2008年1月20日
聖書:エペソ人への手紙4章17-32節
説教:柳神学生
序論
今日の主題は、「人は変えられるか?」とういことであります。新年度に入って、初めてのメッセージーなので、何を話せばいいのかと祈っていましたが、ちょうど、先週の日曜日のときに、与えられました。実際この主題は、新年度に入ってから私が一番思わされていたことです。自分自身が本当に変わらなければならないと思っています。今のままでとまっているのではなく、もっと成長したいです。かしらなるキリストに達することができるためにもっと祈り、求めていきたいです。
皆さん!私たちが変えられる必要があると思うでしょうか?
Ⅱコリント5章17節「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、身よ、すべてが新しくなりました。」
私たちはもうすでにイエス・キリストを信じることによって新しく生まれました(新しく変えられました、新しく造られました)。
イエス・キリストは私たちを変わらせるために、苦難を受け、十字架につけられ、死なれました。キリスト教の福音は、変化についての知らせであります。すなわち、イエス・キリストによって新しく生まれるという本質的な変化と、聖化していく漸次的な変化についての知らせであります。ですから、私たちはキリストによって新しく造られた者としてそれにふさわしい生活をしなければならないのです(それにふさわしく変えなければなりません)。
それでは、皆さん!本当に人は、変えられるでしょうか?人の心や品性などが変えられると思うでしょうか?ある人々は人が変わることは難しいことであると、無理であると、できないことであると言います。(例、父と言い争った話)
人の性格、気性、習慣、品性、行動などが変わることは本当に難しいことであります。いや、不可能であるかのように思わされています。本当にそうだと思います。
しかし、聖書はいたずらのように絶えず私たちが変わることを強く勧めているのです。今日の箇所の31、32節「無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」
なぜ聖書は私たちが変わること(難しいこと、不可能であるかもしれないこと)を強く勧めている(勧告している)でしょうか?それは、人が変わるかどうか(変化、聖化)によって、祝福かそれともわざわいかということに直接つながっているからです。後で説明します。
皆さん!もう一度質問します。本当に人は変えられるでしょうか?人が変わることができるでしょうか?もし変わることができるのであれば、どうやってできるのでしょうか?
結論を先に言いますと、人は変えられます!どうやって変わるかをこれから見ていきましょう。
本論
1.信仰によってであります。信仰は変えられることを信じることであります。
牧師先生や聖徒たちの中で“人は変えられない”、“あの人の性格(気性)は変わらない!絶対に変わらない!”と言う人々もいます。皆さんはどうでしょうか?このように言ったことがないでしょうか?私はあります。“あの人はだめだな。あの人は本当に変わらないよ!”と言ったことがあります。
もしかしてキリスト者である私たちがこのように言うならば、私たちはイエス・キリストを間違って信じているかもしれません。なぜなら、イエスを信じるということは変わるということであるからです。ただ信じれば天国に行けると思うでしょうか?私たちはイエスのように変わらなければなりません。エペソ4章15節「むしろ、愛を持って真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。」
聖書は、人が自らの力で変わるのではなく、イエス・キリストの力を通して変わると言っていますし、変わることを強く勧めています。
イエスを信じるということは、イエスが私に知恵と力を与えられ、私を古い人から新しい人(古い気性から新しい気性に、今まで持っていた品性から新しい品性に)に変えられるということを信じることであります。これがまさにイエスを‘私を罪(わざわい、呪い)から救ってくださった救い主’として信じるということであります。
民数記13,14章のカナンに遣わされた12名の話し。
私たちがよく知っている箇所です。13章では、モーセは神様から命じられたように12名を選び、カナンの地を探らせます。カナンの地を探って、帰ってきた12名の報告が13章の後半に書いてありますが、12人のうちに二人(エフネの子カレブとヌンの子ヨシュア)を除いて、10人が“私たちはカナンに入れない”と、“カナンの民族に絶対勝てない”“自分がイナゴのように見えた”と報告します。
人は変えられませんと、 罪悪の古い人(気性、習慣、性格、品性、行動など)は変えられませんと言う人は、まさに罪悪の象徴であるカナンの民族をイスラエルは勝てないと言っている10人の同じ信仰です。このように言うということは、実際にイエスを信じてないこと(不信仰であること)を明らかにしているのです。
荒野のイスラエル民族がカナンの民族に弱かったように、私たちは罪に弱いため、さらに変わることは難しいと、できないと思ってしまうのです。しかし、結局イスラエル民族が信仰を持ってカナンの地を一つ一つ占領して行ったように、信仰を持って、イエスの知恵と力に頼って大胆に行けば、私たちは変わることができるのです。私たちは変えられます。放棄しないでください!私たちは必ず変えられます。信仰を持ってください!
