~神の救いが現われる~
2011年10月9日
聖書:ヨハネの福音書9章1~7節
説教:滝田新二牧師
1.またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
2.弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
3.イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。
4.わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。
5.わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」
6.イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。
7.「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。
序.先週、盲人の癒しと救いの奇蹟を通して、イエス様は、私たちの生涯に神の業が現れるためであると語られた。神の業が現れるとは?具体的には、神の愛があなたを通して現れるためである。今日は2回目で、神の業とは、神の救いがあなたを通して、現わされるためであることを、主の御言葉から受ける。
1.障害者の苦しみ ~3つの苦しみ~ (9:1~3)
第一の苦しみは、身体的な苦しみ
生まれながら目が見えない。光を知らない盲人の生涯は、
暗黒のみが彼の世界であった。
第二の苦しみは、社会的な苦しみ
「道ばたに座って物乞いをする」以外に生きる手立てがなかった。自由に歩くこともできない。人生の喜びや楽しみとは無縁の世界で、いつも、他の人に依存しなければ生きていけない人生に、深い絶望を味わっていた。当時、障害者はユダヤ教の神殿での礼拝に参加することさえも許されていなかった。
第三の苦しみは、霊的な苦しみ
「肉体の不幸は罪の報いである」という「因果応報」という考えや偏見によって、神の祝福からも見放され、罪の呪いのゆえに盲目に生まれたと考えられていた。自分は神から見捨てられている。より一層深い心の傷となっていた。このような考えは、救いようの無い絶望だけを人に与えていた。しかしイエス様の見方は違う。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神の業がこの人に現れるためです。」みことばの光が照らされる。これは私たちの価値観の転換、見方の転換を迫る、大事な問い掛けである。イエス様は、私たちの苦しみや試練、この世の不条理な出来事の原因ではなく、苦しみの意味と目的(神の業が現れるため)に目を向けさせられた。
2.神の救いが現れるために (9:3~7)
(1)目を留める (9:1)
1節「イエスは道の途中で生まれつきの盲人を見られた。」主は、この人がそこで物乞いをしていることを知っていて、その人が心から何を発信していたのかをご存知で目を留められた。 主は、あなたを心を知っておられる。
(2)呼びかける (9:6~7)
盲人に大きな転機が訪れた。それは主イエス様との出会いによって起こった。生まれながらの盲目が癒されて、目が見えるようになった。イエス様は泥を彼の目に塗って、行ってシロアムの池で洗うように命じられた。ここに聖書は、不可能を可能とされる「神」であられる主イエス・キリスト様の神性を堂々と宣言している。
(例話:ルカ19章にイエス様とザアカイの出会いと救いの物語)
(3)救いは、神のみわざ (9:3~5)
この盲人は、目が癒されたばかりではなく、イエス様を救い主として信じて、救われ、主の光を頂いて、この後で、人々に証して、世の光として神の栄光を現わす者へと変えられた。
結 論:『 神の救いを受け、マイナスがプラスになる 』
ローマ8章28節「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」
主はあなたに良き計画を持っておられる。神は愛なる方ゆえに、失敗も、弱さも、罪も、益に変えられる。すべてが感謝になる。「主にあってマイナスはプラスになる」
(例話:斉藤百合さん(1891~1947年)は、盲人女性の地位向上のために先駆的な働きをした盲目のクリスチャン女性。3歳で失明し、絶望の中でイエス様と出会い、救われ、人生が変えられ、東京女子大の第1期生となり、生涯を盲人女性の社会的な地位の向上のために生涯をささげた。)
あなたも、神の栄光のために、御言葉を心に刻んで、明るく元気に歩もう。
主よ感謝します。