~信仰義認~ アブラハムの生涯⑤
2012年2月12日
聖書:創世記15章1~6節
説教:滝田新二牧師
1.これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」
2.そこでアブラムは申し上げた。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私にはまだ子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」
3.さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう。」と申し上げた。
4.すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」
5.そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」
6.彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。
序.アブラハムの生涯は、3期に分けられる。
①「アブラハムの信仰の生涯の出発と初期」(12~14章)。
②「アブラハムの信仰の試練の時期」(15~22章)。
③「アブラハムの信仰の円熟期と死」(23~25章)。
今日は、第2期の始めである。4千年前、星空を見上げアブラハムは数え切れない神の祝福の約束を仰ぎ見て信じた。
1.アブラハムの恐れ? (15:1)
「これらの出来事の後」とは、14章のエラムの王ケドルラオメル王の大軍に捕らえられた甥のロトとその家族と持ち物を奪還するための命懸けの戦争の後である。人間には、外に現れて見える所と、心の中の見えない所と両方が必ずある。表面は立派に見えても、心の内側はそれとは反対だという場合もある。アブラハムは、神の約束はあっても、現実には後継ぎがいない。神の約束に対する疑い、将来への不安や恐れを心に抱いた。誰しも自分の心の真相、心の闇に愕然とする。
2.アブラハムへの主のみことば (15:1~5)
幸いなことは、私たちの不安や恐れを、私たち以上にご存知の主がおられることである。「恐れるな。 わたしはあなたの盾である。」とは、すべて人への温かい、慰めの御言葉である。天地を創造した神があなたを守って下さる。4節「主のことばが彼に臨み」主の圧倒的な迫りである。アブラハムを再び立ち上がらせ、希望を与え、信仰に導くものはいつも神の御言葉であった。たとえ現実がどうであれ、アブラハムから生まれる者が後継ぎとなる。私たちは、主の御言葉を、自分の常識、可能性の上に立って受け取ろうとする。だから、主の言葉が主の言葉ではなくなってしまう。 5節「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。あなたの子孫はこのようになる。」 これは実物教育である。満天の輝く星を誰が数えることができようか? 神の創造された無数の星を有限な人間が数えることなどできない。神の御業は人の計りを超えて無限である。主は天の星を通して、アブラハムのチッポケな自分の常識、経験や可能性で、目の前の事を図ろうとする愚かさを、徹底的に粉砕された。「あなたの子孫はこのようになる」 神の約束は必ずなる。可能性はただ神にある。私たちの救いも、徹頭徹尾、主の恵みである。
3.アブラハムの信仰義認 (15:6)
6節「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」アブラハムは、そのまま信じ、主はそれを義とされた。パウロは、ローマ書で、この言葉を引用している。人はただ信仰だけで救われる。これが信仰義認である。
結論:『信仰によって救われ、義認の恵みを受けよう』(ローマ4章23~25節)
23.しかし、「彼の義とみなされた」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、
24.また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。
25.主イエスは私たちの罪のために死に渡され私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。
私たちもこの信仰で救われる。信仰とは、あなたの側が、どういう状態であれ、神の側で全部成し遂げてくださったイエス様の十字架の救いを、ただ素直に受け取り、信じて救われる事である。これが神の恵みなのである。この救いの恵みに感謝し、いつも天を見上げ、主の約束をただ信じ受け、主の祝福にあずかろう!
主よ感謝します。