<?xml version='1.0' encoding='UTF-8'?><?xml-stylesheet href="http://www.blogger.com/styles/atom.css" type="text/css"?><feed xmlns='http://www.w3.org/2005/Atom' xmlns:openSearch='http://a9.com/-/spec/opensearchrss/1.0/' xmlns:georss='http://www.georss.org/georss' xmlns:gd='http://schemas.google.com/g/2005' xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'><id>tag:blogger.com,1999:blog-21132095</id><updated>2012-01-30T13:08:26.005+09:00</updated><title type='text'>片柳福音自由教会　メッセージ</title><subtitle type='html'></subtitle><link rel='http://schemas.google.com/g/2005#feed' type='application/atom+xml' href='http://katayanagi-efc-message.blogspot.com/feeds/posts/default'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default?max-results=100'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://katayanagi-efc-message.blogspot.com/'/><link rel='hub' href='http://pubsubhubbub.appspot.com/'/><link rel='next' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default?start-index=101&amp;max-results=100'/><author><name>ハレルヤ</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><generator version='7.00' uri='http://www.blogger.com'>Blogger</generator><openSearch:totalResults>191</openSearch:totalResults><openSearch:startIndex>1</openSearch:startIndex><openSearch:itemsPerPage>100</openSearch:itemsPerPage><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-21132095.post-1630831439009912196</id><published>2012-01-30T13:03:00.002+09:00</published><updated>2012-01-30T13:08:26.019+09:00</updated><title type='text'>実を結ぶ弟子になろう</title><content type='html'>２０１２年１月２９日　&lt;br /&gt;聖書：ヨハネの福音書１５章１～１２節&lt;br /&gt;説教：滝田新二牧師　　　　　　　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;1.わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;2.わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;3.あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;4.わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;5.わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;6.だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;7.あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;8.あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;9.父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;10.もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;11.わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;12.わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;序．本日は「第40回年次総会」である。この４０年の教会の主の導きと祝福に心から感謝します。40年とは、旧約の民が40年の荒野の旅が終わり、約束の地カナンに入る年である。つまり、教会が成熟して地域社会で宣教と隣人愛の業が拡大して、影響力をもたらす教会となることが期待されている。そのためには、私たちひとりひとりが主につながり、実を結ぶ弟子として成長することである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;1．わたしにとどまりなさい。（１５章４～６節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「あなたがたは多くの実を結ぶ」（2・5・8節）ここに祝福の約束がある。4節「わたしにとどまりなさい」 イエス様のご命令に従う時に「わたしも、あなたがたの中にとどまります」これが主のお約束である。私たちが「まことのぶどうの木」であるイエス様に「枝」のようにとどまる時、主が私たちの心の内に住んでくださり、自然と「多くの実を結ぶ」という結果になるのである。あなたも、多くの実を結ぶ主の弟子となりたいと願わないだろうか？&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２．みことばと祈りで、主にとどまる 　(15章７節)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;7節「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」　「主にとどまる」とは、主のみことばにとどまることである。みことばがあなたの心の中にとどまり、あなたがそのみことばに生かされる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;例話：日野原重明先生（聖路加国際病院の理事長）の本 『子どもを育てる聖書のことば』の中で語っている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「100年の歩みを振り返り、牧師の家庭に生まれ、子どもの頃に心に刻んだ聖書の御言葉がいかに自分を生かしてきたのか」に驚いている。1970年、58歳の時、「よど号」のハイジャック事件に遭遇し、「予期しない出来事」の中で心に真っ先に浮かんだものは、日曜学校で暗証した聖書の御言葉であった。マタイ8：26『“なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。”それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。』 50年の時を経て、心にとどまっていた御言葉が予期しない人生の嵐の中で、不思議な平安を心にもたらした。みことばに力がある。 祈祷会や女性会、デボーションを大切にしよう。「主にとどまる」とは、また同時に「教会にとどまり」「礼拝にとどまる」ことでもある。 主のみことばの共同体であり、神の家族である教会につながり、礼拝に出席することで主の祝福を受ける。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;3．主の愛にとどまる　(15章９～12節)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;例話：中世の偉大な神学者アウグスチヌスは、主に対する服従を譬えて、「それは犬が鎖につながれて飼い主の後についていくようなものではなく、鎖から放された犬が、喜んで飼い主の後についていくようなものだ」と語った。イエス様ご自身も、父なる神様に喜んで従い、しかも、ご自分の自由意志で、十字架を選ばれて、父なる神に従順した。そこには父・子・御霊の三位一体の愛と自由の交わりがあった。イエス様は父の愛の中にとどまっておられた。主の愛は、あなたにも今も豊かに注がれている。ただ、注がれている太陽の光も、遮光カーテンを閉め切っているので届かない。それを開く必要がある。私たちは、主の御言葉を受け、愛の光の中にとどまっていないと、奉仕も伝道も力を失い、喜びも平安も無くなり、やがて不平不満で、感謝もなくなり、枯渇してしまう。イエス様の愛にとどまり、三位一体の神との愛と信頼の交わりを楽しもう。自由と喜びに解放されよう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;結論：実を結ぶ弟子となろう！　(15章8節)　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;8.節「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私たちは２つの実を結ぶようになる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（１）御霊の実を結ぶ。（ガラテヤ書5章22～23節）　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;すべてのクリスチャンへの約束である。あなたはしゅにとどまり、キリストの似姿へ成長する。&lt;br /&gt;　　&lt;br /&gt;（２）御霊の賜物の実を結ぶ。（ローマ人への手紙12章5～8節）　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;キリストの体(教会) を建て上げるための賜物が与えられる。これはひとりひとり賜物は異なる。あなたも主の祝福を受けて、主の弟子としてキリストの似姿に変えられ成長し、仕事の実・奉仕の実・証しの実を結ばさせて頂こう！そして教会のビジョンの実現のために神と人々にお仕えしよう。&lt;br /&gt;　　　　　　　　　&lt;br /&gt;主よ感謝します。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/21132095-1630831439009912196?l=katayanagi-efc-message.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/1630831439009912196'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/1630831439009912196'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://katayanagi-efc-message.blogspot.com/2012/01/blog-post_30.html' title='実を結ぶ弟子になろう'/><author><name>ハレルヤ</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-21132095.post-2932150699470151692</id><published>2012-01-23T19:56:00.004+09:00</published><updated>2012-01-23T20:03:47.440+09:00</updated><title type='text'>アブラハムの生き方</title><content type='html'>&lt;span style="color: rgb(255, 204, 102);"&gt;～アブラハムの生涯④～&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２０１２年１月２２日　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;聖書：創世記１４章１～２４節&lt;br /&gt;説教：滝田新二牧師&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;序．アブラハムの生涯を3回学んだ。彼は、主の召しに従い、約束の地カナンをめざす旅人であり、約束の地で祭壇を築き主を礼拝し祈る敬虔な人である。そして身内の争いを避ける平和の人であり、甥のロトに良い方の土地を選ばせる謙遜な人である。しかし、今日は戦う人であり、勇気の人アブラハムの姿を学ぶ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１．戦いに巻き込まれるアブラハム　（創世記１４章１～１２節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（１）戦いのはじまり　～死海連合の西軍の反乱～　（１～４節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;カナンの地には、小さな国々（ソドム、ゴモラ、アデマ、ツェボイム、ベラ）があり、メソポタミヤのケドルラオメル王の属国であった。ところが13年目に反旗を翻した。 ケドルラオメルらメソポタミヤの4カ国連合の東軍と、５つの死海連合の西軍の天下分け目の戦いの火ぶたは切って落とされた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（２）戦いの結果　～東軍の大勝利～　(5～12節)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;東軍は、カナンを北から進入して、王の道周辺の国々を撃破してから南下し、西軍に向う。一方、迎え撃つ死海の西軍は、死海の近くのシディムの谷を戦場に選ぶ。瀝青（アスファルト）を掘るための穴が多数あり、大勢力の東軍を分断して、奇襲をかけるのに最善であった。しかしソドムとゴモラの堕落した罪の生活で、すっかり腑抜けの西軍は、百戦錬磨のケドルラオメル軍に勝てる訳などなかった。アブラムの親戚ロトと家族も捕虜となり連れ去られた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２．無欲の戦いのアブラハム　～奇襲攻撃～　（創世記１４章13～6節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;アブラムは、ロトの救出に立ち上がる。近隣のマムレの族長たちと、自分の僕318人でケドルラオメルを追跡する。東軍は巨大であり、彼らは巨人に向かう小人のようなものであった。アブラムは、勝利に気が緩んで夜遅くまで酒盛りをして眠りこけた敵に夜襲する。奇襲作戦は大成功した。この時のアブラムの戦いは義の戦いであった。人の領土や財宝を奪うためでもなく、全く無欲な戦いであった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;３．神に栄光を帰すアブラハム　（創世記１４章１７～２４節）　&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;（１）メルキデテクの祝福　（エルサレムの王・大祭司メルキデテク）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;メルキゼデクは、アブラハムと同じく、天地の創造主を信じ、神に仕える祭司で、イエス・キリスト様のひな形である。(ヘブル5：8～10)　彼は、アブラハムに勝利を与えた神に栄光を帰し、賛美し、祝福した。アブラハムも、主に感謝して、自分の物の十分の一をメルキゼデクにささげた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（２）狡猾なソドムの王　　(14：21～24節)　&lt;br /&gt;　　&lt;br /&gt;狡猾なソドムの王の申し出と誘惑を彼は即座に断った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;結論：『栄光はすべて主に！』&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私たちはアブラハムの生き方の中に、義の戦いに立ち上がる「勇気」、自分に勝利や成功を与えられた主に栄光をささげる「謙遜」、この世の誘惑をきっぱりと断る「潔さ」、人の労苦を思いやる「優しさ」を見た。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;これらは、私たちが身につけるべきキリスト者の美徳・御霊の実である。主に従うことは本当に祝福である。主の恵みと真理の中を歩み続けるなら、神を愛し、人を愛することにおいて祝福され、成長できる。本当に主を信じる者であるなら、どんな場合でも、栄光は神に帰し、すべての落度は、この罪人の私に帰していくべきである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;アブラハムの勇敢で、実に巧みな、また無欲な戦いが勝利を決した。この勝利は、かつてエジプトであの大きな失敗を通して、自分の弱さを知り、砕かれ、聖められたからである。　（参照：コロサイ2：3。Ⅰコリント6：19～20）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;宗教改革者のモットーは『栄光は神に、恥は我に』であった。　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;◎例話：足尾銅山の公害救済に生涯をささげた田中正造の言葉&lt;br /&gt;「真の文明は 山を荒らさず 川を荒らさず　村を破らず 人を殺さざるべし 」　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;主よ、感謝します。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/21132095-2932150699470151692?l=katayanagi-efc-message.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/2932150699470151692'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/2932150699470151692'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://katayanagi-efc-message.blogspot.com/2012/01/blog-post_23.html' title='アブラハムの生き方'/><author><name>ハレルヤ</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-21132095.post-1819744374122988540</id><published>2012-01-16T16:30:00.004+09:00</published><updated>2012-01-16T16:48:58.810+09:00</updated><title type='text'>主を信頼する者の幸い</title><content type='html'>&lt;span style="COLOR: rgb(255,204,102)"&gt;～アブラハムの生涯③～&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２０１２年１月１５日&lt;br /&gt;旧約聖書：創世記１３章１～１８節&lt;br /&gt;説教：滝田新二牧師　　　　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;1.それで、アブラムは、エジプトを出て、ネゲブに上った。彼と、妻のサライと、すべての所有物と、ロトもいっしょであった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;2.アブラムは家畜と銀と金とに非常に富んでいた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;3.彼はネゲブから旅を続けて、ベテルまで、すなわち、ベテルとアイの間で、初めに天幕を張った所まで来た。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;4.そこは彼が以前に築いた祭壇の場所である。その所でアブラムは、主の御名によって祈った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;5.アブラムといっしょに行ったロトもまた、羊の群れや牛の群れ、天幕を所有していた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;6.その地は彼らがいっしょに住むのに十分ではなかった。彼らの持ち物が多すぎたので、彼らがいっしょに住むことができなかったのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;7.そのうえ、アブラムの家畜の牧者たちとロトの家畜の牧者たちとの間に、争いが起こった。またそのころ、その地にはカナン人とペリジ人が住んでいた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;8.そこで、アブラムはロトに言った。「どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;9.全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;10.ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;11.それで、ロトはそのヨルダンの低地全体を選び取り、その後、東のほうに移動した。こうして彼らは互いに別れた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;12.アブラムはカナンの地に住んだが、ロトは低地の町々に住んで、ソドムの近くまで天幕を張った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;13.ところが、ソドムの人々はよこしまな者で、主に対しては非常な罪人であった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;14ロトがアブラムと別れて後、主はアブラムに仰せられた。「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;15.わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;16.わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;17.立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;18.そこで、アブラムは天幕を移して、ヘブロンにあるマムレの樫の木のそばに来て住んだ。そして、そこに主のための祭壇を築いた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１．信仰の原点に立ち返ったアブラム （１３：１～４）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;主の召しを受け、約束の地カナンに到着したのに、飢饉という自然災害の危機の中で、エジプトに避難し、王様のパロに妻サライが召し抱えられ、危機一髪の時に、主の憐れみによってサライは救い出された。カナンに戻る旅路の中で、アブラムとサライ夫婦には隙間風が吹いていた。イザという時、妻を盾にして自分だけ生き延びようとしたからである。夫婦の危機の時、互いに主の御前に出て、主を見上げ、主の赦しとお互いの赦しを受け、主の言葉と主の約束を信じることがなければ、愛と信頼の回復はできない。アブラムは祭壇に向かう。その祭壇はかつてアブラムが最初にカナンで築いたものである。彼は信仰の原点に立ち返り、再出発した。私たちも、失敗や苦難の時に、信仰の原点に帰り、再出発しよう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２.アブラムの選択 （１３：５～９）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;アブラムの牧者たちとロトの牧者たちの間に争いが起こった。遊牧民として、家畜の水や牧草のことで衝突してトラブルが発生した。アブラムは、争いを避けるため、それぞれが別の場所で生計を立てることを提案した。しかも、ロトに選択の権利を譲る。これはアブラムが何より主を第１にして、謙遜に、世の富に捕らわれない心の人となっていたことを示している。自分の利益よりも他人の利益を優先して、争いを避け、平和をつくるのがクリスチャンの生き方であり、そのためにこそ私たちは溢れるほどの主の祝福を受けている存在なのである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;３.ロトの選択 （１３：８～１３）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;他方、ロトはどうしたか？　ロトはヨルダンの低地全体を見渡し、山地ではなくソドム･ゴモラの東の平地を選ぶ。そこはエデンの園のように潤っていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;①ロトは、主を仰ぐことなく、世的な打算だけで、己の欲望に従って、豊かな地を選んだ。しかも、ロトが選んだ地は、豊かな地ゆえに、人々は驕り、高ぶり、道徳は乱れ、邪悪な町だった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;②ロトは、罪深いソドムの人々の近くにいても自分は大丈夫だと自己過信した。後に彼は悩み苦しむことになる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（箴言３章５～６節）「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;結論：主を信頼する者は祝福を受ける （１３：１４～１８）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;わが子のように愛したロトと別れ、寂しいアブラムに、主は現れ、励ましと子孫の祝福の約束を与える。アブラムが選んだヘブロンは荒地の中に横たわる山で、瘠せた、貧しい土地である。しかし、そこに祭壇を築いて生活の拠点とした。　「あなたの子孫を地のちりのようにふやす」という祝福の約束が彼を支えた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;例話：「病まなければ」河野進牧師の詩&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;病まなければ　ささげ得ない祈りがある&lt;br /&gt;病まなければ　信じ得ない奇蹟がある&lt;br /&gt;病まなければ　聞き得ないみことばがある&lt;br /&gt;病まなければ　近づき得ない聖所がある&lt;br /&gt;病まなければ　仰ぎ得ない御顔がある&lt;br /&gt;おお病まなければ　私は人間でさえもあり得ない&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;アブラムに学ぶ教訓とは何か？&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;①自分の権利と利益を優先する世にあって、どこまでも人を愛し、仕える責任を全うすることである。主イエス様の言われたように「受けるよりも、与える者は幸いである」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;②この世の何ものにもまさって、神との親しい交わりに、最高の慰めと励ましを見出すことである。私たちも日々心の中に祭壇を築き、礼拝を献げ、主の祝福と真理の中を歩んで行こう。　　　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;主よ感謝します&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/21132095-1819744374122988540?l=katayanagi-efc-message.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/1819744374122988540'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/1819744374122988540'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://katayanagi-efc-message.blogspot.com/2012/01/blog-post_16.html' title='主を信頼する者の幸い'/><author><name>ハレルヤ</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-21132095.post-5272740050957019586</id><published>2012-01-09T11:04:00.003+09:00</published><updated>2012-01-09T11:10:06.086+09:00</updated><title type='text'>主の憐れみは尽きることがない</title><content type='html'>&lt;span style="color: rgb(255, 204, 102);"&gt;～アブラハムの生涯②～&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２０１２年１月８日&lt;br /&gt;旧約聖書：創世記１２章１０～２０節&lt;br /&gt;説教：滝田新二牧師&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;10.