2011/11/15

最も小さい者にしたことは私にしたのです

~神と人に仕える~

2011年11月13日
聖書:マタイの福音書25章31〜46節
説教:滝田新二牧師
                      
31.人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。

32.そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、

33.羊を自分の右に、山羊を左に置きます。

34.そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。

35.あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、

36.わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』

37.すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。

38.いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。

39.また、いつ私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』

40.すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』

41.それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ。

42.おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、

43.わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』

44.そのとき、彼らも答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。』

45.すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』

46.こうして、この人たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」

序.先週は、「主よ私を用いてください」という祈りについて学びました。具体的にはモーセは自分の羊飼いの杖を捨てて、主にゆだねた時に、杖は神の杖となり、主に豊かにモーセが用いられていったことを御言葉から学びました。

今日は、そこから更に一歩間に進みましょう!ロシアの文豪トルストイの「靴屋のマルチン」とディキンズの「クリスマスキャロル」はこのマタイの25章を題材にしている。ここには主の再臨を待ち望むクリスチャンの神と人に仕える生き方について御言葉を受けよう。

1.最後の審判(マタイ25章31~34節 41~46節)

(1)羊と山羊とに分けられる (31〜33・34・41・46)

羊は従順、山羊は自己中心というイメージがある。イエス様の再臨の時まで羊と山羊、麦と毒麦のたとえ話のように、本当のキリスト様の弟子とそうでない者が共にいる。しかし最後には、主の審判がある。一方は、神の祝福を受けた者として神の御国を受継ぐ。しかし、もう一方は神ののろいのもとに置かれる。

(2)良い行いと信仰義認との関係

ここを読むと、「行ないによって人は義とされる」かのような印象を受けるがそうではない。良い行いは救いの根拠ではなく救いの結果・証拠である。「信仰による義(信仰義認)」は救われる条件の全てではあっても、信仰生活全体の全てではない。受洗は、求道の最終結果ではなく信仰生活の出発であり、結婚はゴールインではなく、スタートラインであるようにである。イエス様を信じたら救われる。そこからイエス様と共に生きる信仰生活が始まる。その信仰生活の実質(御霊の実)を証拠として問われている。

2.愛は行動に現れる  (35〜40節)  

(1)隣人愛の真価が問われている

このみことばは私たちに愛の真価を問う。ここに出て来る困った状況(35-36節)を分析して見よう。 

①「空腹と渇き」 日常的に困ったこと。  

②「旅行と裸」  特別な時に困ったこと。  

③「病気と牢」  肉体的、社会的な窮地。

聖書の黄金律はこう教えている。(マルコ12:29-31)

29イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。

30.心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』

31.次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」

私たちは悲しむ者と悲しみ、喜ぶ者と喜ぶことは難しい。自己中心の私たちがまだ罪人であった時に、イエス様は私たちの罪を負って十字架に死んでくださった程に私たちを愛しておられる。その愛は完全である。「私の兄弟たち・小さい者」とは、家族や学校や職場の人。教会にも小さい者がいる。子ども、お年寄りや、病気の方・障害者たちである。神の愛はこの人々と喜びを喜びとし、悲しみを悲しみとする。その小さい者のために私たちの教会は精神障害者のための「グループホームのぞみ」を作った。

(2)主の愛に心を満たされて 〜イエスとの出会い〜

例話①:インドのスラム街の中で一生を捧げたマザーテレサ 「私は朝早く礼拝を捧げることを通してイエス様と出会い、道端で死んでいく人に一口のスープを飲ませ、死に行く人を一人の人間として死の看取りをする、その人を通して先にその人々の所に行っておられるイエス様と出会っているのです」マザーテレサは、毎日イエスと出会う祈りをもって生活し、神の愛に満たされて行動した。「私たちの働きは、大海の一滴に過ぎないかも知れません。しかし、その一滴がなければ大海はできないのです」と。さらに「神と共にいて幸せであるとは、神が愛されるように人を愛し、神が助けるように人を助け、神が与えるように与え、神が仕えるように仕え、・・・ 苦しむ人の姿をまとっているイエス様に手を触れることなのです」 今日も多くの人がイエス様の手足となって、世界中で神と人々に仕えている。私たちの教会でもイエス様の手足となって兄弟姉妹が仕えている。

例話②:『クリスティーン・ケーンは、豪・ヒルソング教会の牧師で、現代も奴隷となっている2700万人の救出のために戦っている女性の証し DVD』

結論:『愛は行動である』 〜目を外に向け、小さい者の声を聞きなさい〜

毎日の生活や働きの中で、御言葉と聖霊様の導きの中で、声なき者の声を聞き、気付いた領域に足を向け、祈りと愛が行動となり、主の手となり足となり、家族や教会の兄弟姉妹に、あなたの周りの人々に仕え、イエス様へに触れる人生を歩もう。  

主よ、感謝します。