からビッテンベルク大学で聖書学教授として、詩篇・ローマ書・ガラテヤ書の講義を始める。実は、この聖書研究が、マルチン・ルター生涯を変えることになる。つまり本当の信仰、福音の理解へ、長年求め続けた神の救いの体験することになる。

2. 「信仰義認」の再発見    〜信仰により、恵みによって救われる〜

22.すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。

23.すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、

24.ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認めら れるのです。

   ◎ 信仰(100%)+ 行い(0%) =  救い(100%) 

「信仰義認」の核心は「神の義」の解釈にある。従来カトリック教会では、「神の義」を神が義である。義である神が、それにより罪人を裁かれる義であると解釈していた。しかし、ルターは「神が不義である罪人を義と認めるところの義」であると理解した。ローマ書3章24節では、「ただ神の恵により、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」と語られている。(参照:Iペテロ2:22−24)
主の十字架の身代りの苦しみは、私たちの救いの土台である。死の苦しみを主に味合わせた罪は、主ご自身のものではなく、私たちの罪であった。一方、義とされた人の義は私たちの義ではなく、キリストの義が信仰によって与えられた。もはや、罪人は善行(行い)を積んで義人とならなくても良い。主が私たち罪人のために身代わりに十字架に架かり、死んで、3日目に甦られた。

 十字架と復活を信じる信仰によって誰でも信じる者に神の義が与えられ救われる。永遠の命が与えられる。義認の恵みを信仰によって受ければ充分である。 マルチン・ルターはついに、あのイエス様が、十字架の死と復活により完成された信仰による救い、パウロが語った信仰義認の福音を発見した。 1517年10月31日ビッテンベルク教会の扉に「95箇条の提題」という質問書を張り出した。これが,当時ヨーロッパ全土に広がり宗教改革運動が広がり、プロテスタント教会の誕生を見た。

3.  信仰義認は、一方的な1回限りの神の恵みである

ローマ3:24で「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」とある。私たちの行った義の業(善行・業績・努力)によってではなく、ただ「神の恵みによって」私たちは救われた。「義認」は1回限りの恵みで、「聖化」は一生をかける恵みである。

 ①「義認」=信仰により、新しく生まれ変わる。 ②「聖化」=みことばと聖霊様により、キリストの似姿へと霊的に成長する。 ③「栄化」=死後、キリストと同じ姿に変えられる。救いの完成。

結論: 恵みの革命が始まる。

 宗教改革の三大原理『ただ聖書のみ、ただ信仰のみ、ただ恵みのみ』の原点に立返り、私たちは、ただ信仰による救いを感謝し、信仰義認の恵みに生きよう!

例話:人種差別の南アフリカで黒人指導者マンデラ大統領が誕生した。そこで和解のプログラムが実行された。元警官バンドブロック囚人が黒人青年を射殺した罪を家族の前で告白した。驚くべき神の恵みの御業が起こった。

2009/10/13

十字架を背負う

〜イエス様とクレネ人シモン〜

2009年10月11日
聖書:マタイの福音書27章32〜34節
説教:滝田新二牧師

32.そして、彼らが出て行くと、シモンというクレネ人を見つけたので、彼らは、この人にイエスの十字架を、むりやりに背負わせた。

33.ゴルゴタという所(「どくろ」と言われている場所)に来てから、

34.彼らはイエスに、苦みを混ぜたぶどう酒を飲ませようとした。イエスはそれをなめただけ で、飲もうとはされなかった。

序. 主は十字架を背負いヴィア・ドロローサを歩まれた。主の十字架を背負ったシモンの物語である。

1. イエス様、十字架を背負う  〜ヴィア・ドロローサ(悲しみの道)を歩む〜

 イエス様は、重い十字架を背負って、アントニア塔(要塞)を出てゴルゴタの丘までの約500mのヴィア・ドロローサ(悲しみの道)を、何度も、よろめき倒れながら歩まれた。(参照ヨハネ19:17)

2. シモン、十字架を背負う (マタイ27:32)

(1) シモンはどんな人であったか? 