さて、この地にはききんがあったので、アブラムはエジプトのほうにしばらく滞在するために、下って行った。この地のききんは激しかったからである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;11.彼はエジプトに近づき、そこに入ろうとするとき、妻のサライに言った。「聞いておくれ。あなたが見目麗しい女だということを私は知っている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;12.エジプト人は、あなたを見るようになると、この女は彼の妻だと言って、私を殺すが、あなたは生かしておくだろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;13.どうか、私の妹だと言ってくれ。そうすれば、あなたのおかげで私にも良くしてくれ、あなたのおかげで私は生きのびるだろう。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;14.アブラムがエジプトに入って行くと、エジプト人は、その女が非常に美しいのを見た。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;15.パロの高官たちが彼女を見て、パロに彼女を推賞したので、彼女はパロの宮廷に召し入れられた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;16.パロは彼女のために、アブラムによくしてやり、それでアブラムは羊の群れ、牛の群れ、ろば、それに男女の奴隷、雌ろば、らくだを所有するようになった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;17.しかし、主はアブラムの妻サライのことで、パロと、その家をひどい災害で痛めつけた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;18.そこでパロはアブラムを呼び寄せて言った。「あなたは私にいったい何ということをしたのか。なぜ彼女があなたの妻であることを、告げなかったのか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;19.なぜ彼女があなたの妹だと言ったのか。だから、私は彼女を私の妻として召し入れていた。しかし、さあ今、あなたの妻を連れて行きなさい。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;20.パロはアブラムについて部下に命じた。彼らは彼を、彼の妻と、彼のすべての所有物とともに送り出した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;序．元旦礼拝では、アブラムが、月の神を拝む偶像崇拝の都ウル（現在のイラク南部）を出発し、主が示された地を目指し旅立った。しかし、約束の地が何処か分からない旅であった。アブラムを支えたのは主の祝福の約束の御言葉であった。彼はカナンの地に到着し、祭壇を築き、主に感謝した。ところが、喜びもつかの間、大きな試練に遭う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１．信仰の試練　～アブラムの失敗～　（１２：１０～１６）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;約束の地で、祝福ではなく、飢饉という試練に襲われた。私たちは、主に愛されて祝福の約束を頂いても、いつも順調とは限らない。むしろ困難に直面し、私たちの信仰が試される。この時、アブラムは常識に従って豊かなエジプトへ避難し、しばらく滞在しようと考えた。アブラムは、今まで主を第一にしてきたのに、食糧のために、余りにもあっさりと約束の地を離れてしまった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２つの原因が考えられる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;① 永久の移住ではない。自然災害による一時的な滞在で緊急避難なのだと思い込んだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;② いかなる境遇にあっても神の守りがあるという信仰がまだなかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;だから、祈り求めることもなく、安易に考え出発した。案の定エジプトに近づくと、今度は人を恐れたアブラムは何とも愚かな策略に頼ろうとした。この時代のエジプト人は人妻を略奪することで有名であった。妻サライの美貌ゆえに彼は悩み恐れた。そこで「妻と言わないで、妹だと名乗った。」異母兄妹ゆえに嘘ではないが半分の真実である。しかし、アブラムは人を恐れるあまり、人を欺き、愛する妻を犠牲にして、自分の命を守ろうとした。やがて王様パロの王宮に召され、絶対絶命の危機を迎える。今までのアブラムの信仰はどこに行ってしまったのか？それほどに愚かで、浅はかで、自己中心であった。それは神への信頼も、みこころに従う姿勢も全く見えず、優柔不断で、ただ苦肉の策に走る、弱く、脆い、愚かな人間の姿である。ここに私たち信仰者が陥る罠がある。（箴言 29:25～26）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２．信仰の恵み　～主のあわれみ～　（１２：１７～２０）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;突然、エジプトの王宮にひどい災害が起り、王は、その原因を知ることになる。さらなる災いを恐れた王は、すぐに二人に与えた財産を持たせたままで、国外に立ち去らせた。彼らは危機一髪、救い出された。アブラムは主のあわれみを体験する。それは神の特別なご介入による。愛する妻を失う窮地からアブラムを救い出したのは、この世界を創造し、すべてをご支配される神の御手の業による。しかし、それはアブラムが信仰深いからではない。アブラムが正しい行いをしたからでもない。ただ、罪人のアブラムを愛される主のあわれみによる。私たちも、このような主の恵みと憐れみの中に生かされている。　私たちはアブラムのように、神を恐れるよりも人を恐れる。また困難を避け、主のみこころを求めるよりも、人間的な知恵を求める。そして「こんな罪の世なのだから仕方がない」と、愚かにも人間的な計画を立てる。しかし、間違った選択をする私たちの信じる主は、実に憐れみ深い愛のお方である。迷うわが子を探す親のように、私たちを助け、行くべき道へともう一度差し戻してくださる。私たちも、失敗した時、そこから軌道修正するのではなく、悔い改めて、信仰の原点に立ち返り、再出発をしよう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;結論：「あなたは、主の恵みと憐れみにとどまりなさい」　（哀歌3章22節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;アブラムのように敬虔な人でも、神の恵みと真理にとどまり続けることをしないなら、人を恐れ、実に愚かな行動を選び、失敗を繰り返す。だからイエス様にとどまろう。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15：5)　そのために礼拝・祈り・みことばの学びがある。クリスチャンは、労苦を逃れる人生ではなく、主にあって労苦が報われ、主の祝福の器となるのである。主のめぐみと憐れみにとどまろう（詩篇1：1～3、ヨハネ16:33）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;主よ、感謝します。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/21132095-5272740050957019586?l=katayanagi-efc-message.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/5272740050957019586'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/5272740050957019586'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://katayanagi-efc-message.blogspot.com/2012/01/blog-post.html' title='主の憐れみは尽きることがない'/><author><name>ハレルヤ</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-21132095.post-8500097993634784334</id><published>2011-12-26T19:48:00.003+09:00</published><updated>2011-12-26T19:56:42.726+09:00</updated><title type='text'>クリスマス</title><content type='html'>&lt;span style="color: rgb(255, 204, 51);"&gt;～最高の贈り物～&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２０１１年１２月２５日　クリスマス礼拝&lt;br /&gt;聖書：マタイの福音書２章１～１２節&lt;br /&gt;説教：滝田新二牧師&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;1.イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;2.「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;3.それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;4.そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めてキリストはどこで生まれるのかと問いただした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;5.彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;6.『ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから。』」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;7.そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、彼らから星の出現の時間を突き止めた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;8.そして、こう言って彼らをベツレヘムに送った。「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;9.彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;10.その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;11.そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;12.それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;序.　Merry  Christmas!  イエス様を世界の主・王と認めて礼拝したのは東の国の博士たちだけであった。ユダヤ人は誰一人として、このお方を礼拝しようとはしなかった。現代人も同じ（参照：ヨハネ1：9-13）　博士たちは、イエス様に、３つの献げ物を携えて来た。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１．博士たちの礼拝　（ ２章１～２  節）　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;東の博士たちは、救い主の星を見て、世界の王であり主であるお方への、ただ一度の礼拝のために大旅行に出かけた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２．博士たちの贈り物　（  ２章９～１１節 ）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（１）王のための黄金　（ イエス様は、王です  ）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;黄金は王のシンボル。（例話：エジプトのツタンカーメン王の黄金のマスク）　博士たちの黄金は、イエス様こそ、王の王、主の主と認めた。Ｆ・Ｂ・マイヤーは「あなたも黄金を神に献げているか？　布に包まれた幼子を見ただけの、あの東方の博士たちに比べて、あなたは十字架に架かり、復活された栄光のキリストをご存知のはずだ。....それなのにあなたは、黄金の代わりに、銅貨でことを済ませようとするのか？黄金を、最上のものを、お献げする事こそ、神にも、またあなた自身にもふさわしいことではないか？」と。最高のもの、最上の物を受けるに相応しいお方に、何か余ったら献げるという間違った献げものをしていないか？私たちの人生の王に、私たちの家族の王に、私たちの教会の王に、世界の王に、最上さのさげものをささげ、主の豊かな祝福を受けよう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（２）神のための乳香　（  イエス様は、神です  ）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;乳香は、神殿での礼拝のために、また祭司たちの油注ぎに用いられた。乳香は、感謝の献げ物と神への賛美を表す穀物の献げ物の一部となっていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;博士たちはこの贈り物によって、キリストこそ、永遠の神であり、大祭司であることを告白した。（参照：ヨハネ8：46）乳香の献げ物が象徴しているのは、キリストは永遠の神であり、聖いお方、永遠の命であると、宣言している。主が降誕されたのは、十字架の贖いの御業を完成するため。　では、私たちの献げるべき乳香とは何か？　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;A・B・シンプソンは「キリストが私たちに要求される事は、私たちの礼拝である。まず第一に自分自身をキリストに献げるのでなければ、私たちの黄金を受け入れられないのと同じように。私たちのどのような奉仕をも受け入れないであろう！」　　私たちの「真心という乳香の献げ物、礼拝という乳香の献げ物、自分自身という献身の乳香を、まず主イエス様に献げよう！&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（３）救い主のための没薬　（  イエス様は、救い主です  ）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;没薬（ミルラ）は、ミイラを作る時に、死体に添え、防腐処置を施すために用いられた。没薬は、イエス様のご生涯の初めと終わりに関係している。初めは、博士たちが幼子に献げ、終わりには、ローマ兵が十字架の上の主に没薬を混ぜたブドウ酒を飲ませようとした。ニコデモは埋葬のために没薬を携えて来た。没薬は、死者の葬りのためのもの。「主イエス様は生きるために生まれて来たのではなく、十字架で死ぬために生まれて来た」主のご生涯は、初めから終わりまでが「没薬」の生涯であった。（参照：イザヤ53：4-5）　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私たちの献げるべき「没薬」とは何か？　「イエス様をあなたの救い主として信じ受け入れる」「伝える」という「没薬」を献げること。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;結論：『 クリスマスは、あなたへの最高の贈り物です 』（２章１０～１１節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;① イエス様を、あなたの人生の王・主として受け入れよう！&lt;br /&gt;　　　&lt;br /&gt;博士たちがひれ伏したように、あなたも、主イエス様に従おう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;② イエス様を、あなたの永遠の神として受け入れよう！　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;このお方に礼拝をささげよう。　主への献身を新たにしよう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;③イエス様を、あなたの救い主として受け入れよう！&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;あなたの過去の罪の赦しを受け、信仰を新たにしよう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;不安と恐れを取り除く完全な治療薬は、キリストの完全な愛である。イエス様を信じ、心に受け入れ、自由になろう。クリスマスは、壊れた関係の回復の時である。平和の主を受け入れる時、聖霊様があなたの心に内住されて、あなたは平和の子となる。あなたへのクリスマスの最高のプレゼントであるイエス様を心にお迎えし、共にお祝いしましょう！&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;主よ感謝します。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/21132095-8500097993634784334?l=katayanagi-efc-message.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/8500097993634784334'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/8500097993634784334'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://katayanagi-efc-message.blogspot.com/2011/12/blog-post_26.html' title='クリスマス'/><author><name>ハレルヤ</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-21132095.post-6134766299514711428</id><published>2011-12-19T20:03:00.004+09:00</published><updated>2011-12-19T20:11:21.979+09:00</updated><title type='text'>クリスマス</title><content type='html'>&lt;span style="color: rgb(255, 204, 102);"&gt;～神に不可能はありません～&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２０１１年１２月１８日&lt;br /&gt;聖書：ルカの福音書１章２６−３８節&lt;br /&gt;説教：滝田新二牧師&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;26.ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;27.この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;28.御使いは、はいって来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;29.しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;30.すると御使いが言った。「こわがることはないマリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;31.ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;32.その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;33.彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;34.そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;35.御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;36.ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;37.神にとって不可能なことは一つもありません。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;38.マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;序.　「アドベント（待降節）」とは「主を待ち望み・主に向う」ことである。実は私たちの生活は、いつもアドベ ントである。すべてにおいて主は、あなたに先立って 道を示し、呼びかけておられる。  それゆえ、主の呼びかけを聞き、それ  に従って行くことによって、私たちは主の祝福を受ける。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１．主の呼びかけ　〜おめでとう恵まれた方〜　（２６〜３５節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;天使ガブリエルが、マリヤに突然現れて「おめでとう。恵まれた方。主があなたと共におられます」(28節)と呼びかけた。マリヤは、この言葉に戸惑いながらも「これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。」(29節)マリヤのすばらしさは、応答（反応）する前に、考え込む（思い巡らす）ことにある。マリアはいつも主の御前に静まり、み言葉を思い巡らし、朗唱していた。（参照：ルカ2：51）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私たちもマリアのように神と親しく交わるためには、御前に静まることが求められている。主はこの世界を、多忙で複雑には創造されなかった。『神は私たちを、わかりやすく単純なものに造られた。しかし、私たちが自分たちをひどく複雑なものにしてしまった。』（伝道者7：29TEV訳）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私たちが静まることを妨げるものは、２つある。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;① 第１番目は、私たちの「欲望」である。 私たちは現状に満足せず、獲得競争で苛立ち、平安がない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;②  第２番目は、私たちの「妬(ねた)み」である。主のことよりも自分や他人のことが一番の関心事にな　り、満足がなくなり、  シンプルな生活ができない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;天使は「マリヤ。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい」「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。」男の子(救い主)は、ダビデの王国を再興し、永遠の神の国を確立すると告げる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２．主への応答　〜おことばどおりなりますように〜　（３８節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;マリヤは応答した。「私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり　この身になりますように。」「はしため」とは、奴隷を意味する。ここに、神のみこころへの徹底的な服従の姿勢が見られる。私たちは、自分の願望に縛られて、祈りによって主を奴隷のように動かそうとする。　しかし、それでは、神の真実の愛を体験することはできない。　あなたの生涯に、神のみこころがなることを妨害しているのは何か？　あなた自身の自我、石よりも硬い石の心である。　全能の神は、身を低くして、ノックして、あなたを用いようとしておられる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;(参照：ヨハネの黙示3:20)　『見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。』&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;このマリヤの祈りこそ、最高の応答（献身）の祈りである。主に祝福される信仰の応答である。主の祈りの「みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように」と基本的に同じ祈りである。エリザベツは、４５節で「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう」と祝福した。マリヤがみことばに応答する祈りをささげたことを指している。あなたも、同じ応答をするなら、神の友と呼ばれ、神の救いのご計画のために豊かに用いられる。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;結論：『神に不可能はありません』（３７節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt; 主は、マリヤに「神にとって不可能なことは一つもありません」&lt;br /&gt;（Nothing  is  impossible  with God.  NIV訳）と宣言された。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;このみ言葉は、神が私たちの生涯に行われる御業を、人間的な常識の枠に閉じ込めてしまいがちな私たちの心を押し広げる、決定的な神のみ言葉である。ここには教理的に何か目新しい教えはない。これは神の定義である。しかし、このみ言葉を、あなたが心の底から確信できるなら、あなたの人生は変わる。マリヤは、自分の周りで起こるイスラエルの民の様々な悲劇に心を痛めていた。しかし、主が処女である自分から救い主が生まれるという御告げを受けた。「神にとって不可能なことは一つもありません」と聞いた時、彼女は決断して「あなたのおことばどおりこの身になりますように」と応答し、主に自分のすべて差し出し、神に献身した。この時、世界の歴史は動いた。神の救いのご計画であるクリスマスが、こうして実現した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;例話：ハリウッドのスター・俳優・クリフトン・ディービスの 人生を変えた1980年12月25日』&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;彼は1945年に牧師の家庭に生まれました。霊的に恵まれた環境でしたが、教会のクリスチャンのことばと行動に嫌気がさして、自由を求めブロードウエーに行き、やがてハリウッドのスターの仲間入りをし、トニー賞を受賞し、数多くのテレビドラマに出演します。人気商売ゆえのハリウッドの過酷な競争の中で、過度のストレスと不安に耐えきれずにコカインに手を出し、中毒になり転げ落ちて行きます。やがて豪邸のすべてをお酒と薬物に注ぎ、破綻してしまいます。家族はずーと祈っていました。1980年の12月25日彼は死のうとしていました。そこに電話が鳴ります。牧師となった兄のカーライルからです「みんなが心配している。お母さんは夕べおまえが死にそうになっている夢を見たそうだ」「兄さんほっといてくれ」「神様は変わらずお前を愛している。お前に生きてほしいんだよ。神様がそのことを知らせなさいといわれるんだ。ダニエル書12章3節だ　「思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は世世限りなく、星（スター）のようになる」クリフトン神様は、お前に、神のためのスターになってほしいと思っておられるんだよ」主に触れられ、電話口でひざまずき、「主よ、この罪人をあわれんでください」と祈ると、せきを切ったように泣き崩れ、おえつをあげて祈り悔い改め、放蕩息子が帰ったようい、神から逃れて来た恐るべき年月から解放され、やがてコカインからも解放され、大学・神学校に進み、牧師の資格を取り、伝道ししながら、ハリウッドで神のスターとして輝いています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;今朝、主は、あなたにも同じ信仰の応答を求めておられる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「あなたのおことばどおりこの身になりますように」と、自分の身と心を主にお献げしよう！