2011年1月30日
聖書:第 Iコリント人への手紙12章12~31節
説教:滝田新二牧師
12.ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。
13.なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。
14.確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。
15.たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。
16.たとい、耳が、「私は目ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。
17.もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。
18.しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。
19.もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。
20.しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。
21.そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うこともできません。
22.それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。
23.また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、
24.かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。
25.それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。
26.もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
27.あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。
28.そして、神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇蹟を行なう者、それからいやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです。
29.みなが使徒でしょうか。みなが預言者でしょうか。みなが教師でしょうか。みなが奇蹟を行なう者でしょうか。
30.みながいやしの賜物を持っているでしょうか。みなが異言を語るでしょうか。みなが解き明かしをするでしょうか。
31.あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。
1. 多くの器官からなる教会 (教会の多様性 12:12~14)
本日は第39回の年次総会が開催される。
教会の総会は聖徒の交わりであり、主のビジョンを確認し、前進の備えの時である。
パウロは教会を「キリストの体」と呼んでいる。12節「からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その部分が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。」(参照:14.20節)
人間の体が多くの器官と部分からなっているように教会も多くの器官からなっている。
世界中に同じ人は一人もいない。クリスチャンもみな違う賜物を持っている。
それぞれが教会のために役割を果たし相互依存している。教会はキリストの体で、神の家族である。
誰も「あなたは、役に立たない人」と言って軽蔑されてはならないし、自分を「教会で役にたたない無用の人だ!」と思ってもならない。家族のひとりひとりが“大切で必要である”。そこに見事な一致がある。
この一致は、体である教会の多様性から来る。教会は、様々な人々、多くの器官からなる体である。
2.一つの体である教会 (教会の一体性 12:13)
13節「私たちはみな、ユダヤ人もギリシャ人も、奴隷も自由人も、一つのからだになるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。」 私たちは、主イエス様を救い主として信じ、心に迎え、洗礼を受け、聖霊の働きによる新生(新しい命に生れる)により、兄弟姉妹と一つとされ、一つの体である教会につながる者とされた。教会はイエス様を頭とする1つの体であり、霊的に1つである。
3.かけがえのない体である教会 (手が尊い? 目が尊い? 12:15~26)
足が手をひがんで「私は手ではないから駄目なんだ」と言ってはならない。耳が目をひがんで「私は目ではないから」と言ってもならない。(15~17節)それぞれに大切な働きがある。
教会には「足と耳の素晴らしい働き」がある。ローマ10:14~15「宣べ伝える人がなくて、どうして聞く事ができるでしょう。遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次ぎのように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」「口の人」が目立つが、伝道では「足や耳」が大きな働きをする。私たちは互いが大切な器官。(参照:21節)
だから賜物が違う人を羨む必要もなく、また自分を卑下したり出し惜しみする必要もない。
私たちは、お互いを必要とし、仕え愛し合う。その事をどれ程、自分が認識しているかが問われている。
22節「それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。」
私たちの教会には、障害を持った弱い人が多くいる。心や体の病、知的・身体・精神障害者もいる。それは共に苦しみ、共に喜び、いたわり合い、愛し合うためである。25~26節 「それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。」
例話:ルターはこの注解で「足が踏み付けられた時、指が挟まれた時に全身がどの様に反応するか考えてみなさい」と語っている。他の兄弟姉妹の悲しみや痛みをどれほど感じているだろうか?
今年は、小グループの生きた交わりを通して、相互牧会・相互ケア―のできる教会をめざそう。共に喜び、苦しみを共にする交わりを築こう。
まとめ: キリストの体である教会をみんなで建て上げよう!(12:27~31)
18と28節は『神』が主語で始まっている。18節「神は備えた」と28節「神は任命した」は原語ギリシャ語では同じ言葉。主は、体に様々な器官を備えられたように、教会にも様々な働き人を任命された。
第1に使徒(現代の牧師・宣教師)。
第2に預言者(説教者・伝道者)。
第3に教師(CS/JY教師・神学校教師)。
第4に奇蹟を行なう者。
第5にいやしの賜物を持つ者(祈りの人)。
第6に助ける者(奉仕する・教会事務・会堂清掃・印刷など)。
第7に治める者(執事・各会のリーダー)。
第8に異言を語る者。
1~3は御言葉に関する働きをする人。教会は神の御言葉により土台が据えられ、御言葉により打ち建てられる。
そして互いの賜物が本当に生かすのは“アガペーの愛”である。主は、私たちの片柳教会を通してご自分を示そうとしておられる。主は、不完全な教会や牧師、土の器である私たちを用いて主の愛と救いを、この世界に現そうとしている。教会のビジョン『地域に開かれた、誰でも安心できる教会』の実現のためにグループホームは宣教と隣人愛の小さな働きとして5年間運営されてきた。私たちの教会を主は用いている。
あなたにもできる主への奉仕がある。何もできないと思われても、祈り、献さげ、最後まで主にお仕えできる。
私たちは2つの家族を持っている。霊の家族(教会)と肉の家族(家庭)である。初めから完璧な家族、夫婦、親子はありえない。地上の教会も不完全である。主はその傷ついた体を通してでも、やがて完璧にされるその約束を信じて従っていく時に、主は私たちを豊かに用いて下さる。2つの家族のために、みんなで主の体である教会を建て上げ共に信じて歩もう!
主よ、感謝します。