①シモンは、クレネ人であった。(クレネとは、現在のアフリカのリビア地方の村)

②シモンは、ユダヤ人であった。(シモンという名前はユダヤ人で、過越の祭りでエルサレムに来た)

③シモンは、初代教会で知られたアレキサンデルとルポスの父。(マルコ15: 21。ローマ16:13) シモンの子ルポスは、AD56年頃(十字架から30年後)ローマで、母とパウロに仕えていた。 ルポスは、後にスペインの教会の監督になる。(使徒13:1で、シモンはアンテオケ教会の指導者)

(2) シモンはイエス様の十字架を背負う  (ローマ兵から強制されて背負うことになる)  

3. シモン、クリスチャンとなる (ルカ23:26)

「彼らは、イエスを引いて行く途中、いなかから出て来たシモンというクレネ人をつかまえ、この人に十字架を負わせてイエスのうしろから運ばせた。」 シモンは自分が身代わりに背負ってあげた目の前の男は一体誰かと考えた。行きずりではあったが、この不思議な男の最後までをじっと見つめた。
(マルコ15:39)ローマの百人隊長の「この方はまことに神の子であった。」と叫んだように、同じような感想を持ったに違いない。やがて、シモン自身イエス様を信じ、主に従う家族となった。彼は、福音をクレネに持ち帰り、妻と二人の男の子を信仰に導き、家族を挙げて素晴らしい証の生涯を送る。

結 論: 主の十字架から祝福が注がれる!  (マタイ16:24)

1. あなたの十字架を受け取る

私たちの人生には、課せられた十字架がある。肉体的なハンディを負うこと。病気や失業。学校や職場で嫌な仕事や責任を負わせられる。シモンは十字架を背負うことで主を信じたように、十字架を真正面から受け取るときに、初めて恵みの世界が開かれる。あなたに課せられた十字架を感謝して受け取ろう!

2. あなたの十字架を背負う 

マタイ 16:24 イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」

①「自分を捨てる」こと。

主に出会う以前の、生き方、考え方、価値観を捨てる、転換するということである。自分の経験と能力により頼む生き方から、主イエス様だけにより頼む生き方への転換である。

②「自分を十字架につける」こと。

「十字架につける」とはギリシャ語の「アラトオー」で、「背負う」と訳されている。本来は自分が背負うのではなく、十字架の故に、十字架に従って、十字架に架けられるという意味。 あなたの重荷、痛み、悲しみは、自分では背負えない。主の十字架のもとに来て、ゆだねるのである。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2章20節)

3. あなたのイエス様を仰ぎ見よう (イザヤ46章3〜4節)

シモンは、イエス様の心臓の鼓動を近く聞き、主のお心が理解できた。シモンは十字架を背負い、自分自身の罪の重さを知った。実は、イエス様がシモンの身代わりとなって十字架を背負われたことを知ったのである。私たちも十字架を背負うことによって大きな恵みに預かる。

 「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」(ヘブル12:2)

イザヤ46章3-4節3.わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からに」 なわれており、生まれる前から運ばれた者よ。4.あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わ たしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救 い出そう。

 あなたが喜んで十字架を背負う決意をすると、主イエス様が、共にを背負って下さる。それどころか主はあなた自身を、あなたの将来を、あなたの家族を、背負って祝福してくださる。 

主よ感謝します。

2009/09/29

いばらの冠

〜主の傷が、あなたを癒し解放し祝福する〜

2009年9月27日
聖書:マタイの福音書27章26〜31節


26.そこで、ピラトは彼らのためにバラバを釈放し、イエスをむち打ってから、十字架につけ るために引き渡した。

27.それから、総督の兵士たちは、イエスを官邸の中に連れて行って、イエスの回りに全部隊 を集めた。

28.そして、イエスの着物を脱がせて、緋色の上着を着せた。

29.それから、いばらで冠を編み、頭にかぶらせ、右手に葦を持たせた。そして、彼らはイエ
スの前にひざまずいて、からかって言った。「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」