&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;主よ、感謝します。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/21132095-6134766299514711428?l=katayanagi-efc-message.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/6134766299514711428'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/6134766299514711428'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://katayanagi-efc-message.blogspot.com/2011/12/blog-post_19.html' title='クリスマス'/><author><name>ハレルヤ</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-21132095.post-893298299336437921</id><published>2011-12-13T08:50:00.006+09:00</published><updated>2011-12-13T09:43:34.315+09:00</updated><title type='text'>クリスマス</title><content type='html'>&lt;span style="COLOR: rgb(255,204,102)"&gt;～その名はインマヌエル～&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　　　　　　　&lt;br /&gt;２０１１年１２月１１日&lt;br /&gt;聖書：マタイの福音書 １章１６－２５節&lt;br /&gt;説教：滝田新二牧師　&lt;br /&gt;　　　　　　 　&lt;br /&gt;16.ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた。キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;17.それで、アブラハムからダビデまでの代が全部で十四代、ダビデからバビロン移住までが十四代、バビロン移住からキリストまでが十四代になる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;18.イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;19.夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;20.彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;21.マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;22.このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;23.「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;24.ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;25.そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;序．今日はアドベント（待降節）第3週である。&lt;br /&gt;救い主のご誕生は、マタイとルカの福音書に記されている。ルカは、母マリヤから見た誕生の様子が描かれているのに対し、マタイは、父ヨセフの立場から見ている。けれども、ヨセフの場合父親と言っても、血のつながりはなく、あくまでも法律上の父であり、養父であった事実が、その系図で明らかにされている。(16節)　では、一体、救い主はどのようにして誕生したのだろうか？&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１．ユダヤの結婚　（１８節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;当時のユダヤの結婚には順序があった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;第１段階は、「婚約の段階」で、子どもの頃に両親によって決められた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;第２段階は、「許婚の段階」　許婚とは、法律上の結婚で期間は普通一年。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし実際に夫婦として生活する権利は持っていなかった。ヨセフとマリヤは、この許婚の段階にあった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;最後の段階は、「結婚式」であった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;花婿が新居を用意できたら、許婚の期間が終わり、ふたりは人々の祝福を受け、盛大な結婚式を挙げた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２．ヨセフの試練と苦悩　（１８～１９節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;若者ヨセフの夢を打ち砕くような出来事が起る。婚約中のマリヤが妊娠した。まさに青天の霹靂(へきれき)で、ヨセフの心は、動揺し、苦渋し、将来への不安で満ちた。ヨセフは、マリヤを姦淫の罪で裁判に訴えることもできたが、ルールに縛られた石頭の律法主義者ではなかった。ヨセフは、正しい人であると同時に愛の人でもあった。マリヤを内密に去らせ、密かに離婚することを考えた。しかしマリヤのお腹は世間の目を欺けなくなる時がくる。夜も眠れず思い悩むヨセフに、主の使いが現れた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;３．主の使いの受胎告知　　（２０～２５節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです」と、主の使いはヨセフがダビデ王の子孫であることを思い起こさせ、マリヤが生むのは神の遣わす救い主であると励ました。思い悩むヨセフの心に、神の約束の御言葉による平安がもたらされた。私たちの人生に真の平安をもたらす秘訣は、神のみことばである。ヨセフは、ご自分の民をその罪から救ってくださる男の子をわが子として愛し、育てることのできる光栄に喜びが湧き上がったことだろう。そしてヨセフは主に従った。ヨセフは夢を打ち砕くような出来事に出会っても、自分の苦しみよりも人の苦しみを思いやる人。救い主が生まれるまではマリヤを知ることがなく、守るべき者のために自分を捨てる人。また何よりも主の最善を信じる人。それが神の人ヨセフであった。私たちは、このヨセフのような愛で人を愛し、主を愛し、主に従順しているだろうか？&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;結論：「インマヌエル（神は私たちと共におられる）」（２２～２３節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ヨセフが困難の中にあって愛に富む生き方ができたのは、ヨセフと共に歩まれた神の愛によると聖書は教えている。イエスとは「主は救ってくださる」という意味がある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;クリスマスの素晴らしいニュースは、主があなたとは無関係でどこか遠くにおられるのではなく、今ここに、あなたと共におられることである。　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;主は、人として生まれ、私たちと共に歩み、私たちのために最善をなすことを、この上ない喜びとされるお方である。まさに愛そのものであるという驚くべき知らせである。　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;アドベントの礼拝で、私たちがしなければならないのは、ただ２つのことである。1つは、聖い全能の神があなたを愛する余り、私たち人間のひとりになられたと信じること。２つは、自分が愛に欠け、いかにひどい罪人であるか、イエス様の救いを必要としているかを認め、心に受け入れることである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;あなたが、イエス様を救い主として信じ、心と人生にお迎えする時に、あなたは、主ご自身と親しく交わり、神の愛のうちに憩うことが、この世のすべてにまさる喜びであることを知るようになる。こうして、あなたもヨセフのように、神と人を愛する神の人へと変えられるのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;主よ謝します。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/21132095-893298299336437921?l=katayanagi-efc-message.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/893298299336437921'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/893298299336437921'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://katayanagi-efc-message.blogspot.com/2011/12/blog-post.html' title='クリスマス'/><author><name>ハレルヤ</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-21132095.post-8888149812931219683</id><published>2011-11-20T22:20:00.004+09:00</published><updated>2011-11-21T11:38:23.201+09:00</updated><title type='text'>リーダーは仕える人</title><content type='html'>&lt;span style="COLOR: rgb(255,204,102)"&gt;～神と教会に仕える執事～&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２０１１年１１月２０日　　&lt;br /&gt;聖書：使徒の働き　６章１〜10節　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;説教：滝田新二牧師&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;1.そのころ、弟子たちがふえるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちが、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情を申し立てた。彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給でなおざりにされていたからである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;2.そこで、十二使徒は弟子たち全員を呼び集めてこう言った。「私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;3.そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;4.そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;5.この提案は全員の承認するところとなり、彼らは、信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ、およびピロポ、プロコロ、ニカルノ、テモン、パルメナ、アンテオケの改宗者ニコラオを選び、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;6.この人たちを使徒たちの前に立たせた。そこで使徒たちは祈って、手を彼らの上に置いた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;7.こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々に信仰にはいった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;8.さて、ステパノは恵みと力とに満ち、人々の間で、すばらしい不思議なわざとしるしを行っていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;9.ところが、いわゆるリベルテンの会堂に属する人々で、クレネ人、アレキサンドリヤ人、キリキヤやアジヤから来た人々などが立ち上がって、ステパノと議論した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;10.しかし、彼が知恵と御霊によって語っていたので、それに対抗することができなかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;序.混迷する現代に求められているのは何か？それはリーダーである。リーダーとは何か？地位や肩書や能力ある人のこと？いや違う。真のリーダーと「影響力ある人」である。その存在が、周りに良い影響を与える人である。今日は執事選出の総会である。執事とはリーダーであり、仕える人である。初代教会からその模範を学ぼう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１.執事選出の背景　（６：１）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;①教会の急成長：「弟子たちがふえるにつれて」使徒4：4では男だけで５千人を越えていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;②教会の多様性：「ギリシヤ語を使う人やへブル語を使う人・やもめなど、多様な人々が混在していた。&lt;br /&gt;③使徒たちが超多忙：「やもめたちが毎日の配給でなおざりにされていた。」（牧会に困難が生じていた）　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２.使徒たちの提案と執事選出の目的（６：２～６）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この苦情処理のために使徒が提案した解決策は、「食卓のことに仕える」仕事に当たらせる７人の執事を選ぶことであった。ここで、食卓に「仕える」がギリシャ語で「デイアコニア」で、ここから「執事」は「デアコノス」（仕える人・奉仕者）と言われるようになった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;役員というのは宗教法人法の法律用語で、聖書的な言葉ではない。執事が聖書的な言葉である。つまり、「使徒職」以外に、新しい「執事」という職務を認め、組織化を進めようとした。こうして教会の組織が整えられ、奉仕の分業が進められたのは、キリストの体としての教会の一体性と健全な成長を保つためである。何よりも使徒たちが（今日では牧師）本来の職務である「祈りと御言葉への奉仕に専念する」目的のために執事が選出された。執事は会社や労働組合の役員のように、社長や会長をチェックするのが仕事ではなく、牧師と共に重荷を負い、牧師を支え、共に神と教会（人々）に仕えるのが執事の務めである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;３.執事の資格（６：３）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;①「御霊に満ちた人」とは、「評判の良い」クリスチャンのことで、信仰生活を忠実・誠実に歩む人である。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;②「知恵に満ちた人」とは、御霊の実としての「神の知恵」を与えられた人である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;③「評判の良い人」とは、教会の内と外でも「証しされている人」のことである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この提案に基づいて行なわれた選挙と任職が、５〜６節に記されている。使徒たちは「兄弟たち。あなたがたの中から、７人を選びなさい」と依頼し（3節）「全員」が７人を「選び、この人たちを使徒たちの前に立たせ」按手して祈って任命した。こうして執事の選挙と任職が行われた。私たちもこの模範に従う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;◎例話：初代教会7人の執事の一人「ステパノ」　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;彼はリーダーとして、8節「ステパノは恵みと力とに満ち、人々の間で、すばらしい不思議なわざとしるしを行なっていた。」初代教会には、伝道と力ある業は、牧師まかせといった考えはなかった。牧師も信徒も共にキリストの体である教会のために仕えた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;◎例話：片岡健吉(1844-1903)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;彼は、坂本竜馬と同じ土佐藩出身で、板垣退助と共に自由民権運動で投獄された。獄中で、イエス様と出会い救われる。最初の衆議院選挙以来、議長として１４年間国家に仕えた。また国会の議長の傍ら日本基督教団・高知教会の会員として礼拝の下足番として奉仕した。彼は、生涯、神と教会と国家に仕えた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;結論：神と教会に仕えることは祝福　～真のリーダーとは仕える人～　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（マルコ10:4３～4４）&lt;br /&gt;「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;◎例話：マギー・ゴブラン女史は、エジプト・カイロのマザーテレサと呼ばれる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;スラムの貧しい人々に仕えるように主に召された。彼女は、エジプト　カイロの医者の家庭の末娘として生まれ、裕福な暮らしをしていました。海外旅行をし、宝石を身に付け、ブランド物の洋服を買うのが大好きでした。祖母の信仰によって、聖書を毎日読むようにはなっていました。祖母は、貧困者を熱心に助ける人でした。その祖母が天に召され、心に開いた穴を埋めるべく、２５年前、カイロの医大の教授をしている時に、クリスマスプレゼントをしようと、カイロの貧しい人々を訪れました。そこで目にしたのは、想像を絶する困難でした。ある家庭を訪問した時、帰って来た少女が、擦り切れた靴を履いているのに出会い、新しい靴を探して渡そうとしました。すると、少女は、「もっと大きいサイズの物に変えてください。」と言います。「なぜ？」と聞くと、「お母さんは靴を履いていないから。」その時から、マギーの心に神様が語り始めたのです。“この様な人々を助けるように。”自分には出来ない、相応しくないと拒否していました。しかし、全てを捨てて、神の召しに従った時、多くの事を学びました。「優美さは、内面から人を愛する事によって生み出される。」「自分が痛むほどに与える事によって、本当の豊かさを経験する。」マギーは語ります。「生まれる家庭は自分で選べないけれど、自分の人生を、罪人として歩むか、聖人として歩むかは選べる。」「凡人として一生を終えるか、ヒーローになるかを選べる。」「何も無い中で、神様が全てとなりました。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ママ・マギー・ゴブランの働きは、現在。１４００人の職員。２７０００の家族をお世話。80の教育センターには、６００人以上の子供達が、教育、医療、食事の提供を受けています。多くの貧しい家庭の人々が、食料、医療、家屋修繕、教育、職業訓練を受けています。ノーベル平和賞にも三度ノミネートされました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　『私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。』（ピリピ人への手紙　４章１３節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私たちは誰一人として主の御前に、完全に、執事に相応しい条件を持った人はいない。不完全な者をも、神の国の為に用いてくださるのが、主の恵みであり、神の計画である。主はあなたに成長と祝福の機会を与えられる。あなたも、主イエス様のように、仕える者、影響力のあるしもべとなり、家庭や学校、職場で、神と人にお仕えしよう！&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;主よ感謝します。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/21132095-8888149812931219683?l=katayanagi-efc-message.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/8888149812931219683'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/8888149812931219683'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://katayanagi-efc-message.blogspot.com/2011/11/blog-post_20.html' title='リーダーは仕える人'/><author><name>ハレルヤ</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-21132095.post-492357034156230749</id><published>2011-11-15T09:11:00.005+09:00</published><updated>2011-11-15T13:13:01.900+09:00</updated><title type='text'>最も小さい者にしたことは私にしたのです</title><content type='html'>&lt;span style="COLOR: rgb(255,204,102)"&gt;～神と人に仕える～&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２０１１年１１月１３日&lt;br /&gt;聖書：マタイの福音書２５章３１〜４６節&lt;br /&gt;説教：滝田新二牧師&lt;br /&gt;　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;31.人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;32.そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;33.羊を自分の右に、山羊を左に置きます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;34.そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;35.あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;36.わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;37.すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;38.いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;39.また、いつ私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;40.すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;41.それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;42.おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;43.わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;44.そのとき、彼らも答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。』&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;45.すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;46.こうして、この人たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;序.先週は、「主よ私を用いてください」という祈りについて学びました。具体的にはモーセは自分の羊飼いの杖を捨てて、主にゆだねた時に、杖は神の杖となり、主に豊かにモーセが用いられていったことを御言葉から学びました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;今日は、そこから更に一歩間に進みましょう！ロシアの文豪トルストイの「靴屋のマルチン」とディキンズの「クリスマスキャロル」はこのマタイの25章を題材にしている。ここには主の再臨を待ち望むクリスチャンの神と人に仕える生き方について御言葉を受けよう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１．最後の審判（マタイ25章31～34節　41～46節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（１）羊と山羊とに分けられる　（３１〜３３・３４・４１・４６）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;羊は従順、山羊は自己中心というイメージがある。イエス様の再臨の時まで羊と山羊、麦と毒麦のたとえ話のように、本当のキリスト様の弟子とそうでない者が共にいる。しかし最後には、主の審判がある。一方は、神の祝福を受けた者として神の御国を受継ぐ。しかし、もう一方は神ののろいのもとに置かれる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（２）良い行いと信仰義認との関係&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ここを読むと、「行ないによって人は義とされる」かのような印象を受けるがそうではない。良い行いは救いの根拠ではなく救いの結果・証拠である。「信仰による義（信仰義認）」は救われる条件の全てではあっても、信仰生活全体の全てではない。受洗は、求道の最終結果ではなく信仰生活の出発であり、結婚はゴールインではなく、スタートラインであるようにである。イエス様を信じたら救われる。そこからイエス様と共に生きる信仰生活が始まる。その信仰生活の実質（御霊の実）を証拠として問われている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２．愛は行動に現れる　　（３５〜４０節）　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（１）隣人愛の真価が問われている&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;このみことばは私たちに愛の真価を問う。ここに出て来る困った状況（35-36節）を分析して見よう。　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;①「空腹と渇き」　日常的に困ったこと。　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;②「旅行と裸」　　特別な時に困ったこと。　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;③「病気と牢」　　肉体的、社会的な窮地。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;聖書の黄金律はこう教えている。（マルコ12：29-31）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;29イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;30.