2011/05/17

心燃やされて

~エマオ途上の物語~

2011年5月15日
聖書:ルカの福音書24章13~35節
説教:滝田新二牧師          
          
13.ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。

14.そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。

15.話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて彼らとともに道を歩いておられた。

16.しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。

17.イエスは彼らに言われた。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。

18.クレオパというほうが答えて言った。「エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけが知らなかったのですか。」

19.イエスが、「どんな事ですか」と聞かれると、ふたりは答えた。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。

20.それなのに私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して死刑に定め十字架につけたのです

21.しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、

22.また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、

23.イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。

24.それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです。」

25.するとイエスは言われた。「ああ愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない心の鈍い人たち

26.キリストは必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」

27.それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。

28.彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。

29.それで、彼らが、「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中に入られた。

30.彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。

31.それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。

32.そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」

33.すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻ってみると、十一使徒とその仲間が集まって、

34.「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現された」と言っていた。

35.彼らも、道であったいろいろなことや、パンを裂かれたときにイエスだとわかった次第を話した。

序.三浦綾子さんの名作に『氷点』がある。
「氷点」とは摂氏零度、つまり水が凍り始める温度であり、氷が融け始める温度。このような心は誰にもある。確かに私たちは心が凍りついていくのを感じながら日々を過ごすことがある。
あなたの心に誰も融かすことのできない氷点があるだろうか?私たちは、エマオ途上の二人の経験を通して、心の氷点が神の愛で融かされていく美しい物語を学ぶ。そして、みことばを通して私たちの心にも点火して頂こう。

1.融かされた心の氷点  (ルカ24章13~27節)

 主イエス様が復活された日曜の夕べ、エルサレムからエマオまでその間約11キロの道程を十字架の出来事を話題にしながら歩く二人連れがあった。
彼らは復活を信じられないで、ただ失望落胆していた。エルサレムに背を向け、エマオに向かう彼らの姿は信仰の世界に背を向けて不信仰の世界を彷徨い歩く人々の姿に似ている。十字架のイエス様を死人の中に捜し続ける人の心はさながら氷点である。
不信仰の目には、近づいて来られたイエス様さえも認識できない。
主イエス様は、彼らの不信仰を責めながらも、共に歩いて「聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。」(27節。参照:ヘブル1:1-2)たとえ、あなたが主に背を向けて孤独な日々を送っていても、イエス様はあなたの人生に近づいて、あなたの愚痴や呟きにじっと耳を傾け、神のみことばへと導き、信仰の交わりへと引き戻して下さる。 現代では、私たちが主にお目にかかる道は、この日曜の主日礼拝である。
「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」(ローマ10:17)と教えられている。
だれも融かすことのできない心の氷点を、主イエス様だけは融かすことができるのである。

2.交わりの回復 (ルカ24章28~35節)

エマオの村で、彼らはイエス様をわが家にお迎えする。
この場面の讃美歌39番は、「主よ、私と共に宿って、私にも復活の命をお与え下さい」という祈りが歌われている。主が喜ばれる祈りは復活の命を求める祈りである。  
復活の命に満たされてこそ、この世でのあらゆる誘惑に負けない、きよめられた信仰生活が可能になる。       

「賛美の祈りとパンを裂くこと」はその家の主人の役目である。イエス様は、今、食卓の主(あるじ)としてパンを裂かれる。これは聖餐式である。
みことばを受け、十字架の死と復活を信じる者に与えられる特別の恵みとしての食卓である。
イエス様からこのパンを受け取ったその時、二人の目が開け、主イエス様だと分かった。すると不思議なことに、主のお姿が見えなくなった。
しかし彼らは少しも残念がっていない。それどころか、エルサレムにいる仲間の所に引き返して行った。
ふたりの弟子は、聖書の解き明かしを受けた時、心が燃やされ、主の聖餐式に与った時、心の目・霊の目が開かれて信仰が回復した。
そして、主の復活の証人として立てられ、遣わされた。
主に愛された者は、主に愛された者との交わりを大切にする。小グループの交わりである。
私たちの教会は「小グループある教会から小グループからなる教会を目指している」
そして、主に愛された者は、主を知らぬ人々に福音の恵みを証しないではいられない。
エルサレムに引き返すことは、危険を意味する。しかし、そこに敢えて二人は立ち帰って、新しい使命に赴くことができたのはなぜか?心が燃やされていたからである。(32節)

結 論:  

『復活の主に出会い、心燃やされて、喜びに満たされる。』

 イエス様が、あなたのために命を懸けて愛して下さった事実を知る時、あなたの心の氷点は融かされる。     
十字架のイエス様、死に勝利した復活されたイエス様が、いついかなる時にも、あなたの人生を共に歩んで下さる。
この事実を信じるならば、あなたは、二人の弟子たちのように心燃やされて、喜びに満たされるる。            
そして、あなたの人生は開かれ、家庭や学校・職場は祝福される。 
「イエスは、彼らを...手を上げて祝福された。そして祝福しながら彼らから離れて行かれた。彼らは、非常な喜びを抱いてエルサレムに帰り、いつも宮にいて神をほめたたえていた。」(ルカ24:50)              
           
主よ感謝します。