30.また彼らはイエスにつばきをかけ、葦を取り上げてイエスの頭をたたいた。

31.こんなふうに、イエスをからかったあげく、その着物を脱がせて、もとの着物を着せ、十 字架につけるために連れ出した。

序. 今日のテーマは、映画『パッション』と同じ「キリストの受難(パッション)」である。
主イエス様は、十字架刑の前に、ローマ兵から苦しみを受けられた。主の3つの苦痛をみことばから学ぼう。

1. 肉体的な苦痛

①  むち打ち刑 (26節)

むちは、1mのひも4〜5本の先端に金属や先のとがった骨が結びつけられていた。ー回たたけば、皮膚は破れ、肉や内臓まで飛び出し、骨が砕かれて、時には死ぬこともあった。ユダヤの律法では39回までだが、ローマの法律には数に制限がない。実に恐ろしい刑罰が、ローマのむち打ちの刑である。

②  いばらの冠  (29節)

ローマ兵は、イエス様に、いばらの冠をかぶせる。 主の受難の象徴の一つである。 王様の王冠の代わりに、いばらの冠を頭に突き刺した。イエス様の額からは、血潮が流れ、主の顔は血に染まった。

③  棒で頭をたたく (30節)

王様の杖・しゃくの代わりに、葦の棒を持たせる。その棒を奪い、いばらの冠をかぶせられたイエス様の頭を幾度もたたいた。神の御子・救い主が、ここまで傷つけられるという史上最悪の出来事である。

2. 心理的な苦痛

①  皮肉 (緋色のマント 28節)

緋色の外套は、王の着る服。美しいマントではなく、薄汚れたローマ兵の赤い上着をかぶせた。

② あざけり (29〜31節)

兵士たちは、ひざまづいて「ユダヤ人の王、万歳!」と言って、頭をたたき、からかい、あざけった。

③ つばきをかける (30節)

つばを吐きかける行為は、人間を最も侮辱する行為。私たちはどうか?主に、栄光を帰しているか? 礼拝や感謝を献げ、神と人とを愛し赦し、祈ります、と言いながら、そうしていなければ、主を侮辱することではないか。反対に、主と同じように私たち自身が、恥や傷を受けることもある。

3. 霊的な苦痛 (マタイ26:42 )

「イエスは大声で、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』と叫ばれた。これは、『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」(マタイ27:46)
 主は、ユダやペテロ弟子たちから裏切られた。また、私たちの罪の身代わりに、十字架で犠牲の死を受けられた。そして父なる神から、見捨てられる霊的な苦痛を受けられた。そのすべてを堪え忍ばれた。
 
結 論: 主の傷が、あなたを癒し、解放し、祝福される。(イザヤ書53章3〜5節)

イザヤ書53章3〜5節

3.彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむける ほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。

4.まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は 罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。

5.しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼 への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

(1) 主の傷が、あなたを癒す (5節)

 私たちが生きていく時、苦しみがある。 どうすれば、痛み・傷は癒されるのか? 忘却によって?
過去を忘れることは、私たちが苦い想い出と向き合い、悔い改めて、私たちの心が変えられ、成長する機会を逸することになる。癒しは、まず第一に、想起することである。過去の傷ついた記憶に触れ、恐れずに、光の中に戻すことである。第二に、あなたの人生の物語と神の物語を結びつけることである。 あなたの傷や痛みが、イエス様の十字架の苦難に結び付いていることを知る。癒しは、あなたが過去に苦しんだ時、実はイエス様が一緒にあなたと共に十字架で苦しまれたことを知ることから始まる。
 やがて、あなたは運命の鎖から救い出され、主の恵みの中で、主の働かれる現実を知るようになる。

(2) 主の傷が、あなたの罪と病を癒される (5節)

主の血潮によって、あなたの罪と病は癒され、神との和解がもたらされた。あなたは主の赦しを受ける。
あなたの身代わりとなられたイエス様を信じて、あなたの心に受け人れるなら、あなたは今日救われる!