心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;31.次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私たちは悲しむ者と悲しみ、喜ぶ者と喜ぶことは難しい。自己中心の私たちがまだ罪人であった時に、イエス様は私たちの罪を負って十字架に死んでくださった程に私たちを愛しておられる。その愛は完全である。「私の兄弟たち・小さい者」とは、家族や学校や職場の人。教会にも小さい者がいる。子ども、お年寄りや、病気の方・障害者たちである。神の愛はこの人々と喜びを喜びとし、悲しみを悲しみとする。その小さい者のために私たちの教会は精神障害者のための「グループホームのぞみ」を作った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（２）主の愛に心を満たされて　〜イエスとの出会い〜&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;例話①：インドのスラム街の中で一生を捧げたマザーテレサ　「私は朝早く礼拝を捧げることを通してイエス様と出会い、道端で死んでいく人に一口のスープを飲ませ、死に行く人を一人の人間として死の看取りをする、その人を通して先にその人々の所に行っておられるイエス様と出会っているのです」マザーテレサは、毎日イエスと出会う祈りをもって生活し、神の愛に満たされて行動した。「私たちの働きは、大海の一滴に過ぎないかも知れません。しかし、その一滴がなければ大海はできないのです」と。さらに「神と共にいて幸せであるとは、神が愛されるように人を愛し、神が助けるように人を助け、神が与えるように与え、神が仕えるように仕え、･･･　苦しむ人の姿をまとっているイエス様に手を触れることなのです」　今日も多くの人がイエス様の手足となって、世界中で神と人々に仕えている。私たちの教会でもイエス様の手足となって兄弟姉妹が仕えている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;例話②：『クリスティーン・ケーンは、豪・ヒルソング教会の牧師で、現代も奴隷となっている2700万人の救出のために戦っている女性の証し　DVD』&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;結論：『愛は行動である』　〜目を外に向け、小さい者の声を聞きなさい〜&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;毎日の生活や働きの中で、御言葉と聖霊様の導きの中で、声なき者の声を聞き、気付いた領域に足を向け、祈りと愛が行動となり、主の手となり足となり、家族や教会の兄弟姉妹に、あなたの周りの人々に仕え、イエス様へに触れる人生を歩もう。　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;主よ、感謝します。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/21132095-492357034156230749?l=katayanagi-efc-message.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/492357034156230749'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/492357034156230749'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://katayanagi-efc-message.blogspot.com/2011/11/blog-post.html' title='最も小さい者にしたことは私にしたのです'/><author><name>ハレルヤ</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-21132095.post-5247534519367150741</id><published>2011-10-31T10:33:00.004+09:00</published><updated>2011-10-31T15:47:29.113+09:00</updated><title type='text'>恵みの再発見</title><content type='html'>&lt;span style="COLOR: rgb(255,204,51)"&gt;～宗教改革の３大原理～&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２０１１年１０月３１日　宗教改革記念礼拝&lt;br /&gt;聖書：第1コリント人への手紙15章1～10節　　　　　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;説教：滝田新二牧師&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;1.兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;2.また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;3.私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;4.また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;5.また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;6.その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;7.その後、キリストはヤコブに現れ、それから使徒たち全部に現れました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;8.そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現れてくださいました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;9.私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;10.ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;序．今日は「宗教改革記念」の礼拝である。宗教改革者マルチン・ルターが、1517年10月31日ビッテンベルク教会の扉に「９５箇条の提題」の質問書を張り出した日である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;宗教改革の３大原理は①「聖書のみ」②「恵みのみ（信仰のみ）」③「万人祭司」である。今日は「恵みのみ」について、パウロの生涯から、みことばを受けよう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１.恵みに値しなかったパウロ　　（15章７～9節）　&lt;br /&gt;　　　　　&lt;br /&gt;①月足らずで生まれた者　(７～８節)　&lt;br /&gt;　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;「月足らずで生まれた」とは、未熟児として生まれたという意味である。またギリシャ語で「パウロ」とは小さいという意味がある。&lt;br /&gt;　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;②使徒の中では一番小さい者　(9節)　&lt;br /&gt;　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;使徒とはイエス様と共に生活し、イエス様ご自身に世界中に福音を伝えるように任命された者である。パウロは自分は必ずしもその定義にはあてはまらず、他の使徒とは比べものにならない小さな者であると、思っていた。　　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;③呼ばれる価値のない者　(9節)　&lt;br /&gt;　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;パウロは、かつて教会を迫害し大きな心の傷として持っていた。最初の殉教者ステパノはパウロの迫害による。（参照：１テモテ1:13～16）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;13.私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;14.私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;15.「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;16.しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;大きな罪を犯した自分でさえ、主に愛されるという「恵みの見本」と告白している。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２.恵みを受けたパウロ　　(10節)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;①恵みとは、何か？&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「恵み」は、ギリシャ語で「カリス」で、「喜ぶ」という言葉（カロス）から派生し、「顧みること」「親切にすること」という意味である。これが神と結びつけられると「受けるに値しない者に対する神の特別な憐れみ」を表す。親が子どもに見返りを求めずに、世話をする愛情に似ている。恵みは、神のひとり子イエス様をこの地上に遣わして、私たちの罪の身代わりに十字架に架けることによって罪を帳消しにするという具体的な行動となって現れた。一言でいうと、「恵み」は「タダ」無料である。宝石は高価であるが、人が生活するには必要ではない。人間に必要なものは、光も空気もタダで、人間の救いも、タダである。なぜなら、神は愛だから。　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;②恵みは、「今の私」にした&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この「神の恵み」は、すべての人に与えられている。パウロ自身「神の恵みによって、私は今の私になりました。」その恵みのおかげで今の私になったと感謝している。「今のパウロ」とは、クリスチャンを迫害して殺した赦されざる罪に悩んでいた自分から解放された私。罪を赦された私、罪に打ち勝つことができるように変えられたパウロのことである。パウロはイエス様によって罪を赦され、性格も、人生の目的も、何もかも変えられて、伝道者として主に大いに用いられたのは、ただ神の恵みによるものだと語っている。 　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;③恵みは、すべてを可能にした&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;10節「私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。」実際にヨーロッパに最初に福音を伝えたのはパウロである。パウロの働きは使徒の中でも群を抜いていた。パウロは自分は神の恵みによって一生懸命に働いたけれど、それは自分の偉さではなく、神の恵みの現れとして与えられたものなのだとへりくだって証ししている。&lt;br /&gt;　　&lt;br /&gt;結論： 「あなたも神の恵みによって、神の栄光を現す人生の目的が与えられている」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;例話：　宗教改革者　マルチン・ルター(１４８３〜１５４６年)　の「恵みの体験」　　&lt;br /&gt;ルターは、修道院の難行苦行から、十字架の死と復活を信じる信仰義認の恵みにより、この恵みを体験して、宗教改革者へと変えられた。　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;(参照：エペソ2章8～9節)「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私たちも、神の恵みに感謝して、神の恵みに感動して、主婦は家事や育児に、学生は勉強に、社会人は仕事に励もう。　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;主よ、感謝します。　　　&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/21132095-5247534519367150741?l=katayanagi-efc-message.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/5247534519367150741'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/5247534519367150741'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://katayanagi-efc-message.blogspot.com/2011/10/blog-post_31.html' title='恵みの再発見'/><author><name>ハレルヤ</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-21132095.post-906244026590079680</id><published>2011-10-18T20:06:00.006+09:00</published><updated>2011-10-18T21:11:04.157+09:00</updated><title type='text'>神の業が現れるために（３）</title><content type='html'>&lt;span style="color: rgb(255, 204, 51);"&gt;～希望が生まれる～&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　　&lt;br /&gt;２０１１年１０月１６日&lt;br /&gt;聖書：ヨハネの福音書９章１～１４節&lt;br /&gt;説教：滝田新二牧師　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;1.またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;2.弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;3.イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;4.わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;5.わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;6.イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;7.「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;8.近所の人たちや、前に彼が物ごいをしていたのを見ていた人たちが言った。「これはすわって物ごいをしていた人ではないか。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;9.ほかの人は、「これはその人だ」と言い、またほかの人は、「そうではない。ただその人に似ているだけだ」と言った。当人は、「私がその人です」と言った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;10.そこで、彼らは言った。「それでは、あなたの目はどのようにしてあいたのですか。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;11.彼は答えた。「イエスという方が、泥を作って、私の目に塗り、『シロアムの池に行って洗いなさい』と私に言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;12.また彼らは彼に言った。「その人はどこにいるのですか。」彼は「私は知りません」と言った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;13.彼らは、前に盲目であったその人を、パリサイ人たちのところに連れて行った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;14.ところで、イエスが泥を作って彼の目をあけられたのは、安息日であった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;序．生まれながら盲人で物乞いをしていた青年がイエス様と出会う。主イエス様は「神の業が現れるためである」と語られて、癒された。神の業が現れるとは？具体的には何か？&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;①神の愛が現れる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;②神の救いが現われる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;今日は3回目で、神の業は「希望が生まれる」ことを、主の御言葉から受けよう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１．裁判にかけられて　（９章１～１４節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;①両親の裁判　（９章１８～２３節）　　&lt;br /&gt;　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;生まれつきの盲人が、主に癒されたのは安息日であった。律法主義のパリサイ人たちは、安息日の規定を破ったとして裁判を開いた。そこで、まず盲人の両親を裁判にかけた。ユダヤ人たちは、イエス様をキリスト（救い主）として告白する者を、社会から追放し、村八分にすることを決めていた。両親は、会堂から追放され、社会から村八分にされることを恐れた。　&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;②盲人であった青年の裁判　（９章２４～３４節）　　&lt;br /&gt;　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;ユダヤ人たちは、イエス様を断罪するために、癒された盲人の青年を厳しく尋問する。しかし、彼はどんなに脅迫されて、脅されても、自分の身に起こったこと、すなわち目が見えるようになった事実を曲げることをしない。彼は、ユダヤ人の怒りを買い。かつて盲人の時に、障害を理由に、社会から追放されていたが、癒されて、障害がなくなったのに、再び、彼は社会から追放された。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２．心の目が開かれて　（９章３５～４１節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;イエス様は、すぐに彼を見出すために行動する。主は、彼が裁判で尋問されている時、いつも心に留めて、彼のために祈っておられた。だから彼は、耐え抜くことができたのではないだろうか？　　　　　　　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;35節の「人の子」は、旧約のヘブル語で「メシヤ」、新約のギリシャ語の「キリスト（救い主）」を意味する。　「あなたは人の子を信じるか？」というイエス様の問いに、彼は「主よ、(救い主として)信じます」と告白する。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ついに青年はイエス様を、救い主として心にお迎えして、信仰告白し、ひざまずいて礼拝した。彼は肉体の目が開かれただけでなく、心の目、霊の目も開かれた。こうして、過去の闇は閉じられ、未来の明るい希望の門が開かれた。この青年は、主の光を受けて救われ、主の証し人、希望の人に変えられた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;結 論：『あなたも希望の人に変えられる』　（ローマ人への手紙5章3～5節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;3.そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;4.忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;5.この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって神の愛が私たちの心に注がれているからです。　　&lt;br /&gt;　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;イザヤ 40章31節「 しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」　&lt;br /&gt;　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;例話:『希望の人　ニック・ブイチチ（生まれつき手足のないオーストラリアの青年）』ニックの動画　&lt;br /&gt;&lt;iframe src="http://www.youtube.com/embed/oOHD8OqBVYs" allowfullscreen="" frameborder="0" height="315" width="420"&gt;&lt;/iframe&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;どんな困難があっても、たとえ病気や障害があっても、主にあって乗り越えられない試練はない。イエス様を信じる信仰によって、あなたも鷲のように希望を持って歩むことができる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;主よ感謝します。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/21132095-906244026590079680?l=katayanagi-efc-message.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/906244026590079680'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/906244026590079680'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://katayanagi-efc-message.blogspot.com/2011/10/blog-post_18.html' title='神の業が現れるために（３）'/><author><name>ハレルヤ</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://img.youtube.com/vi/oOHD8OqBVYs/default.jpg' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-21132095.post-8212548880125865486</id><published>2011-10-11T16:14:00.004+09:00</published><updated>2011-10-11T16:22:34.218+09:00</updated><title type='text'>神の業が現れるために（２）</title><content type='html'>&lt;span style="color: rgb(255, 204, 51);"&gt;～神の救いが現われる～&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２０１１年１０月９日&lt;br /&gt;聖書：ヨハネの福音書9章１～７節&lt;br /&gt;説教：滝田新二牧師　　　　　　　　　　　　 　　　　　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;1.またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;2.弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;3.イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;4.わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;5.わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;6.イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;7.「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;序．先週、盲人の癒しと救いの奇蹟を通して、イエス様は、私たちの生涯に神の業が現れるためであると語られた。神の業が現れるとは？具体的には、神の愛があなたを通して現れるためである。今日は2回目で、神の業とは、神の救いがあなたを通して、現わされるためであることを、主の御言葉から受ける。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１．障害者の苦しみ　　～３つの苦しみ～　（９：１～３）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;第一の苦しみは、身体的な苦しみ&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;生まれながら目が見えない。光を知らない盲人の生涯は、&lt;br /&gt;暗黒のみが彼の世界であった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;第二の苦しみは、社会的な苦しみ&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「道ばたに座って物乞いをする」以外に生きる手立てがなかった。自由に歩くこともできない。人生の喜びや楽しみとは無縁の世界で、いつも、他の人に依存しなければ生きていけない人生に、深い絶望を味わっていた。当時、障害者はユダヤ教の神殿での礼拝に参加することさえも許されていなかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;第三の苦しみは、霊的な苦しみ&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「肉体の不幸は罪の報いである」という「因果応報」という考えや偏見によって、神の祝福からも見放され、罪の呪いのゆえに盲目に生まれたと考えられていた。自分は神から見捨てられている。より一層深い心の傷となっていた。このような考えは、救いようの無い絶望だけを人に与えていた。しかしイエス様の見方は違う。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神の業がこの人に現れるためです。」みことばの光が照らされる。これは私たちの価値観の転換、見方の転換を迫る、大事な問い掛けである。イエス様は、私たちの苦しみや試練、この世の不条理な出来事の原因ではなく、苦しみの意味と目的（神の業が現れるため）に目を向けさせられた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２．神の救いが現れるために　　（９：３～７）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（１）目を留める　（９：１）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;1節「イエスは道の途中で生まれつきの盲人を見られた。」主は、この人がそこで物乞いをしていることを知っていて、その人が心から何を発信していたのかをご存知で目を留められた。 主は、あなたを心を知っておられる。　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（２）呼びかける　（９：６～７）&lt;br /&gt;　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;盲人に大きな転機が訪れた。それは主イエス様との出会いによって起こった。生まれながらの盲目が癒されて、目が見えるようになった。イエス様は泥を彼の目に塗って、行ってシロアムの池で洗うように命じられた。ここに聖書は、不可能を可能とされる「神」であられる主イエス・キリスト様の神性を堂々と宣言している。 　　　　　　