2008/04/23

復活の主を見る信仰

2008年4月13日
聖書:ヨハネの福音書20章11〜18節
説教:滝田新二牧師

序. イースターの出来事の後に人生を変えられた人がいる。墓の前で、ただ泣いていた涙の人生から喜びの人生に変えられたマグダラのマリヤの信仰から、復活の主を見る信仰について御言葉を受ける。

1 .  主のそばに居続けるマリヤ

 マグダラのマリヤは、いつも主のそばに居続けた。十字架の時も、復活の朝も、真っ先に駆けつけたのは彼女であった。(ヨハネ19:25・20:1)墓の中に主イエス様の遺体がない事が分かった時、マリヤは天使に向かって「私たちの主」(複数形)ではなく、「私の主」(単数形)としっかりと主と結びついている。弟子たちがユダヤ人を恐れ、逃げた時、マリヤは堂々と、墓の管理人に「私の主を返してください!」「私が遺体を引き取ります」と断言している。マグダラのマリヤにとってイエス様は「私の主」であり、自分の命ほどに大切なお方、大事な存在であった。主のそばに居続ける事が祝福となる。

2.  主を求め続けるマリヤ

 マリアは、ただ一人墓の前に立って泣いていた。深い失望、絶望がマリヤを支配していた。彼女は全く希望のない、死んでしまった主イエス様の遺体しか求めていない不信仰な状態であった。 私たちの信仰生活はどうか? 希望がなく泣いていることはないだろうか?それは死んでしまった主を求めることなのである。しかし、マグダラのマリヤは、主を追い続ける。執着し続ける。泣きながら主イエス様を探し求め続ける。このようなマリヤに主が現れて下さった。16節『イエスは彼女に言われた。マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)」とイエス様に言った。』 主は、マリヤがこれほど熱い思いで主を求めている、ただ主だけを捜している、その気持ちを喜ばれ、たった一言、その名を呼ばれた。これほど心を揺すぶる会話はない。主を求め続ける事が祝福となる。

結論:  「私は主にお目にかかりました」 〜復活の主を見る信仰〜

① 目線を変えること。(14節) ライフサイクルからソウルサイクルに目線を変える。マリヤには主がわからなかった。イエス様の呼びかけを聞いて、マリヤは分かった。私たちは礼拝やデボーションを通して、主の御言葉を聞いて、主を知らされる。だから、礼拝を大切にしよう。 

② 聞くという姿勢を通して、心の向きを変えこと。 (20:14・16)「彼女は振り向いて」これは体を向けるだけではなく、自分の心の向きを変えること。実は御言葉を聞くということである。コロサイ3:10「あたら人を着たのです。ますます新しく(毎日と訳される)毎日、ということで、量的なことではなく、時間的な継続の事である。日々新たにされて、あなたは主の似姿に変えられる。コロサイ3:16「詩(詩篇)と賛美と霊の歌を」繰り返し、繰り返し、心に刻むことで日々、「主よ、感謝します」と目線を変え、ライフサイクルからソウルサイクに目線を変えること、自分はキリスト者であること、自分のアイデンティティ、自分は本当は神の子どもであるという自覚を持つ事である。  あなたも、マグダラのマリヤのように18節「私は主にお目にかかりました。」と告白できる者へと変えられ、新しい使命(証と宣教と兄弟姉妹の励まし)に、主はあなたを派遣される。(17節)

*例話: マザーテレサは、「傷つくまで愛し続けなさい」と語っている。  

詩: <しあわせ>『私たちは、みな、しあわせ になるために、生まれてきました。そして、神(イエス)を愛するようになったときにだけ、ほんとうの しあわせ と やすらぎ を見いだすことができます。イエスを 愛することで、喜びを感じ、大きな しあわせ を 感じるのです。

イエス様!私をお救いください。愛されたいという欲望から   

ほめられたいという欲望から    

名誉を得たいという欲望から賞賛されたいという欲望から  

人よりも好かれたいという欲望から 

相談されたいという欲望からよく思われたいという欲望から 

人気を得たいという欲望から    

屈辱を受けるという恐れから軽蔑されるという恐れから   

非難されるという恐れから     

中傷されるという恐れから忘れ去られるという恐れから  

ひどい扱いを受けるという恐れから 

嘲笑されるという恐れから疑われるという恐れから  』 (マザーテレサ) 

主よ、感謝します。