(3) 主の傷が、あなたを呪いから解放する

いばらは呪いの象徴である。創世記の3章の人間の堕落の中で「イバラ」が記されている。イエス様の血潮は、あらゆる呪いから私たちを解放された。 もはや先祖の崇りもない。家柄も血筋も関係ない。イエス様はあなたを解放し、あなたは自由とされた。 信じる者にとって、今や十字架は祝福の基であり、十字架から主の祝福が溢れ、注がれている。
(例話:幸ちゃんのお母さんの顔のヤケド)  
主よ感謝します。

2009/09/09

聖霊様に満たされた信仰生活

〜主イエスの御名によって立て〜

2009年8月30日
新約聖書:使徒の働き3章1〜10節

1.ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。

2.すると、生まれつき足のきかない男が運ばれて来た。この男は、宮にはいる人たちから施し を求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていた。

3.彼は、ペテロとヨハネが宮にはいろうとするのを見て、施しを求めた。

4.ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい。」と言った。

5.男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。

6.すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って、

7.彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、

8.おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行った。

9.人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。10.そして、これが、施しを求めるために宮の「美しの門」にすわっていた男だとわかると、この人の身に起こったことに驚き、あきれた。

1.  希望がない人生(1〜2節)  

 生まれながら足の不自由な男(40歳 参照4:22)に起こったすばらしい主の御業について、そして聖霊様に満たされた信仰生活について、主の御言葉に聴こう。この男はエルサレムの神殿の「美しい門」のそばまで運ばれ、物乞いすることが日課になっていた。  希望のない人生を送っていたこの男がどうしてここへ連れて来られていたのかは不明である。ただ、人間の意志を越えた、神のご計画がその背後にあったことを聖書は伝えている。

2. 人生は出会いで変わる (3〜5節)

 当時、敬虔なユダヤ人は朝の9時・12時・午後3時の3回、神殿で祈っていた。ペテロとヨハネも午後3時に宮に行った。そこでこの男と出会った。ここでは「見る」という動詞が4回使い分けられている。まず足の不自由な男はペテロとヨハネが神殿の境内に入ろうとするところを「見て」施しを請う。すると、今度は、ペテロとヨハネは、その男をじっと見て「わたしたちを見なさい」と言う。愛による深い同情心がそう言わせた。人は出会いによって変わる。

3.  祝福された人生   〜主イエス御名によって〜 (6〜10節)

 6節で、ペテロは「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって歩きなさい。」と宣言した。この男にとって一番必要な物は何か?お金より大切な物がある。この男が自分で生きていけるようにしてあげることである。イエス様によって、この男は、救われ、癒され、立ち上がった。(参照4:10)

結論: 『主の御名によって立ちなさい!』

① 『主の御名によって立ちなさい!』という宣言の御言葉が与えられている。私たちクリスチャンには、この世の人々が与えることのできいなものがある。それは誰にも奪われることのないもの、与えても尽きることのない宝を主から委ねられている。「イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」と宣言できる神の御言葉である。

② 『主の門に入って、救われなさい』(ヨハネ10:9) 主はこの男の長年の祈りに答えられた。他の人と一緒に自分の足で礼拝を献げ、自分の口で主を賛美することであった。だから、この男が最初にしたのは、二人と一緒に宮に入り、主を賛美し感謝の礼拝を献げた。イエス様は言われた「わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。」(ヨハネ10:9) あなたはこの教会に導かれながら、命の門の傍らに置かれたままの状態にいないか?イエス様という門を眺めながら一生を終わるつもりか?永遠の神の都にあこがれながら、魂の救いよりも、金や銀を追い求める人生をやめることが事ができずにいないだろうか? イエス様の御手は十字架上であなたに広げられている。この門は自分の罪深さを認めて悔い改める人のためには無限に広い。しかし、この門を狭くしているものがある。それはあなたの高慢な心にある。今こそ、主の名によって立ち上がり、主の救いの門をくぐろう!