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（例話：ルカ19章にイエス様とザアカイの出会いと救いの物語）　&lt;br /&gt;　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;（３）救いは、神のみわざ　（９：３～５）&lt;br /&gt;　　　　　　　&lt;br /&gt;この盲人は、目が癒されたばかりではなく、イエス様を救い主として信じて、救われ、主の光を頂いて、この後で、人々に証して、世の光として神の栄光を現わす者へと変えられた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;結 論：『 神の救いを受け、マイナスがプラスになる 』&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ローマ８章２８節「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」　&lt;br /&gt;主はあなたに良き計画を持っておられる。神は愛なる方ゆえに、失敗も、弱さも、罪も、益に変えられる。すべてが感謝になる。「主にあってマイナスはプラスになる」　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（例話：斉藤百合さん（1891～1947年）は、盲人女性の地位向上のために先駆的な働きをした盲目のクリスチャン女性。３歳で失明し、絶望の中でイエス様と出会い、救われ、人生が変えられ、東京女子大の第１期生となり、生涯を盲人女性の社会的な地位の向上のために生涯をささげた。）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;あなたも、神の栄光のために、御言葉を心に刻んで、明るく元気に歩もう。 　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;主よ感謝します。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/21132095-8212548880125865486?l=katayanagi-efc-message.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/8212548880125865486'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/8212548880125865486'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://katayanagi-efc-message.blogspot.com/2011/10/blog-post.html' title='神の業が現れるために（２）'/><author><name>ハレルヤ</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-21132095.post-2170650615024582194</id><published>2011-09-21T11:43:00.003+09:00</published><updated>2011-09-21T11:50:04.047+09:00</updated><title type='text'>祝福された老年と信仰の遺産</title><content type='html'>２０１１年９月１８日　敬老の日の礼拝　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;旧約聖書：創世記２５章７～１１節&lt;br /&gt;説教：滝田新二牧師　　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;7.以上は、アブラハムの一生の年で、百七十五年であった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;8.アブラハムは平安な老年を迎え、長寿を全うして息絶えて死に、自分の民に加えられた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;9.彼の子らイサクとイシュマエルは、彼をマクペラのほら穴に葬った。このほら穴は、マムレに面するヘテ人ツォハルの子エフロンの畑地の中にあった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;10.この畑地はアブラハムがヘテ人たちから買ったものでそこにアブラハムと妻サラとが葬られたのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;11.アブラハムの死後、神は彼の子イサクを祝福された。イサクはベエル・ラハイ・ロイの近くに住みついた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;序.今日は「敬老の日の礼拝」である。ご高齢の皆さまの祝福をお祈りいたします。&lt;br /&gt;アブラハムの一生は１７５年で、多くの試練と戦いがあったが、平安な老年を迎えた。なぜ、平安な老年を迎えることができたのか？主の約束である。（創15：15「あなた自身は、平安のうちに、あなたの先祖のもとに行き、長寿を全うして葬られよう。」）　&lt;br /&gt;人は、誰も自分の力で平安な老年を迎えるのではなく、主の恵みによるのである。私たちも祝福された老年を迎えるために、祝福のみことばを受けよう！&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１.平安な老年を迎えるために（創世記２５：７～８）　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;① 過去の罪に対する解決　　　　　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;アブラハムは、その生涯で罪を犯したけれども「信仰によって義と認められた」（創15：6）&lt;br /&gt;過去の罪に対する清算ができていた。人は長く生きれば生きるほど罪を積み重ねやすい。しかし、罪を主の前に悔い改め、告白し、主の十字架の贖いを信じるなら、その全ての罪は赦される。&lt;br /&gt;（参照：１ヨハネ1：9「 もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;② 最後まで主に従順し、使命に生きる（創１２：１～４）　　　　　　　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;アブラハムは、主の召しと使命に生きた。（創12:1～4）　&lt;br /&gt;また神の恵みに支えられ主に従い通した。それゆえに、約束の子イサクとその妻リベカが与えられ、160歳の時に、孫のエサウとヤコブが与えられた。（創25：26）&lt;br /&gt;老年を迎え、全財産をイサクに譲った後も、生涯を振り返り、主の恵みを感謝し、自分の子孫のためにとりなしの祈りをささげた。&lt;br /&gt;祝された老年を迎えるとは「何をするか」（doing）ではなく、「主の御前にいかに生きるか・存在するか」(being)を心を留め、若い時ほど活躍できなくとも卑下することなく、ありのままの自分を受け入れて平安な日々を送ることである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;③ 死後の世界に対する確信&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;アブラハムは、この地上に故郷を求めずに、「天の故郷にあこがれていた」（ヘブル11：16）それは、主の救いにあずかって永遠のいのちを確信していたからである。彼は長寿(175歳）を全うして死んだ。長寿を全うするとは「満ち足りて、人生を堪能して死ぬ」ことである。そして「自分の民に加えられた」のである。『彼らは、主の家に植えられ、私たちの神の大庭で栄えます。彼らは年老いてもなお、実を実らせ、みずみずしく、おい茂っていましょう。』（詩篇92：13-14）主の家に植えられた者、つまり主の恵みに満ちた教会につながり続けている者の晩年は、決して寂しいものではない。最後まで実を豊かに結ぶ人生を送ることができる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;例話：宗教改革者のジャン・カルバンは、「自分の民に加えられた」ということについて、「この言葉は、魂の永続性を意味している。つまり、死んでしまったならば、魂の存在が途切れてしまうのではなく、自分がいなくなってしまうのではなく、地上で生きている時も、地上の生活を締め括った後も、生きるための喜びに満ちた共同体としてクリスチャンの信仰者としての交わりの世界があり、天国という交わりの世界に加えられたというです。」地上と天国の連続性について語っている。私たちには輝かしい天国が備えられている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２.信仰の遺産を残す（創世記２５：９～１１）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;アブラハムはマクペラの洞窟に葬られた。しかし、アブラハムの神は死なず、その契約は生き続ける。以前にも増して子孫に神の祝福が注がれた。多くの人は自分の子孫に何かを残したいと願っている。それがその人の生きた証しだからである。あなたは子孫に、何を残したいだろうか？ある人は財産を残す。しかし、それはやがて無くなる。また他の人は、子どもを教育し、学歴を遺産とする。これらは良き事であるが、クリスチャンが本当に残すべきもの何だろうか？私たちが子孫に残すべきものは、主に対する信仰と、私たちが主に従った生涯の証しではないだろうか。それは決して変ることなく、絶えることなく、私たちの子孫に祝福を与え続けるのである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;例話：内村鑑三は『後世への最大の遺物』の中で後世に遺すべきものを４つあげている。「第１に、お金である。人々の助けになるから大いにお金を儲けなさい。 第２にお金よりも良い遺産とは何か？事業である。お金を用いて大きな事業をしなさい。第３に、文章・思想である。文書(本)を通して、思想を残して、人々にビジョンを、志を与え人を生かしなさい。しかしこれらが必ずしも人を生かすわけではない。第４番目、それは誰でもできること。勇ましく高尚なる生涯である。どんなに辛い時でも、へこたれないで、主を見上げて生きる。それは後世に残すことのできる最大の遺物。高尚な信仰の生涯である。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;結　論：祝福された老年を迎え、信仰の遺産を残そう！&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私たちは罪人で、主の十字架の死と復活により、神の赦し受け、救われ、初めて主の恵みの道を歩むことができた祝福された者である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;だから、人は老年に至っても、いいえ生涯の最後の日まで、主に従い続け、教会と兄姉と家族の祝福を祈る者となろう。そして、信仰の遺産を子孫に残そう！&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;主よ感謝します。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/21132095-2170650615024582194?l=katayanagi-efc-message.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/2170650615024582194'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/2170650615024582194'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://katayanagi-efc-message.blogspot.com/2011/09/blog-post_21.html' title='祝福された老年と信仰の遺産'/><author><name>ハレルヤ</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-21132095.post-7087921124379083317</id><published>2011-09-12T20:04:00.003+09:00</published><updated>2011-09-13T10:31:53.663+09:00</updated><title type='text'>失意の者を励まされる主</title><content type='html'>２０１１年９月１１日&lt;br /&gt;聖書：第１列王記19章1～18節&lt;br /&gt;説教：滝田新二牧師&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;1.アハブは、エリヤがしたすべての事と、預言者たちを剣で皆殺しにしたこととを残らずイゼベルに告げた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;2.すると、イゼベルは使者をエリヤのところに遣わして言った。「もしも私が、あすの今ごろまでに、あなたのいのちをあの人たちのひとりのいのちのようにしなかったなら、神々がこの私を幾重にも罰せられるように。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;3.彼は恐れて立ち、自分のいのちを救うため立ち去った。ユダのベエル・シェバに来たとき、若い者をそこに残し、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;4.自分は荒野へ一日の道のりを入って行った。彼は、えにしだの木の陰にすわり、自分の死を願って言った。「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;5.彼がえにしだの木の下で横になって眠っていると、ひとりの御使いが彼にさわって、「起きて、食べなさい」と言った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;6.彼は見た。すると、彼の頭のところに、焼け石で焼いたパン菓子一つと、水の入ったつぼがあった。彼はそれを食べ、そして飲んで、また横になった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;7.それから、主の使いがもう一度戻って来て、彼にさわり、「起きて、食べなさい。旅はまだ遠いのだから」と言った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;8.そこで、彼は起きて、食べ、そして飲み、この食べ物に力を得て、四十日四十夜、歩いて神の山ホレブに着いた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;9.彼はそこにあるほら穴に入り、そこで一夜を過ごした。すると、彼への主のことばがあった。主は「エリヤよ。ここで何をしているのか」と仰せられた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;10.エリヤは答えた。「私は万軍の神、主に、熱心に仕えました。しかし、イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうとねらっています。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;11.主は仰せられた。「外に出て、山の上で主の前に立て。」すると、そのとき、主が通り過ぎられ、主の前で、激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風のあとに地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;12.地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;13.エリヤはこれを聞くと、すぐに外套で顔をおおい、外に出て、ほら穴の入口に立った。すると、声が聞こえてこう言った。「エリヤよ。ここで何をしているのか。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;14.エリヤは答えた。「私は万軍の神、主に、熱心に仕えました。しかし、イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうとねらっています。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;15.主は彼に仰せられた。「さあ、ダマスコの荒野へ帰って行け。そこに行き、ハザエルに油をそそいで、アラムの王とせよ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;16.また、ニムシの子エフーに油をそそいで、イスラエルの王とせよ。また、アベル・メホラの出のシャファテの子エリシャに油をそそいで、あなたに代わる預言者とせよ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;17.ハザエルの剣をのがれる者をエフーが殺し、エフーの剣をのがれる者をエリシャが殺す。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;18.しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残しておく。これらの者はみな、バアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった者である。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;序.今月は夏の疲れを覚えて、主の癒しと回復について御言葉から学んでいる。&lt;br /&gt;エリヤはモーセと並んで旧約聖書を代表する偉大な預言者である。エリヤは、ひどい落ち込みを経験した。うつになった。エリヤはどのようにして、元気を取り戻し、もう一度、主の使命に生きることができたのか？　弱く落ち込みやすい私たちも、主からの励ましを頂こう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１. エリヤの落ち込み（１９章１～４節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（１）脅し（１～２節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;なぜ、エリヤは落ち込んだのか？　アハブ王の妻イゼベルの脅しによる。２節「神々がこの私を幾重にも罰せられるように。」とは、当時の言い方で絶対殺してやるぞ」という意味。使者を遣わして死刑宣言の脅しである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（２）疲れと恐れ（３～４節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;エリヤは１８章で、一人で４５０人のバアルの預言者と対決して大勝利した。この戦いを通して、精も魂も尽き果てた。私たちの疲れとは、医学的な言葉ではなく、実は霊的な事である。霊が飢え渇くと、平安も喜びもなく、不安と孤独に悩む。誰も、自分を分かってくれない。自己憐憫と猜疑心で心が一杯になり、恐れに支配されてしまう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（３）努力の報われない現状&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;エリヤは、リバイバルが起る事を願っていた。結果は、何も起こらず、反対に命が狙われ、努力も報われず、状況は悪化した。私たちも、「もうダメだ。何もやる気がしない。」そんな思いにならないか？一生懸命にやっても、受験に失敗したり、病気になったり、仕事もうまくいかなかったり、家庭の中でトラブルがある。こうして私たちは落ち込む。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２. 主の励まし（１９章５～８節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（１）主のもとに逃げる&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;エリヤは、ユダのベエル・シェバの荒野へと逃れた。荒野は神と出会う所である。エリヤは一人で神に祈るために荒野に逃れた。四十日四十夜、歩いてモーセが十戒を受けた神の山ホレブに行った。エリヤは主に会いたい。主に自分の恐れや不満を打ち明けたいと願った。あなたは落ち込んだ時に、恐れを感じ、どこに逃げているだろうか？　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（２）肉体も大切　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;主は、エリヤに十分な休息を与え、次に焼いたパン菓子一つと水を与えた。食べる事、飲む事、睡眠をとる事、これが最も大切な事。主はこうしてエリヤに回復を与えられた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;詩篇37:3 「主に信頼して善を行なえ。地に住み、誠実を養え。」&lt;br /&gt;学校で誠実に勉強する事、会社で誠実に仕事する事、主婦が家庭に仕える事、これらは霊的な大切な事柄なのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（３）主のみことば　（７～１３節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　私たちには神のご計画の全ては理解できない。だからデボーションを通して、私たちに対する神のご計画の一部を教えて下さる。あなたには生きる意味と価値がある。あなたの人生には神の目的がある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;３．主の計画と備えがある （１９章１５～１８節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（１）新しい使命　　　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;新しい王と預言者に油を注いて任命するという、新しい使命を受けて、新しい歩みを始める。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（２）兄弟姉妹との交わり　（参照：第１コリント１０章１３節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;主は、エリヤのために7,000人の仲間を備えておられた。私たちは孤独な戦いをするのではなく、教会の小グループの祈りと交わりの励ましが主から備えられている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;結論：『　聖餐の恵みに生きよう！　』　　～起きて、食べなさい～&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;主は、エリヤに「起きて食べなさい。」と二度も告げられた。&lt;br /&gt;主ご自身が用意されたパンと水を食べて、元気を回復して、エリヤは神の山ホレブに向かって歩き出した。この食事は、出エジプトの時のマナを想起させる。主の養いの中で生かされている事と、主が私たちと共におられることを示す食事である。聖書において食事とは、私たちの命の根本、神との交わりの中にある命を指し示す。神との交わりの食事は、旧約の過越の食事から、イエス樣が五千人の群衆に与えられたパンの奇跡、また最後の晩餐の食事を想起させる。さらに、エマオの途上の弟子たちとの食事へとつながっていく。この聖餐の恵みを通して、疲れ倒れた私たちをも、主は立ち直らせ、主と共に生きる者として、新しい使命と歩みへと導かれるのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;主よ、感謝します。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/21132095-7087921124379083317?l=katayanagi-efc-message.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/7087921124379083317'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/7087921124379083317'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://katayanagi-efc-message.blogspot.com/2011/09/blog-post.html' title='失意の者を励まされる主'/><author><name>ハレルヤ</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-21132095.post-6192110868183682907</id><published>2011-08-22T11:17:00.002+09:00</published><updated>2011-08-22T11:21:44.864+09:00</updated><title type='text'>受けるよりも与えるほうが幸いです</title><content type='html'>&lt;span style="color: rgb(255, 204, 51);"&gt;～祝福される生き方の秘訣～&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２０１１年８月２１日&lt;br /&gt;新約聖書：使徒の働き２０章３１～３５節&lt;br /&gt;説教：滝田新二牧師&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;31.ですから、目をさましていなさい。私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがたひとりひとりを訓戒し続けて来たことを、思い出してください。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;32.いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;33.私は、人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;34.あなたがた自身が知っているとおり、この両手は、私の必要のためにも、私とともにいる人たちのためにも、働いて来ました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;35.このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;序.　震災の中でも、日本人の正直さと親切心は、世界の人々に驚きと感動を与えている。日本人のもてなしの心の原点は、主のみことばの「自分自身を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい。」である。&lt;br /&gt;主イエス様に倣いパウロ自身が生涯のモットーとしたみことば、それが「受けるよりも与えるほうが幸いです。」　聖書は、本当に祝福された生き方は、「与えること」であると、その祝福の秘訣を教えている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１．受けるよりも与える方が幸いである３つの前提　（３１～３５節）　&lt;br /&gt;　　　　　&lt;br /&gt;①不正な利益を求めない　(３３節)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「私は、人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。」(33節)　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;パウロは、むさぼりの罪、貪欲の罪、自分の財だけを築こうとする自己中心的な生き方から、解放されることを教えている。　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;②自分の責任を果たす（３４節）　&lt;br /&gt;　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;　「あなたがた自身が知っているとおり、この両手は、私の必要のためにも、私とともにいる人たちのためにも、働いて来ました。」(34節)　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;パウロは受ける権利がありながらそれを受けず、殆んど自分の手で働き、他の人のためにも働き伝道した。パウロは、自分のなすべき責任を果たした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;③弱い人を助ける　（３５節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「このように労苦して弱い者を助けなければならないこと」(35節)　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;パウロは「有り余る中からわずかなもので助けた」のではなく「乏しい中からも、労苦して弱い者を助けてきた」と語っている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２．受けるよりも与えるほうが幸いです。（３５節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;『受けるよりも与えるほうが幸いである』このみことばは、主イエス様ご自身の模範から来ている。