2008/03/27

主が、お入り用なのです

~子ロバに乗られた主イエス様~

2008年3月16日
聖書:マルコ11章1‐11節
説教:滝田新二牧師

1.さて、彼らがエルサレムの近くに来て、オリーブ山のふもとのベテパゲとベタニヤに近づい たとき、イエスはふたりの弟子を使いに出して、2.言われた。「向こうの村へ行きなさい。村にはいるとすぐ、まだだれも乗ったことのない、 ろばの子が、つないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いて来なさい。3.もし、『なぜそんなことをするのか。』と言う人があったら、『主がお入用なのです。すぐ に、またここに送り返されます。』と言いなさい。」4.そこで、出かけて見ると、表通りにある家の戸口に、ろばの子が一匹つないであったので、 それをほどいた。5.すると、そこに立っていた何人かが言った。「ろばの子をほどいたりして、どうするのです か。」6.弟子たちが、イエスの言われたとおりを話すと、彼らは許してくれた。7.そこで、ろばの子をイエスのところへ引いて行って、自分たちの上着をその上に掛けた。イ エスはそれに乗られた。8.すると、多くの人が、自分たちの上着を道に敷き、またほかの人々は、木の葉を枝ごと野原 から切って来て、道に敷いた。9.そして、前を行く者も、あとに従う者も、叫んでいた。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によ って来られる方に。10.祝福あれ。いま来た、われらの父ダビデの国に。ホサナ。いと高き所に。」11.こうして、イエスはエルサレムに着き、宮にはいられた。そして、すべてを見て回った後、 時間ももうおそかったので、十二弟子といっしょにベタニヤに出て行かれた。

序. 過越祭が近づき、主イエス様も弟子たちと共に群衆の中をエルサレムに向かわれた。主イエス様の様子はいつもと違っていた。その御顔には、ただならぬ決意が表れていた。皆は、ただ恐れを覚えるばかりであった。主はご自分の受難について語る。(10:32-34)主イエス様は、十字架へと向かうために、子ロバに乗られた。 私たちは、この受難週にあたり、その意味を、今一度深く考えたい。

1.  主がお入り用なのです  (マルコ11:1〜6)

 ここには奇妙なアンバランスがある。「主がお入り用なのです」と主は王として振舞われる。一方、王がお入り用であったのは、何とまだ誰も乗ったことのない借り物の子ロバであった。この奇妙なアンバランスこそ、かつて預言者が語った御言葉の実現に他ならない。(ゼカリヤ書9・9)「柔和」という言葉は、「貧しい」と言う意味で、富んだ者たち、傲慢な者たちに苦しめられる貧しい者の惨めさを表す。さらに「惨めな」「みすぼらしい」とも訳せるような言葉。それが来るべき王の姿であるとゼカリヤは預言している。 真の王の王、主の主、神の御子は、実に貧しき姿でエルサレムに向かわれた。この醜いお姿こそ、十字架における最も惨めな死に様へと向かう苦難のしもべの姿である。(参照イザヤ53章)預言の成就である。  ここに父の御心があった。イエス様は父なる神への愛のゆえに、その御心に従順に従おうとしておられた。

2.  歓呼の叫びの中をエルサレムに向かう  (マルコ11:7〜11)

 十字架へと向かうイエス様の御心を知らない群衆は、あたかも王の即位を祝うかのように、自分の服を道に敷き、棕櫚(シュロ)の葉の枝を道に敷いた。そして熱狂的に歓呼の声を上げながらイエス様を迎えた。 当時のイスラエルはローマの支配下にあり、多くの人々はローマからの解放を待ち望んでいた。かつてエジプトにいた先祖たちがモーセによって奴隷の地から解放された過越祭と重なっていた。力強い王なるメシヤ(救い主)が現れて、ローマ帝国を打ち倒し、彼らを解放してくれる日が来ることを待ち望んでいた。 「ホサナ」とは「お救いください」という意味である。彼らはそのように叫んで、主を迎えた。人々は、貧困や病からの救いを叫び求める。私たちは、苦しみや試練から解放されれば救われると考える。しかし、現実はどうか? 一つの苦しみから逃れれば、他の苦しみがそこにある。一つの支配を脱すれば、他の力の支配の下にある自分を見出す。苦難から逃れることが救いなら、人は決して救われることはない。たとえこの世の抑圧から解放されたとしても、罪の支配から解放されない限り、人は本当には救われないのである。

結論: 『主が、あなたをお入り用なのです』      

イエス様は、人々の歓呼の叫びが、まもなく「十字架につけろ!」という呪いの叫びに変わることを知っておられた。人の罪は、闇を愛して光を憎む。そして自分の欲望を求め、神の御心に逆らう。人間の内に潜む恐るべきエゴ(罪)は、神の子さえ十字架にかけて殺してしまう。そのような弱さと罪の支配から私たちを救うためにこそ、主は来られた。(参照:マルコ10:45)イエス様はあなたを愛するゆえに、そしてあなたを救うために十字架の道(ドロローサ=悲しみの道)』をあえて進まれた。主は死刑を宣告され、侮辱され、唾をかけられ、鞭打たれ、殺されるために、人々の歓呼の声がこだまする中を進まれた。こうしてエルサレムへと向われた主の内に燃えていた父への愛、そして私たちへの愛を、深く想い巡らしたい。そして主に従うとは何か? 主のために、教会のために、隣人のために、自分は何をすべきか? を問いつつこの週を祈りつつ過ごそう。     
主よ、感謝します。

●今日から曜日ごとに神の御言葉を読み、静かに主の御苦しみを黙想し、祈りつつイースターを迎えよう。
▼16日(日)主のエルサレム入城・ベタニヤ泊。(ヨハネ12:12〜19、マタイ21:1〜17)
▼17日(月)ベタニヤ発・いちちじくの木呪う、神殿宮きよめ。(マタイ21:18〜22、マルコ11:12〜19)
▼18日(火)いちちじくの木枯れる、宮で最後の説教(権威論争・悪い農夫の譬え話・王子の結婚披露宴の譬え話・カエサルへの納税論争・復活論争・一番大切な戒め・ダビデの子論争)やもめの献金、終末の教え。(マルコ11:20〜13:37、マタイ21:23〜25:46、ルカ20:1〜21:38)
▼19日(水)イエスの殺害の陰謀とユダの裏切り(マタイ26:14〜16、マルコ14:1〜11)
▼20日(木)過越しの準備を命じる。最後の晩餐ゲッセマネの祈り。イエスの逮捕。カヤパの官邸。   (マタイ26:17〜75、マルコ14:12〜72、ルカ22:7〜65、ヨハネ13章〜18章)
▼21日(金)ピラトがイエスを十字架につける。主イエス葬られる。(マタイ27章、マルコ15章、ルカ22:66〜23:55、ヨハネ19章)  
▼22日(土)安息日(ルカ23:56)
▼23日(日)ハレルヤ! 主は復活された。(マタイ28章、マルコ16章、ルカ24章、ヨハネ20章)
主よ、感謝します。