カレブとヨシュアは最後まで信仰を持っていたため、天国の象徴であるカナンの地に入りました。ですから、信仰を持たないと、放棄すると、変わることできませんし、カナンの地に入れません。
私たちは今すぐできなくてもイエス・キリストによって必ず変えられますと告白し、絶えず追求しなければなりません。これが信仰であり、望みであります。
2.自らの意志と神様の助けがなければなりません。
変化するためには、かならず二つの要素がなければなりません。一つは、変化しようとする自らの意志であります。もう一つは、神様の助けを求めることであります。
ピリピ4章13節「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」
変わろうとしない、あるいは神様の助けを認めない、求めない人は、神様のみことばによって絶対に変わることができませんし、どうしようもないです。すなわち、変わろうとしても神様の助けがなくてはできませんし、いくら神様が助けようとなさっても本人が変わろうとしなければ絶対できないのです。自ら変わろうとしない人より問題がある人はいません。
しかし、哀れみ深い神様はこのような人のためにも、実際、本人が自ら変わろうと決断するように働いてくださいます。すなわち、変わろうとしない人には、神様のみこころの通りに変えられるため、いろんな苦労や試練を用いて働いてくださるのです。
神様が私たちを絶えず赦してくださる理由は、私たちが変わることを期待しておられるからです。神様の慈悲は、私たちが罪に負けることに対しての認定ではありません。私たちが変わることに対する期待であるのです。
変わろうとする自らの意志を持ち、神様の助けを求めて幸せな人生を過ごしましょう。
結論
聖書は絶えず変化しなさいと語っていますし、変わらなければわざわいがあると語っています。また変わらないでそのままとまっていても神様は喜ばれません。
ルカ13章1-9節
ヘブル6章7、8節「土地は、その上にしばしば降る雨を吸い込んで、これを耕す人たちのために有用な作物を生じるなら、神の祝福にあずかります。しかし、いばらやあざみなどを生えさせるなら、無用なものであって、やがてのろいを受け、ついには 焼かれてしまいます。」
本人の間違えている信仰生活(気性、習慣、性格、品性など)が変わらなければなりません。私たちは恵まれた時代に過ごしています。聖書も自由に読めるし、毎週の日曜日の礼拝、水曜祈祷会、聖書勉強会などを通して神様のすばらしいみことばを聴いています。
皆さん!どうでしょうか?そのすばらしいみことばによって、皆さんは成長しているでしょうか?
もしかして、そのすばらしいみことばを聴いて、家に帰ったときは、もうすでに全部忘れてしまい、古い人にまた戻って、前と同じように生活している(信じていない人の生活と同じ生活をしている)のではないしょうか?
私たちは今一度自分を省みなければなりません。だれだれが変わればいいなとか(家族、友たち、兄弟姉妹たちなど)を全部切り捨てて、まず自分から変わるようにしなければなりません。(例、父と言い争った話)私は本当に変わりたいです。教会のかしらなるイエス・キリストに達するまで成長したいです。皆さん!変えましょう!私と皆さんが本当に変われば、私と皆さんの家族、友たち、学校、会社、教会が変わります。アブラハムを通して全世界が祝福されたように、私たちの信仰を通して、各自つながっているすべてが祝福されるのです。カレブとヨシュアのように、最後まで信仰を強く握り、絶えず神様の助けを求めて、私と皆さんに約束された地を占領し、幸せな人生を過ごしましょう!
