2012/01/09

主の憐れみは尽きることがない

~アブラハムの生涯②~

2012年1月8日
旧約聖書:創世記12章10~20節
説教:滝田新二牧師

10.さて、この地にはききんがあったので、アブラムはエジプトのほうにしばらく滞在するために、下って行った。この地のききんは激しかったからである。

11.彼はエジプトに近づき、そこに入ろうとするとき、妻のサライに言った。「聞いておくれ。あなたが見目麗しい女だということを私は知っている。

12.エジプト人は、あなたを見るようになると、この女は彼の妻だと言って、私を殺すが、あなたは生かしておくだろう。

13.どうか、私の妹だと言ってくれ。そうすれば、あなたのおかげで私にも良くしてくれ、あなたのおかげで私は生きのびるだろう。」

14.アブラムがエジプトに入って行くと、エジプト人は、その女が非常に美しいのを見た。

15.パロの高官たちが彼女を見て、パロに彼女を推賞したので、彼女はパロの宮廷に召し入れられた。

16.パロは彼女のために、アブラムによくしてやり、それでアブラムは羊の群れ、牛の群れ、ろば、それに男女の奴隷、雌ろば、らくだを所有するようになった。

17.しかし、主はアブラムの妻サライのことで、パロと、その家をひどい災害で痛めつけた。

18.そこでパロはアブラムを呼び寄せて言った。「あなたは私にいったい何ということをしたのか。なぜ彼女があなたの妻であることを、告げなかったのか。

19.なぜ彼女があなたの妹だと言ったのか。だから、私は彼女を私の妻として召し入れていた。しかし、さあ今、あなたの妻を連れて行きなさい。」

20.パロはアブラムについて部下に命じた。彼らは彼を、彼の妻と、彼のすべての所有物とともに送り出した。

序.元旦礼拝では、アブラムが、月の神を拝む偶像崇拝の都ウル(現在のイラク南部)を出発し、主が示された地を目指し旅立った。しかし、約束の地が何処か分からない旅であった。アブラムを支えたのは主の祝福の約束の御言葉であった。彼はカナンの地に到着し、祭壇を築き、主に感謝した。ところが、喜びもつかの間、大きな試練に遭う。

1.信仰の試練 ~アブラムの失敗~ (12:10~16)

約束の地で、祝福ではなく、飢饉という試練に襲われた。私たちは、主に愛されて祝福の約束を頂いても、いつも順調とは限らない。むしろ困難に直面し、私たちの信仰が試される。この時、アブラムは常識に従って豊かなエジプトへ避難し、しばらく滞在しようと考えた。アブラムは、今まで主を第一にしてきたのに、食糧のために、余りにもあっさりと約束の地を離れてしまった。

2つの原因が考えられる。

① 永久の移住ではない。自然災害による一時的な滞在で緊急避難なのだと思い込んだ。

② いかなる境遇にあっても神の守りがあるという信仰がまだなかった。

だから、祈り求めることもなく、安易に考え出発した。案の定エジプトに近づくと、今度は人を恐れたアブラムは何とも愚かな策略に頼ろうとした。この時代のエジプト人は人妻を略奪することで有名であった。妻サライの美貌ゆえに彼は悩み恐れた。そこで「妻と言わないで、妹だと名乗った。」異母兄妹ゆえに嘘ではないが半分の真実である。しかし、アブラムは人を恐れるあまり、人を欺き、愛する妻を犠牲にして、自分の命を守ろうとした。やがて王様パロの王宮に召され、絶対絶命の危機を迎える。今までのアブラムの信仰はどこに行ってしまったのか?それほどに愚かで、浅はかで、自己中心であった。それは神への信頼も、みこころに従う姿勢も全く見えず、優柔不断で、ただ苦肉の策に走る、弱く、脆い、愚かな人間の姿である。ここに私たち信仰者が陥る罠がある。(箴言 29:25~26)

2.信仰の恵み ~主のあわれみ~ (12:17~20)

突然、エジプトの王宮にひどい災害が起り、王は、その原因を知ることになる。さらなる災いを恐れた王は、すぐに二人に与えた財産を持たせたままで、国外に立ち去らせた。彼らは危機一髪、救い出された。アブラムは主のあわれみを体験する。それは神の特別なご介入による。愛する妻を失う窮地からアブラムを救い出したのは、この世界を創造し、すべてをご支配される神の御手の業による。しかし、それはアブラムが信仰深いからではない。アブラムが正しい行いをしたからでもない。ただ、罪人のアブラムを愛される主のあわれみによる。私たちも、このような主の恵みと憐れみの中に生かされている。 私たちはアブラムのように、神を恐れるよりも人を恐れる。また困難を避け、主のみこころを求めるよりも、人間的な知恵を求める。そして「こんな罪の世なのだから仕方がない」と、愚かにも人間的な計画を立てる。しかし、間違った選択をする私たちの信じる主は、実に憐れみ深い愛のお方である。迷うわが子を探す親のように、私たちを助け、行くべき道へともう一度差し戻してくださる。私たちも、失敗した時、そこから軌道修正するのではなく、悔い改めて、信仰の原点に立ち返り、再出発をしよう。

結論:「あなたは、主の恵みと憐れみにとどまりなさい」 (哀歌3章22節)

アブラムのように敬虔な人でも、神の恵みと真理にとどまり続けることをしないなら、人を恐れ、実に愚かな行動を選び、失敗を繰り返す。だからイエス様にとどまろう。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15:5) そのために礼拝・祈り・みことばの学びがある。クリスチャンは、労苦を逃れる人生ではなく、主にあって労苦が報われ、主の祝福の器となるのである。主のめぐみと憐れみにとどまろう(詩篇1:1~3、ヨハネ16:33)

主よ、感謝します。