主は私たちのために、愛し、仕えるために来られた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（マルコ10章42～45節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;42.そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;43.しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;44.あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;45.人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;本当に弱い者を助け与えることができる者は、本当の助け主であるイエス様を知る者である。&lt;br /&gt;主イエス様の愛を知って初めて「与える者の幸い」を知る。&lt;br /&gt;こうして私たちはキリストに似た者に変えられる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;主は、与えることの祝福の秘訣を約束された。&lt;br /&gt;（ルカの福音書６章３８節）「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。&lt;br /&gt;あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;例話①【豊かな命の水を与える「ガリラヤ湖」と受けるだけで生物が住めない「死海」】　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;例話②【スターバックス会長（CEO）であるクリスチャン事業家ハワード・シュルツ氏の証し】（与える・もてなしの心の事業。　世界55ヶ国の17,000店舗に毎週6千万人のお客がコーヒーを求めて来店している。）&lt;br /&gt;　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;人は互いに与え合うことによって幸福になれる。&lt;br /&gt;何もなければ、あなたの愛と親切を与えればよい。&lt;br /&gt;あなたの時間や聴く耳を、家族や友に与えることである。&lt;br /&gt;自分の好みを押さえ、家族が喜ぶ何か小さいことをしてあげること。&lt;br /&gt;私たちが自分自身を与えることによって、あなたのまわりに幸福が生まれるのだから。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;例話③【マザー・テレサの言葉】&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「親切で、慈しみ深くありなさい。あなたに出会った人がだれでも、まえよりももっと気持ちよく、明るくなって帰るようになさい。神さまの生きたしるしとなりなさい。親切があなたの表情に、まなざしに、ほほえみに、温かく声をかけることばに表われるように」　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私たちもイエス様も模範に倣い、受けるよりも与える幸いな歩を始めよう！　　　　　　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;主よ感謝します。&lt;br /&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/21132095-6192110868183682907?l=katayanagi-efc-message.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/6192110868183682907'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/6192110868183682907'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://katayanagi-efc-message.blogspot.com/2011/08/blog-post_22.html' title='受けるよりも与えるほうが幸いです'/><author><name>ハレルヤ</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-21132095.post-4282507715678742003</id><published>2011-08-17T11:03:00.005+09:00</published><updated>2011-08-17T14:30:01.166+09:00</updated><title type='text'>平和をつくる者</title><content type='html'>２０１１年８月１４日敗戦６６周年記念礼拝&lt;br /&gt;新約聖書：マタイの福音書5章9節　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;説教：滝田新二牧師&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;序.本日は６６回目の敗戦記念礼拝である。戦争や原爆の記憶が風化する中で、今年は、大震災と原発事故の未曾有の危機の中での敗戦記念日を迎えた。震災からの復興、子どもたちを放射能から守ること、被災された方々の心のケアーが大きな課題である。今年は、特に平和と社会の安全のために祈りを必要としている。主イエス様は「平和をつくる者は幸いです。」と教えられた。どうすれば私たちは平和をつくる者となれるのだろうか？&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１．平和の根源は、主である。（イザヤ９：６）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「平和」とは、旧約のヘブル語で「シャローム」、新約のギリシャ語で「アイレーネ」である。この言葉は、ただ単に戦争や争いがない状態を意味するのではなく、心の平安・家庭や社会の中に神の祝福が満ち、人々の間に豊かな調和があり、和解と繁栄が満ちた状態を表している。人類は、平和を求め、努力して来た。しかし、歴史の現実は、戦争やテロや紛争などにより、人々が殺され、憎しみが憎しみを呼んでいる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;例話①ドイツ社会学者のソローキンによれば、「人類の歴史は戦争の歴史である。有史6,000年に発生した戦争は１万５千回以上である。第二次世界大戦後も150回以上戦争が発生している。戦争が無くなった日は三週間だけであった。」と語っている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それは、神の平和を求めるのではなく、人間の知恵と方法で解決しようとしたからである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;初め、エデンの園で神との良い関係の時、人間の心には真の平和があった。しかし、神の命令に背き、罪を犯した人間は、神と断絶し、平和を失い、心には平和の代わりに、憎しみ、殺意、嫉妬、傲慢、悪口、争い、悪巧みが芽生えた。（マルコ７：２０～２２）　&lt;br /&gt;結果、人間が集まる所はいつも、争い、憎しみが生じ、まことの平和を見る事ができない。&lt;br /&gt;だから、平和の根源である主に立ち返らない限り、どこにでも真の平和をつくり上げることがはできないのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２．クリスチャンは平和をつくる者です。　&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　　（平和をつくる３つの関係）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（１）神との平和をつくる。（ローマ５：１）　　　　　　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;人の平和は一時的で、不完全で、利己的である。しかし、神の平和は永久的で、完全で犠牲的である。&lt;br /&gt;ローマ５：１「信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」　　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（２）自分自身との平和をつくる。 （Ⅱコリント5：17～18）&lt;br /&gt;　　　　　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。」　　　　　　　　　&lt;br /&gt;　　　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;まず、キリストのうちに新しく生まれ変わる事である。自分が罪人であることを自覚し、悔い改め、神の救いの恵みと喜びに満ち溢れる心から神の平和を味わうことができる。　　&lt;br /&gt;　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;（３）隣人との平和をつくる。　（エペソ２：14・16）　　　&lt;br /&gt;　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;14.キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;16.また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;主の十字架によって隔ての壁は打ち壊された。私たちは隣人（家族・友人）と和解し平和を築くことができる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;主は「あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい」（ローマ12:18)と命じておられる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;教会の存在目的は何か？&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;まず第１に、私たちが神との平和をつくり、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;第２に、自分自身との平和をつくり、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;第３に、隣人との平和をつくるために、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;救いの福音を宣べ伝え、地域に神の平和をつくるために存在している。あなたは主からこの世に派遣された御国の兵士である。クリスチャンは霊的な戦いの最前線に立っている。パウロが「その十字架の血によって平和をつくり」（ピリピ1：20）と語ったように、罪人のために十字架で流された主の血潮こそまことの平和をつくり上げる力である。神のみことばは、教会の一致と平和を保ち、地域社会や世界の平和をつくることができる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;結 論：『平和をつくる者への祝福』　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;主は、平和をつくる者に「その人は神の子どもと呼ばれる」と祝福を約束された。私たちは世から救い出され、平和の主に結ばれ、互いに愛し合い、平和をつくるのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;例話②　8/1「朝日新聞ニッポン前へ委員会』で論文「伝える喜び　伝わる喜び」で特別賞を受賞したクリスチャンの松村知(とも)さん（山梨県甲府市の中学３年・15才　お父様は甲府キリスト教会の松村牧師）は、中学生として平和をつくり者として主に仕えている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;例話③　本郷台キリスト教会の働きで、8/1宮城県石巻市に「地域復興支援センター・お茶っこはうすオアシス」が開設された。」多くの教会が被災地で、人々の癒しと救いと平和のために仕えている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私たちも、家庭や学校。職場で「平和をつくる者」として、主と人々に仕えよう！&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;主よ感謝します。&lt;br /&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/21132095-4282507715678742003?l=katayanagi-efc-message.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/4282507715678742003'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/4282507715678742003'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://katayanagi-efc-message.blogspot.com/2011/08/blog-post.html' title='平和をつくる者'/><author><name>ハレルヤ</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-21132095.post-595574940383458799</id><published>2011-07-31T15:44:00.005+09:00</published><updated>2011-08-01T09:15:03.799+09:00</updated><title type='text'>勝利の秘訣（４）</title><content type='html'>&lt;span style="COLOR: rgb(255,204,51)"&gt;～ヨシュアに学ぶ～&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　　　　　　&lt;br /&gt;２０１１年７月３１日&lt;br /&gt;旧約聖書：ヨシュア記６章１～２０節&lt;br /&gt;説教：滝田新二牧師&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;1.エリコは、イスラエル人の前に、城門を堅く閉ざして、だれひとり出入りする者がなかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;2.主はヨシュアに仰せられた。「見よ。わたしはエリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;3.あなたがた戦士はすべて、町のまわりを回れ。町の周囲を一度回り、六日、そのようにせよ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;4.七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って、箱の前を行き、七日目には、七度町を回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らさなければならない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;5.祭司たちが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、あなたがたがその角笛の音を聞いたなら、民はみな、大声でときの声をあげなければならない。町の城壁がくずれ落ちたなら、民はおのおのまっすぐ上って行かなければならない。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;6.そこで、ヌンの子ヨシュアは祭司たちを呼び寄せ、彼らに言った。「契約の箱をかつぎなさい。七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って、主の箱の前を行かなければならない。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;7.ついで、彼は民に言った。「進んで行き、あの町のまわりを回りなさい。武装した者たちは、主の箱の前を進みなさい。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;8.ヨシュアが民に言ったとき、七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って主の前を進み、角笛を吹き鳴らした。主の契約の箱は、そのうしろを進んだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;9.武装した者たちは、角笛を吹き鳴らす祭司たちの先を行き、しんがりは箱のうしろを進んだ。彼らは進みながら、角笛を吹き鳴らした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;10.ヨシュアは民に命じて言った。「私がときの声をあげよと言って、あなたがたに叫ばせる日まで、あなたがたは叫んではいけない。あなたがたの声を聞かせてはいけない。また口からことばを出してはいけない。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;11.こうして、彼は主の箱を、一度だけ町のまわりを回らせた。彼らは宿営に帰り、宿営の中で夜を過ごした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;12.翌朝、ヨシュアは早く起き、祭司たちは主の箱をかついだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;13.七人の祭司たちが七つの雄羊の角笛を持って、主の箱の前を行き、角笛を吹き鳴らした。武装した者たちは彼らの先頭に立って行き、しんがりは主の箱のうしろを進んだ。彼らは進みながら角笛を吹き鳴らした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;14.彼らはその次の日にも、町を一度回って宿営に帰り、六日、そのようにした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;15.七日目になると、朝早く夜が明けかかるころ、彼らは同じしかたで町を七度回った。この日だけは七度町を回った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;16.その七度目に祭司たちが角笛を吹いたとき、ヨシュアは民に言った。「ときの声をあげなさい。主がこの町をあなたがたに与えてくださったからだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;17.この町と町の中のすべてのものを、主のために聖絶しなさい。ただし遊女ラハブと、その家に共にいる者たちは、すべて生かしておかなければならない。あの女は私たちの送った使者たちをかくまってくれたからだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;18.ただ、あなたがたは、聖絶のものに手を出すな。聖絶のものにしないため、聖絶のものを取って、イスラエルの宿営を聖絶のものにし、これにわざわいをもたらさないためである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;19.ただし、銀、金、および青銅の器、鉄の器はすべて、主のために聖別されたものだから、主の宝物倉に持ち込まなければならない。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;20.そこで、民はときの声をあげ、祭司たちは角笛を吹き鳴らした。民が角笛の音を聞いて、大声でときの声をあげるや、城壁がくずれ落ちた。そこで民はひとり残らず、まっすぐ町へ上って行き、その町を攻め取った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;序.『勝利の秘訣』の４回目である。&lt;br /&gt;ヨシュアは、カレブと共にモーセによってカナン偵察隊として派遣された１２名の１人。&lt;br /&gt;ヨシュアは「神が共におられるから、カナンの土地を征服することができる」と宣言した勇士であった。&lt;br /&gt;ヨシュアは、やがてモーセの後継者に選ばれ、２００万のイスラエルの民をカナンの地に導き入れ、イスラエルに約束の地を継がせた。&lt;br /&gt;ヨシュアは「私と私の家とは、主に仕える。」（ヨシュア24:15）と明言して、その生涯の終わりまで主に従い、勝利した。&lt;br /&gt;その勝利の秘訣を、カナン偵察から４０年後のエリコの戦いから学ぼう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１．信仰の従順　　　　（６：１～２）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;主は「見よ。わたしはエリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡した。」(２節)と言われた。　　　　&lt;br /&gt;この「渡した」の動詞はヘブル語で完了形が使われている。&lt;br /&gt;つまり、主の目には、すでにエリコは陥落している。&lt;br /&gt;主はエリコの町をヨシュアの手に渡しているのである。&lt;br /&gt;当時のエリコは堅固な城壁に取り囲まれていた。&lt;br /&gt;高さ10ｍの二重の城壁(内側幅4ｍ・外側幅2ｍ)で守られていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私たちの生活の現実でも同じことがある。目の前に高くそびえる困難な問題。&lt;br /&gt;受験や就職・仕事・病気や経済・複雑な人間関係の壁がある。&lt;br /&gt;ヨシュアと民がなすべきことは何か？　&lt;br /&gt;信仰をもって応答することである。そうすれば、私たちは約束された勝利を自分のものとすることができる。&lt;br /&gt;ヘブル書11章1 節「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２．みことばへの服従　　（６：３～１４）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ヨシュアは、徹底して神のことばに服従した人である。&lt;br /&gt;主の御言葉に従い、ヨシュアがエリコを攻撃するため兵士たちに命じた事は、１日１回祭司たちが担ぐ契約の箱の前後をはさんで、町の周りを黙って行進することであった。 人間的には愚かな戦略である。&lt;br /&gt;しかし、ヨシュアは、主が語られた言葉だから、どんなに非常識に見えても、それに服従した。&lt;br /&gt;エリコの町を行進する契約の箱は、カナンの土地がイスラエルの力ではなく、神の力によって、与えられることを示した。&lt;br /&gt;御言葉への服従は、私たちの歩みを確かなもの、信仰の確信へと導かれる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;３．賛美の応答　　（６：１５～２０）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ヨシュアは、７日目に、町を７周し、兵士たちと共に賛美して、ときの声をあげると、あの堅固な城壁が崩れ、ヨシュアはやすやすとその町を手に入れることができた。&lt;br /&gt;ヨシュアは神のことばを信じ、それに従い、賛美して勝利を得た。神の言葉は、慰めの言葉、励ましの言葉、また知恵の言葉以上のものである。&lt;br /&gt;それは、信じる者、それに従う者、また実行する者に祝福を与える。&lt;br /&gt;『わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。』（イザヤ55:10-11）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;結　論： 「　信仰をもって、前に進もう！　」　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ヨシュアは、信仰の人、神のことばに服従する人、主を賛美する人。&lt;br /&gt;この３つは、別々のものではない。&lt;br /&gt;主への信仰によって、神のことばに服従し、実行する人になる。そして主に感謝し、主を賛美する人に変えられていく。&lt;br /&gt;信仰の根を張るとは、みことばを実行することであり、そして私たちは実を結ぶ者となる。　　　　　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;例話：「今、被災地宮城で起きている事・大友幸一師（塩川聖書バプテスト教会）の証し」　　　　　　　　　&lt;br /&gt;ヨシュアのように、私たちも、みことばに服従し、実行して、主を賛美し、先取りの信仰で、あなたの人生に大きな主の祝福の実を見る者となろうではないか。主の祝福をお祈りします。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;主よ感謝します。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/21132095-595574940383458799?l=katayanagi-efc-message.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/595574940383458799'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/595574940383458799'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://katayanagi-efc-message.blogspot.com/2011/07/blog-post_31.html' title='勝利の秘訣（４）'/><author><name>ハレルヤ</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-21132095.post-7203568219032356577</id><published>2011-07-24T18:59:00.002+09:00</published><updated>2011-07-24T19:02:05.283+09:00</updated><title type='text'>勝利の秘訣（３）</title><content type='html'>&lt;span style="color: rgb(255, 204, 51);"&gt;～ヨシャパテに学ぶ～&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２０１１年７月２４日&lt;br /&gt;旧約聖書：第２歴代誌　２０章１－２７節　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;説教：滝田新二牧師&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;1.この後、モアブ人とアモン人、および彼らに合流したアモン人の一部がヨシャパテと戦おうとして攻めて来た。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;2  そこで、人々は来て、ヨシャパテに告げて言った。「海の向こうのアラムからおびただしい大軍があなたに向かって攻めて来ました。早くも、彼らはハツァツォン・タマル、すなわちエン・ゲディに来ています。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;3.ヨシャパテは恐れて、ただひたすら主に求め、ユダ全国に断食を布告した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;4.ユダの人々は集まって来て、主の助けを求めた。すなわち、ユダのすべての町々から人々が出て来て、主を求めた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;5.ヨシャパテは、主の宮にある新しい庭の前で、ユダとエルサレムの集団の中に立って、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;6.言った。「私たちの父祖の神、主よ。あなたは天におられる神であり、また、あなたはすべての異邦の王国を支配なさる方ではありませんか。あなたの御手には力があり、勢いがあります。だれも、あなたと対抗してもちこたえうる者はありません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;7.私たちの神よ。あなたはこの地の住民をあなたの民イスラエルの前から追い払い、これをとこしえにあなたの友アブラハムのすえに賜ったのではありませんか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;8.彼らはそこに住み、あなたのため、御名のために、そこに聖所を建てて言いました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;9.『もし、剣、さばき、疫病、ききんなどのわざわいが私たちに襲うようなことがあれば、私たちはこの宮の前、すなわち、あなたの御前に立って──あなたの御名はこの宮にあるからです──私たちの苦難の中から、あなたに呼ばわります。そのときには、あなたは聞いてお救いくださいます。』