2009/08/17

平和をつくる人は幸いです

2009年 8月 16日 敗戦記念礼拝
新約聖書: マタイの福音書 5章9節
説教:滝田新二牧師

平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。

序. 本日は64回目の敗戦記念礼拝である。平和を望まない人はいない。 しかし現実はどうだろうか?世界は平和だろうか? また、あなたの職場・学校・家庭は平和だろうか?聖書の教える「平和」とは、ヘブル語のシャローム、ギリシャ語ではアイレーネである。この言葉は、単に戦争や争いがない状態を意味するのではなく、共同体の中に神の祝福が満ち、人々の間に豊かな調和があり、全体として力に満ちた状態を指している。 主イエス様は「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。」と教えられた。単に、平和を愛する者ではない。平和は「あるもの」ではなく「つくるもの」。そして平和をつくる者は「神の子」と呼ばれるのである。どうすれば平和がつくれるのだろうか?

第1は、 神との平和(神と和解する) (ローマ人への手紙 5章1節)

 なぜ、御子はこの世に降誕されたのか?神は平和をつくり出すために、御子を遣わされた。罪の故に、滅びへと歩んでいる私たちのためにである。主は、どのようにして、私たちを救い、平和をつくり出して下さるのか? パウロは「その十字架の血によって平和をつくり」(コロサイ1:20)と述べている。 それは、私たちが神との平和をいただくためであった。「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」(ローマ 5:1)

 第2は、 自分との平和(自己中心から解放される)(ヘブル人12章14節)

「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。」(ヘブル 12:14 )
 自分自身と和解することである。あらゆる争いは結局の所、自分を第一と考える利己主義から生まれる。自分のメンツやプライドにこだわる人、自分のことばかり気にしている人は平和をつくることができない。良いと思ってしたことが誤解され、中傷されても、意に介さずに、ただ神の栄光が現されることを願っている人こそ、平和をつくる幸いな人である。

 第3は、 人との平和(人との和解を具体的に心がけ、行動する)(ローマ人への手紙12章18節)

 「あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。」(ローマ 12:18)まず無益なおしやべりを控えること。告げ口、うわさ話という薪がなければ、争いの火は消える。事実をできるだけ公平に突き止めること。誤解や偏見や一方的なきめつけはないか、どうしたら仲直りできるか、祈り、冷静に考えることである。へりくだって和解の行動を起こす人こそ、平和をつくる幸いな人である。こうして、私たちは、人と人の間に平和を作ることができる。夫婦や親子、教会の兄弟姉妹との関係で平和をつくる神の子となる。私たちを神と和解させるために、主イエスは天の栄光を捨てられた。そればかりか、恥辱の十字架に自分のいのちを捨てられた。このような無私のイエス様を私たちの心の王座に迎える時、私たちも平和をつくる人に変えられる。トラブルメーカーではなく、ピースメーカーに変えられよう! 聖書の平和「シャローム」とは人間の最高のしあわせをつくり出すものすべてを意味している。この山上の説教は「この世を、すべての人のために住みよいところとする人こそ幸いである」とチャレンジしている。 人と人との平和をつくるのは、神との交わりと祈りである。

結 論: 神のピースメーカとなろう! (マタイの福音書 5章9節)  
イエス様を信じ、神の平安を受け平和を作る(ピースメーカー)として家庭や学校・職場で仕えよう。

例話-①  『真珠湾攻撃の総指揮官 淵田 美津雄の証』

例話-②  『アッシジのフランシスコの平和の祈り』
”わたしをあなたの平和の道具としてお使い下さい。  憎しみのあるところに愛を/   いさかいのあるところにゆるしを/   分裂のあるところに一致を 疑いのあるところに信仰を/誤っているところに真理を/   絶望のあるところに希望を/闇に光りを/    悲しみのあるところに喜びをもたらす者としてください。     慰められるよりは慰めることを/理解され るよりは理解する事を/    愛されるよりは愛することを/わたしが求めますように/    わたしたちは与れるから受け/ゆるすからゆるされ/    自分を捨てて死に/   永遠の命をいただくのですから。”

主よ、感謝します。