2008/06/30

最も小さい者にしたことは私にしたこと

〜羊と山羊のたとえ話〜

2008年6月29日     
聖書:マタイの福音書25章31〜46節
説教:滝田新二牧師

31.人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。

32.そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、

33.羊を自分の右に、山羊を左に置きます。

34.そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。 世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。

35.あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、

36.わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』

37.すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。

38.いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。

39.また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』

40.すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』

41.それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。

42.おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず渇いていたときにも飲ませず、

43.わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』

44.そのとき、彼らも答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。』

45.すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』

46.こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。」

序. 先週に続いて主の再臨を待ち望むクリスチャンの生き方について御言葉を受ける。神の評価の2回目。

1  最後の審判

(1) 羊と山羊とに分けられる (31〜33・34・41・46)

 羊は従順、山羊は自己中心というイメージがある。イエス様の再臨の時まで羊と山羊、麦と毒麦のたとえ話のように、本当のキリスト様の弟子とそうでない者が共にいる。しかし最後には、主の審判がある。一方は、神の祝福を受けた者として神の御国を受継ぐ。しかし、もう一方は神ののろいのもとに置かれる。

(2) 良い行いと信仰義認との関係

 ここを読むと、「行ないによって人は義とされる」かのような印象を受けるがそうではない。良い行いは救いの根拠ではなく救いの結果・証拠である。「信仰による義(信仰義認)」は救われる条件の全てではあっても、信仰生活全体の全てではない。受洗は求道の最終結果ではなく信仰生活の出発であり、結婚はゴールインではなく、スタートラインであるようにである。イエス様を信じたら救われる。そこからイエス様と共に生きる信仰生活が始まる。その信仰生活の実質(御霊の実)を証拠として問われている。

2. 愛は行動に現れる  (35〜40節)  

(1) 隣人愛の真価が問われている

 このみことばは私たちに愛の真価を問う。ここに出て来る困った状況(35-36節)を分析して見よう。 

①「空腹と渇き」日常的に困ったこと。 

②「旅行と裸」特別な時に困ったこと。 

③「病気と牢」肉体的、社会的な窮地。

 聖書の黄金律はこう教えている。(マルコ12:29-31)私たちは悲しむ者と悲しみ、喜ぶ者と喜ぶことは難しい。そんな自己中心の私たちがまだ罪人であった時に、イエス様は私たちの罪を負って十字架に死んでくださった程に私たちを愛しておられる。 その愛は完全である。「これらの私の兄弟たち」と言われているのは、教会の兄弟姉妹のことである。神の愛はこの兄弟姉妹の喜びを喜びとし、悲しみを悲しみとする。教会にも小さい者がいる。子ども、お年寄りや、病気の方・障害者たちである。その小さい者のために私たちの教会はグループホームを作った。

(2) 主の愛に心を満たされて 〜イエスとの出会い〜

例話①: インドのスラム街の中で一生を捧げたマザーテレサ 「私は朝早く礼拝を捧げることを通してイエス様と出会い、道端で死んでいく人に一口のスープを飲ませ、死に行く人を一人の人間として死の看取りをする、その人を通して先にその人々の所に行っておられるイエス様と出会っているのです」 マザーテレサは、毎日イエスと出会う祈りをもって生活し、神の愛に満たされて行動した。「私たちの働きは、大海の一滴に過ぎないかも知れません。しかし、その一滴がなければ大海はできないのです」と。さらに「神と共にいて幸せであるとは、神が愛されるように人を愛し、神が助けるように人を助け、神が与えるように与え、神が仕えるように仕え、・・・ 苦しむ人の姿をまとっているイエス様に手を触れることなのです」 今日も多くの人がイエス様の手足となって、教会や社会で奉仕し、神と人々に仕えている。

例話②:『靴屋のマルチン』は、このマタイ25章を題材に、ロシアの文豪トルストイが作った作品である。

結 論: 愛は行動である   〜目を外に向けなさい〜

  『靴屋のマルチン』は心温まるストーリーである。マルチンはいつも靴に関心を持っていたが、靴を履く人には関心がなかった。今まで、通りを歩く人は風景の一部であったり、自分の生活の糧を持ってくる媒体でしかなかった。しかし、主が「マルチン、外を見なさい!」と呼びかけられた。  私たちは、家族や周りの友人は、人として見えても、少し遠くの人(教会の兄弟姉妹や親戚や学校・職場の人)はモノであったり、風景であったりすることが多い。しかし、今週は通りを見ることができるように祈ろう。 毎日の生活や働きの中で、御言葉と聖霊様の導きの中で、気付いた領域に足が向き、祈りと愛が行動となり、結果的にそれがイエス様に対する奉仕であったという人生を歩もう。 

主よ感謝します