&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;10.ところが今、アモン人とモアブ人、およびセイル山の人々をご覧ください。この者たちは、イスラエルがエジプトの地を出て来たとき、イスラエルがそこに侵入することをあなたがお許しにならなかった者たちです。事実、イスラエルは彼らから離れ去り、これを根絶やしにすることはしませんでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;11.ご覧ください。彼らが私たちにしようとしていることを。彼らは、あなたが私たちに得させてくださったあなたの所有地から私たちを追い払おうとして来ました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;12.私たちの神よ。あなたは彼らをさばいてくださらないのですか。私たちに立ち向かって来たこのおびただしい大軍に当たる力は、私たちにはありません。私たちとしては、どうすればよいかわかりません。ただ、あなたに私たちの目を注ぐのみです。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;13.ユダの人々は全員主の前に立っていた。彼らの幼子たち、妻たち、子どもたちも共にいた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;14.ときに、主の霊が集団の中で、アサフ族の出のレビ人ヤハジエルの上に臨んだ。彼はマタヌヤの子エイエルの子ベナヤの子ゼカリヤの子である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;15.彼は言った。「ユダのすべての人々とエルサレムの住民およびヨシャパテ王よ。よく聞きなさい。主はあなたがたにこう仰せられます。『あなたがたはこのおびただしい大軍のゆえに恐れてはならない。気落ちしてはならない。この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;16.あす、彼らのところに攻め下れ。見よ。彼らはツィツの上り道から上って来る。あなたがたはエルエルの荒野の前の谷のはずれで、彼らに会う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;17.この戦いではあなたがたが戦うのではない。しっかり立って動かずにいよ。あなたがたとともにいる主の救いを見よ。ユダおよびエルサレムよ。恐れてはならない。気落ちしてはならない。あす、彼らに向かって出陣せよ。主はあなたがたとともにいる。』」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;18.それで、ヨシャパテは地にひれ伏した。ユダのすべての人々とエルサレムの住民も主の前にひれ伏して主を礼拝し、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;19.ケハテ族、コラ族のレビ人たちが立ち上がり、大声を張り上げてイスラエルの神、主を賛美した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;20.こうして、彼らは翌朝早く、テコアの荒野へ出陣した。出陣のとき、ヨシャパテは立ち上がって言った。「ユダおよびエルサレムの住民よ。私の言うことを聞きなさい。あなたがたの神、主を信じ、忠誠を示しなさい。その預言者を信じ、勝利を得なさい。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;21.それから、彼は民と相談し、主に向かって歌う者たち、聖なる飾り物を着けて賛美する者たちを任命した。彼らが武装した者の前に出て行って、こう歌うためであった。「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;22.彼らが喜びの声、賛美の声をあげ始めたとき、主は伏兵を設けて、ユダに攻めて来たアモン人、モアブ人、セイル山の人々を襲わせたので、彼らは打ち負かされた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;23.アモン人とモアブ人はセイル山の住民に立ち向かい、これを聖絶し、根絶やしにしたが、セイルの住民を全滅させると、互いに力を出して滅ぼし合った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;24.ユダが荒野に面した物見の塔に上ってその大軍のほうを見渡すと、なんと、死体が野にころがっている。のがれた者はひとりもない。&lt;br /&gt;25.ヨシャパテとその民が分捕りをしに行くと、その所に、武具、死体、高価な器具を数多く見つけたので、これを負いきれないほど、はぎ取って、自分のものとした。あまりにも多かったので、彼らはその分捕りに三日かかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;26.四日目に、彼らはベラカの谷に集まり、その所で主をほめたたえた。それゆえ、人々はその所の名をベラカの谷と呼んだ。今日もそうである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;27.それから、ユダとエルサレムの人々はひとり残らず、ヨシャパテを先頭にして、喜びのうちにエルサレムに凱旋した。主が彼らに、その敵のことについて喜びを与えられたからである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;序．勝利の秘訣の3回目である。&lt;br /&gt;先週のダビデ王の子ソロモン王の死後、北イスラエルと南ユダに分裂した。&lt;br /&gt;南王国４代目の王がヨシャパテである。彼は、主に従う良き王で、平穏な日を送っていた。しかし、困難な問題が起る。突然、敵のモアブ・アモンの連合軍が侵略して来た。&lt;br /&gt;ヨシャパテは、どう対処したのか？&lt;br /&gt;私たちは、しばしば人間の方法で解決しようとするが、霊的問題で勝利するためには、霊的武器が必要である。　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ヨシャパテの勝利には、３つの秘訣がある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;第１は、「祈り」である。　　（２０章３～１３節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;3節「ヨシャパテは恐れて、ただひたすら主に求め、ユダ全国に断食を布告した。」&lt;br /&gt;困難に出会った時、大抵の人はあわてる。&lt;br /&gt;ヨシャパテは、恐れたが、主に向かい、主の前にひざまずいた。&lt;br /&gt;そしてユダ全国の人々に断食の祈りを要請した。&lt;br /&gt;現代ならば、教会に行って祈ることではないか。&lt;br /&gt;人生の困難や危機の時、教会に行って主の助けを求める。それは素晴らしい事である。ヨシャパテは「私たちの神よ。あなたは彼らを裁いては下さらないのですか？この戦いは私たちが仕掛けたものではありません。私たちは、ただあなたに目を注ぎ、主の助けと救いを待ち望むのみです。」と祈った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;第２は、「御言葉」である。　　（２０章１４～１７節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;15節「あなたがたはこのおびただしい大軍のゆえに恐れてはならない。気落ちしてはならない。この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いである。」と主は語られた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私たちは毎日、新聞やＴＶやネットで否定的な言葉を聞いている。　&lt;br /&gt;この世は、否定的な事を信じさせようとする。&lt;br /&gt;ヨシャパテは「この戦いは神の戦いである」との御言葉を受けた。&lt;br /&gt;私たちの人生も同じである。&lt;br /&gt;この世のアドバイスや励まし以上に、主の御言葉に聴き、勝利の備えを受けよう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;第3は、「賛美」である。　　（２０章１８～２５節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ヨシャパテは、出陣に際して、民と共に賛美の声を上げた。&lt;br /&gt;21節「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。」&lt;br /&gt;賛美によって、主は道を開かれる。この賛美の声が響き渡ると、神が介入され、敵は打ち破られた。賛美が勝利への道を開く。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;例話１：ヨシュアに導かれたイスラエルの民が7回賛美して回り、エリコの城壁は崩れた。（ヨシュア記６章）　また、新約では、パウロとシラスがピリピ宣教で迫害を受け、獄中で真夜中に賛美した時に、地震が起き、看守とその家族が救われる奇跡が起った。&lt;br /&gt;いずれも勝利は賛美からであった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;例話２：マルチン・ルターは「賛美は悪魔の軍隊をけちらす神の進軍ラッパである。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;賛美は力である。賛美は礼拝の前座ではない。&lt;br /&gt;賛美の１つ１つもまた神の力強い臨在の証である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;あなたが、どのように「祈る」かで、勝利の大きさが決められる。&lt;br /&gt;「御言葉」を受けることで、勝利の確信が与えられる。&lt;br /&gt;どのように「賛美する」かで、あなたの人生の最後が決まる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;結　論：　　「勝利の備えをしよう！」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１、　勝利の武器を使って、困難に立ち向かっているか？　　(21～22節・２４～２７節)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;困難な問題や苦しみに遭った時、もっとも簡単は対処方法は、恨みを抱くことである。&lt;br /&gt;恨みを抱くなら、勝利は決して来ない。恨みは敗北の武器だからである。&lt;br /&gt;でも、祈りによって、恨みではなく赦しを選び取るのである。&lt;br /&gt;ヨシャパテは、アモン人を恨んだのではなく、主に祈り、主の御言葉を取り、&lt;br /&gt;主を賛美して勝利した。&lt;br /&gt;私たちの家庭や学校・職場での人間関係や勉強・ビジネス・お金や健康など、&lt;br /&gt;すべての問題の根っこには霊的な問題がある。勝利を得るために、霊的な武器を取ろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２、問題を自分の問題ではなく、神の問題として捉えているか？　(11～12節)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;解決や答えがないのは自分中心に見ているからである。大きく全体を見るべきである。&lt;br /&gt;主は祝福を注がれる。徹底的に祈るなら主は大胆に答えて下さる。&lt;br /&gt;ヨシャパテは「私たちの神よ。私たちの災難をご覧ください。」と祈った。　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;例話３．イエス様も「主の祈り」で「私の父よ」ではなく「私たちの父よ」と祈るようにと祈りを広げて下さった。　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ヨシャパテは、その谷を「ベラカ(祝福)」と名づけた。&lt;br /&gt;私たちも、問題に直面した時に、主の戦いとして受け留めるならば、問題は「祝福」に変えられる。苦しみは、勝利と祝福が生まれる場所なのだから。　&lt;br /&gt;あなたも、「祈り」と「御言葉」と「賛美」の主の勝利の備えをしよう！&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;主よ感謝します。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/21132095-7203568219032356577?l=katayanagi-efc-message.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/7203568219032356577'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/7203568219032356577'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://katayanagi-efc-message.blogspot.com/2011/07/blog-post_24.html' title='勝利の秘訣（３）'/><author><name>ハレルヤ</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-21132095.post-7903261549415522586</id><published>2011-07-19T15:59:00.004+09:00</published><updated>2011-07-31T15:48:59.600+09:00</updated><title type='text'>勝利の秘訣（２）</title><content type='html'>&lt;span style="color: rgb(255, 204, 51);"&gt;～ダビデの生涯に学ぶ～&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　　　　　　　&lt;br /&gt;２０１１年７月１７日&lt;br /&gt;旧約聖書：第１サムエル記１８章５－３０節&lt;br /&gt;説教：滝田新二牧師&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;5.ダビデは、どこでもサウルが遣わす所に出て行って、勝利を収めたので、サウルは彼を戦士たちの長とした。このことは、すべての民にも、サウルの家来たちにも喜ばれた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;6.ダビデがあのペリシテ人を打って帰って来たとき、みなが戻ったが、女たちはイスラエルのすべての町々から出て来て、タンバリン、喜びの歌、三弦の琴をもって、歌い喜び踊りながら、サウル王を迎えた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;7.女たちは、笑いながら、くり返してこう歌った。「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;8.サウルは、このことばを聞いて、非常に怒り、不満に思って言った。「ダビデには万を当て、私には千を当てた。彼にないのは王位だけだ。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;9.その日以来、サウルはダビデを疑いの目で見るようになった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;10.その翌日、わざわいをもたらす、神の霊がサウルに激しく下り、彼は家の中で狂いわめいた。ダビデは、いつものように、琴を手にしてひいたが、サウルの手には槍があった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;11.サウルはその槍を投げつけた。ダビデを壁に突き刺してやろう、と思ったからである。しかしダビデは二度も身をかわした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;12.サウルはダビデを恐れた。主はダビデとともにおられサウルのところから去られたからである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;13.それでサウルはダビデを自分のもとから離し、彼を千人隊の長にした。ダビデは民の先に立って行動していた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;14.ダビデはその行く所、どこででも勝利を収めた。主が彼とともにおられた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;15.ダビデが大勝利を収めるのを見て、サウルは彼を恐れた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;16.イスラエルとユダの人々はみな、ダビデを愛した。彼が彼らの先に立って行動していたからである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;17.あるとき、サウルはダビデに言った。「これは、私の上の娘メラブだ。これをあなたの妻として与えよう。ただ、私のために勇敢にふるまい、主の戦いを戦ってくれ。」サウルは、自分の手を下さないで、ペリシテ人の手を彼に下そう、と思ったのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;18.ダビデはサウルに言った。「私は何者なのでしょう。私の家族、私の父の氏族もイスラエルでは何者なのでしょう。私が王の婿になるなどとは。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;19.ところが、サウルの娘メラブをダビデに与える、という時になって、彼女はメホラ人のアデリエルに妻として与えられた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;20.サウルの娘ミカルはダビデを愛していた。そのことがサウルに知らされたとき、サウルはそれはちょうどよいと思った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;21.サウルは、「ミカルを彼にやろう。ミカルは彼にとって落とし穴となり、ペリシテ人の手が彼に下るだろう」と思った。そこでサウルはもう一度ダビデに言った。「きょう、あなたは私の婿になるのだ。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;22.そしてサウルは家来たちに命じた。「ダビデにひそかにこう告げなさい。『聞いてください。王はあなたが気に入り、家来たちもみな、あなたを愛しています。今、王の婿になってください。』」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;23.それでサウルの家来たちは、このことばをダビデの耳に入れた。するとダビデは言った。「王の婿になるのがたやすいことだと思っているのか。私は貧しく、身分の低い者だ。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;24.サウルの家来たちは、ダビデがこのように言っています、と言ってサウルに報告した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;25.それでサウルは言った。「ダビデにこう言うがよい。王は花嫁料を望んではいない。ただ王の敵に復讐するため、ペリシテ人の陽の皮百だけを望んでいる、と。」サウルは、ダビデをペリシテ人の手で倒そうと考えていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;26.サウルの家来たちが、このことばをダビデに告げると、ダビデは、王の婿になるために、それはちょうどよいと思った。そこで、期限が過ぎる前に、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;27.ダビデは立って、彼と部下とで、出て行き、ペリシテ人二百人を打ち殺し、その陽の皮を持ち帰り、王の婿になるためのことを、王に果たした。そこでサウルは娘ミカルを妻としてダビデに与えた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;28.こうして、サウルは、主がダビデとともにおられ、サウルの娘ミカルがダビデを愛していることを見、また、知った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;29.それでサウルは、ますますダビデを恐れた。サウルはいつまでもダビデの敵となった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;30.ペリシテ人の首長たちが出て来るときは、そのたびごとに、ダビデはサウルの家来たちのすべてにまさる戦果をあげた。それで彼の名は非常に尊ばれた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;序．今月は「勝利の秘訣」を学んでいます。&lt;br /&gt;今日はダビデの生涯から学びます。ダビデは、若い日からサウル王のために戦い、イスラエルの領土は拡大したが、ダビデはサウル王から妬まれ、イジメられた。(参照：第１サムエル記１６章14節)&lt;br /&gt;しかし、ダビデは勝利しました。ダビデの生涯から「３つの勝利の備え」を学ぼう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;第１は、被害者根性をやめる　(12～16節)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;サウルはダビデを千人隊長に任命し、実は戦地で殺そうとした。&lt;br /&gt;昇進をワナにしたのである。しかし、ダビデは被害者根性に陥ることはなかった。&lt;br /&gt;（参照　ローマ8：31「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」をダビデは知っていた。）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私たちも会社を左遷された時、良い意味に受け取ることができる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;例話：サラリーマンとして、三回の降格と左遷を経験した後、カネボウ薬品の会長を務めたクリスチャンビジネスマンの三谷康人氏の「逆転人生」の証し。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;被害者根性から抜けられる方法は、主は必ず勝利を得させるという確信である。　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;主イエス様がへりくだり、御父にすべてを委ね、十字架の道を歩まれた。私たちもキリストの謙卑に倣おう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;第２は、復讐をやめる　（10～11節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;サウル王は、槍(ヤリ)でダビデを壁に突き刺そうとした。1度ならず、2度も実行したが、ダビデを殺すことができなかった。ダビデは、正当防衛で報復する事もできたが、仕返しをしなかった。&lt;br /&gt;ダビデは、自分が自分の命を守るのではない、主の守りだけが、自分の命を守るのだということを知った。　(参照：ローマ12：17～21)　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;教会や家庭・学校・職場でも「悪をもって悪に打ち勝つのではなく、善をもって悪に打ち勝つのである。」&lt;br /&gt;なぜならば、私たちの心には、生ける神の心、キリストの心があるのだから。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;第３は、見栄を張るのをやめる　(16～30節)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;16節「イスラエルとユダの人々はみな、ダビデを愛した。彼が彼らの先に立って行動していたからである。」&lt;br /&gt;人々はダビデを愛した。一方、サウルは、民の先頭に立たず、戦場に赴かず、宮殿の奥にいた。&lt;br /&gt;サウルは、傲慢・自己満足・ペテン師・陰謀の王であった。&lt;br /&gt;サウルは娘をエサにして、戦争で勝利すれば、昇進できるぞと思わせ、戦場でダビデを殺そうと企んだ。&lt;br /&gt;この世は、時々そのような方法で私たちを誘惑する。&lt;br /&gt;サウルは、一生涯この傲慢さと見栄っ張りに向き合わなかった。&lt;br /&gt;娘ミカルをエサにして、サウルは21節で「それがダビデの落とし穴になり、ペリシテ人の手が彼に下るだろう。」と語っている。サウルは自分の見栄を満足させるために何でもした。&lt;br /&gt;では、ダビデはどうか？&lt;br /&gt;ダビデは、誰に責められることもなく、誰の前にも出た。そしてやがてミカルと結婚する。&lt;br /&gt;やがてミカルは夫ダビデを見下し、ひどい扱いをした。しかし、ダビデはミカルに対して尊敬をもって扱った。結果、死ぬまで子が生まれなかった。ミカル自身が勝利の人生を父の見栄のために閉ざしたのである。　&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;私たちはパウロの語る御言葉のように歩もう。　　　&lt;br /&gt;（２コリント5：15）「また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;結　論：　「主の勝利の備えをしょう！」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;①被害者根性をやめよう！　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「傷ついた」と安易に言わないで、相手に対して「祝福します」に変えよう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;②復讐をやめよう！　　　　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;あなたには主の勝利が待っている。「仕返し」ではなく、「赦し」を選び取ろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;③見栄を張るのをやめよう！　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;罪を告白して主に祈ろう。あなたは、自分は負け犬になりたくないと恐れがあるかもしれない。でも、主に罪を告白するなら、主は罪を赦し、聖めてくださる。聖霊様によって自由となる。&lt;br /&gt;勝利の備えをもって、主の勝利と祝福にあずかろう！&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/21132095-7903261549415522586?l=katayanagi-efc-message.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/7903261549415522586'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/7903261549415522586'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://katayanagi-efc-message.blogspot.com/2011/07/blog-post.html' title='勝利の秘訣（２）'/><author><name>ハレルヤ</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-21132095.post-602692011524050503</id><published>2011-06-19T20:58:00.001+09:00</published><updated>2011-06-19T21:02:15.799+09:00</updated><title type='text'>父の愛</title><content type='html'>２０１１年６月１９日&lt;br /&gt;聖書：ローマ人への手紙８章３１～３９節&lt;br /&gt;説教：滝田新二牧師&lt;br /&gt;　　　  　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;31.では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;32.私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;33.神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;34.罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;35.私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;36.「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;37.しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;38.私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;39.高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;序．今日は「　父の日」である。&lt;br /&gt;1934年、アメリカで6月の第三日曜日が「父の日」と制定された。　&lt;br /&gt;父親の愛は、子どもを叱り訓練する愛であり、母親の愛は叱られた子どもを慰める愛。どちらも同じ親の愛であり、ただその表れが違う。&lt;br /&gt;父なる神の愛を通して、「父の愛」について、共にみことばを受け、勝利の人生の祝福を受けよう！&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;1．　　御子を愛された父の愛　　　（ヨハネ２０：１７、ヨハネ１５：９）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　聖書は、神の愛を父の愛として描いている。&lt;br /&gt;「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。…私たちは御霊によって『アバ、父。』と呼びます。」（ローマ8:14-15）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。」（イザヤ49:15）と神の愛が母の愛にもたとえられている。&lt;br /&gt;しかし多くは父の愛である。なぜか？&lt;br /&gt;神は実際に「父」である。神は御子イエス様の父である。&lt;br /&gt;復活のイエス様は、マグダラのマリヤに、「わたしの父またあなたがたの父」（ヨハネ20：17）と呼んでいる。　&lt;br /&gt;「神は愛なり。」と言う時、私たちは人間に対する愛を考えるが、人間を造られる前も、神は愛であり、神は誰かを愛しておられた。&lt;br /&gt;その「誰か」とは、御子である。父なる神はその永遠の始まりから御子を愛しておられた。だから、イエス様は弟子たちに「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。」（ヨハネ15：9）と言われた。　&lt;br /&gt;父なる神が御子を愛された愛で、主イエス様が私たちを愛してくださった。言い換えれば、父なる神が、まるで、御子を愛するかのように、あなたを愛してくださった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「私たちが神の子どもと呼ばれるために、…御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。」（１ヨハネ３:１）&lt;br /&gt;この神の愛の広さ、深さ、その大きさを、立ち止まって静かに考えてみたことがあるだろうか？神の愛を知ると、私たちは、劣等感から解放され、人を妬まずに、自信をもって人生を生きることができるように変えられる。&lt;br /&gt;あなたは、この神の愛を受け取っているだろうか？&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（ヨハネ1:12）「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」&lt;br /&gt;イエス様をあなたの救い主として、あなたの心と人生に迎え入れる時、あなたは、父なる神の子どもとなって、父の愛を受ける。世の中の愛は、親子の愛、夫婦の愛であっても移り変わる。しかし、父なる神の愛は変わることがない。そして見捨てられることもない。&lt;br /&gt;（詩篇27:10・イザヤ46:4）　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２．　　　御子を犠牲にした父の愛　　　（ローマ８：３２～３６）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;父なる神は、愛してやまない御子イエス様を犠牲にしてまでも、私たちを愛してくださった。（ヨハネ3:16）&lt;br /&gt;神の御子に対する愛を少しでも理解できたなら、その御子を与えてまで罪人を救おうとされた神の愛がどんなに大きいかがわかる。　&lt;br /&gt;母親の愛は、どちらかと言えば、家を守り、家族を守ろうとする愛である。&lt;br /&gt;しかし、父親の愛は、持っているものを手放してまでも、相手を愛するという面がある。&lt;br /&gt;いつの時代も、どの国でも、父親たちは、国を守るため、家族を守るため、あえて危険な場所にも出て行く。神の愛が「父の愛」と呼ばれるのは、人間を罪から救い出すために御子を犠牲にすることもいとわなかった、その愛のゆえである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;例話：『グスタフ・フォス神父と父の関係』　　「日本の父へ」より&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;父は炭鉱夫で、無学であったが信仰と知恵とに富んだ人で、フォスのたましいの教師であった。父と子の間には、深い愛のきずながあり、わが子を手放し、外国の日本に送り出した。３２年間一度も逢うことがなかった。父は、喜んでその犠牲を払った。&lt;br /&gt;父は息子のために祈りながら生涯を閉じた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;結論：  『父の愛は、あなたに勝利を与える　』　　　（ローマ８：３７～３９）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;父なる神は、犠牲の愛で御子を地上に送り、十字架へと送り出された。&lt;br /&gt;私たちは、ご自分の御子を手放した神の愛によって救われた。&lt;br /&gt;この愛によって、あなたは、圧倒的な人生の勝利者となるのである。　　　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;主よ、感謝します。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/21132095-602692011524050503?l=katayanagi-efc-message.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/602692011524050503'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/602692011524050503'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://katayanagi-efc-message.blogspot.com/2011/06/blog-post_19.html' title='父の愛'/><author><name>ハレルヤ</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-21132095.post-1124854550977637830</id><published>2011-06-14T22:07:00.005+09:00</published><updated>2011-06-15T10:07:29.282+09:00</updated><title type='text'>ペンテコステの祝福</title><content type='html'>&lt;span style="color: #f1c232;"&gt;～イエス様といつも共に歩む～ &lt;/span&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２０１１年６月１２日&lt;br /&gt;聖書：使徒の働き２章１～６・１４～１８節&lt;br /&gt;説教：滝田新二牧師　　　　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;1.五旬節の日になって、みなが一つ所に集まってた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;2.すると突然、天から激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;3.また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;4.すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;5.さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいが、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;6.この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、驚きあきれてしまった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;14.そこで、ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々にはっきりとこう言った。「ユダヤの人々、ならびにエルサレムに住むすべての人々。あなたがたに知っていただきたいことがあります。どうか、私のことばに耳を貸してください。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;15.今は朝の九時ですから、あなたがたの思っているようにこの人たちは酔っているのではありません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;16.これは、預言者ヨエルによって語られた事です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;17.『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;18.その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;序.今日は過ぎ越しの祭り（イエス様の復活）から５０日目の「五旬節」のユダヤ教の祭りの日にペンテコステ（聖霊降臨）によって教会が誕生した記念日である。みことばから、ペンテコステの祝福を受けよう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１．　ペンテコステ（聖霊降臨）の出来事　　(１～４節)　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;①　風のような響　（２節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。」&lt;br /&gt;ヘブル語で「風」「息」「霊」は同じ「ルーアハ」で「風」は聖霊様の象徴であった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;②　炎のような分かれた舌が現われた　（３節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「炎や火」は聖霊様を表す比喩として用いられる。主は聖霊と火によってバプテスマを授けるお方。（マタイ3：11）&lt;br /&gt;聖霊様は徹底的に人の罪と汚れをきよめる「焼き尽くす火」（ヘブル12：29）　&lt;br /&gt;「舌」は「言葉」を意味し、福音の言葉を語らせる聖霊様のお働きである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;③　他国のことばで話し出した（６〜１１節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;新しい穀物の「五旬節」というユダヤ教のお祭りの日、ローマ帝国内から敬虔なユダヤ人やユダヤ教に改宗した人々が大勢宮に集まった。&lt;br /&gt;当時知られていた全世界の地中海沿岸の１５の地域とアジアとアフリカ、ヨーロッパの人々は、みな彼らの国の国語で弟子たちが福音（Good News)」を話しているのを耳にした。&lt;br /&gt;この出来事を契機に、世界の歴史が大きく変わる。　　&lt;br /&gt;主の弟子たちは、弱く、小心者で、主を裏切った自己中心の者たちであったが、ペンテコステの聖霊降臨以来、&lt;br /&gt;彼らは全く変わった。謙遜に仕える真の愛の人に変えられ、内側から造り変えられた。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２．ペンテコステ（聖霊降臨）の恵み　　　～奥義としてのキリスト～　　（１４～１８節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ペテロは、これは紀元前８００年頃の旧約の預言者ヨエルの預言の成就であると語る。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;パウロも神の奥義であると語っている。&lt;br /&gt;コロサイ１：２７「神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;Ⅰコリント６：１９「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。」　&lt;br /&gt;聖霊降臨の理由は、イエス様の十字架の罪の赦しと救いの保障である。&lt;br /&gt;また聖霊様は私たちを内側から造り変えて、キリストの似姿へと（聖化）変えて下さる。　&lt;br /&gt;あなたも、イエス様を救い主、人生の主・王として信じ受け入れるならば、聖霊様を受ける。ペテン師が誠実な人に、雷の子が愛の人に、孤独な人が、喜びと感謝に溢れた人に変えられる。主が内住して、いつも共に歩んで下さる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;結　論：　　イエス様といつも共に歩む&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（１）&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp; 主との親しい交わりが与えられる　　（ヨハネ7章37～39節）　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;聖霊様に満たされる秘訣は、「誰でも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。その人の心の内に生ける水が流れ出るようになる」のである。イエス様のみもとにいつも行くこと。「絶えず祈りなさい」（第１テサロニケ5章17）　&lt;br /&gt;イエス様といつも一緒に親しく歩む。クリスチャンは御霊の実を結ぶ。&lt;br /&gt;（ガラテヤ５：22～２３）　　　　　&lt;br /&gt;御霊の実は、私たちがイエス様の似姿に変えられること。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（例話①：マザー・テレサの創立した神の愛の宣教会）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（２）&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp; 夢とビジョンが与えられる（使徒２：17）　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。』　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;クリスチャンは、いつまでも夢とビジョンに生きる人に変えられる。　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（例話②：CRASH JAPANの働き。　例話③：隅谷三喜男氏の夢に生きる人生）　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;主よ感謝します。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/21132095-1124854550977637830?l=katayanagi-efc-message.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/1124854550977637830'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/1124854550977637830'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://katayanagi-efc-message.blogspot.com/2011/06/blog-post.html' title='ペンテコステの祝福'/><author><name>ハレルヤ</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-21132095.post-599083072803027806</id><published>2011-05-31T09:04:00.006+09:00</published><updated>2011-05-31T12:13:21.544+09:00</updated><title type='text'>人生の再出発のチャレンジ②</title><content type='html'>&lt;span style="color:#ffcc33;"&gt;～あなたはわたしを愛するか～&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　　　　&lt;br /&gt;２０１１年５月２９日&lt;br /&gt;聖書：ヨハネの福音書２１章１５～２２節　　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;説教：滝田新二牧師&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;15．彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;16．イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;17．イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;18．まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;19．これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現すかを示して、言われたことであった。こうお話しになってから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;20．ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子があとについて来るのを見た。この弟子はあの晩餐のとき、イエスの右側にいて、「主よ。あなたを裏切る者はだれですか」と言った者である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;21．ペテロは彼を見て、イエスに言った。「主よ。この人はどうですか。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;22．イエスはペテロに言われた。「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;序.　ヨハネの福音書は２０章で終わり、２１章は付録となっている。しかし、欠かすことができない大切な内容となっている。２１章の内容は、２つの出来事である。&lt;br /&gt;１つ目は、失望落胆した弟子たちがガリラヤ湖に戻り、徹夜で漁をしても一匹も取れなかったが、復活の主に出会い、主のみことばに従った時、大漁の恵みを受けた出来事。&lt;br /&gt;今日は、２つ目、主イエス様がいかに癒し、回復させて、新しいビジョンを与え、人生の再出発をさせてくださるのか、共にみことばを受けよう！&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１.　　　あなたはわたしを愛するか？　　（１５～１６節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　弟子たちは、命を懸け仕事も捨てて、イエス様に従ったのに、どうして失望落胆して、昔の職業に戻ろうとしたのか？&lt;br /&gt;　人は誰でも、どんなに恵まれて、十字架と復活の救いを知っても、過去に戻ろうとする罪人の習性がある。&lt;br /&gt;　しかし主はそのような人を放って置かれることはない。&lt;br /&gt;その人を訪ね、癒して、再び回復させる。再出発させる目的は何か？　&lt;br /&gt;　彼らにビジョンを与えるためである。&lt;br /&gt;人はビジョンがなければ、動物と同じである。&lt;br /&gt;ただ食べて、飲んで、努力して富や名声を獲得しても、それだけでは希望がない。&lt;br /&gt;自分は何のために生まれたのか？何をなして天国に行くのか？&lt;br /&gt;勉強やビジネス、結婚も、主のため、それが神の祝福である。&lt;br /&gt;これを見失うとすべてが虚しくなる。&lt;br /&gt;イエス様は、弟子たちにパンと魚を焼いてもてなした。&lt;br /&gt;主は傷ついた人、裏切った人を叱らない。&lt;br /&gt;主はペテロに「あなたは私を愛するか？」と尋ねた。&lt;br /&gt;ペテロはイエス様が大好きである。&lt;br /&gt;でも裏切ったから、もう愛しているとは言えない。&lt;br /&gt;でも、心の隅には、友情が少しは残っていたので「イエス様はご存知でしょう」と答えた。主は神の愛を表すアガペーを使って２度「私を愛しているか」と問われたが、ペテロは友情の愛を表すフィレオで、２度「愛します」と答えた。&lt;br /&gt;すると３度目は、「では友情の愛・フィレオでいいから私を愛するか」と尋ねます。&lt;br /&gt;すると、ペテロは友情のフィレオで「あなたを愛します」と答えた。&lt;br /&gt;　なぜ、主は３度も繰り返し「あなたは私を愛するか」と尋ねられたのか？&lt;br /&gt;それはペテロが、３度主を裏切り、傷ついたので、主は３度尋ねて、ペテロの傷を１つ１つ癒されたのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２．　　あなたはわたしの羊を飼いなさい　（１７節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;主はペテロに、新しい使命・ミッションを与えられた。「私の羊を飼いなさい。」&lt;br /&gt;あなたは、主と交わるだけでなく、聖徒との交わりを持っているだろうか？　&lt;br /&gt;失敗し、傷つき倒れた一人の魂のために祈り、愛して、羊を牧しているだろうか？　&lt;br /&gt;だから教会には小グループの交わりが必要である。&lt;br /&gt;私たちは主に愛されて、主を愛するようになる。&lt;br /&gt;主を愛するとは具体的には、たましいを愛することである。&lt;br /&gt;人を愛することで私たちは成長する。こうして、私たちはたましいの羊飼いとなる。&lt;br /&gt;主は、あなたが大きな仕事をなし、家を建て、社長や総理大臣になっても、それにあまり興味がない。あなたが、失望落胆した人をどれだけ助けたか、励まして、愛し回復させたかに大きな関心を持っておられる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;イエス様は、私たちに「愛するビジョン」を与えられた。&lt;br /&gt;そして、人を愛するためには、ご聖霊様の油注ぎの助けが必要である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;３．　　あなたはわたしに従いなさい　（１８～１９節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;最後に、イエス様は、ペテロに「わたしに従いなさい。」とお命じになられた。&lt;br /&gt;私たちは、色々と自分の計画を立てる。&lt;br /&gt;しかし、主は、あなたは、語られる。&lt;br /&gt;「あなたは自分の計画した道に進むな。主のみこころを求め、主に従いなさい。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　箴言16章9 節『人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。』　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（例話：滝田牧師の献身の証し）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;愛する兄弟姉妹、主を愛し、たましいを愛し、主に従いましょう！　　　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;主よ感謝します。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/21132095-599083072803027806?l=katayanagi-efc-message.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/599083072803027806'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/599083072803027806'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://katayanagi-efc-message.blogspot.com/2011/05/blog-post_31.html' title='人生の再出発のチャレンジ②'/><author><name>ハレルヤ</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-21132095.post-6717941802629229875</id><published>2011-05-29T09:38:00.003+09:00</published><updated>2011-05-29T09:45:22.937+09:00</updated><title type='text'>人生の再出発のチャレンジ①</title><content type='html'>&lt;span style="color: rgb(255, 204, 51);"&gt;～原点に立ち返る～&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　　　　　　　&lt;br /&gt;２０１１年５月２２日&lt;br /&gt;聖書：ヨハネの福音書２１章１～１４節　　　　　&lt;br /&gt;説教：滝田新二牧師　　　　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;1.この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現された。その現された次第はこうであった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;2.シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;3.シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;4.夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;5.イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;6.イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;7.そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;8.しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;9.こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;10.イエスは彼らに言われた。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;11.シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた。それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;12.イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか」とあえて尋ねる者はいなかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;13.イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;14・イエスが、死人の中からよみがえってから、弟子たちにご自分を現されたのは、すでにこれで三度目である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;序．ヨハネの福音書の２１章は付録である。&lt;br /&gt;しかし、単なるおまけではなく、大きな恵みの付録となっている。&lt;br /&gt;復活のイエス様に出会った弟子たちが、なぜ、再びガリラヤ湖に戻り、昔の漁師をしているのか？弟子たちの姿は、私たちの姿でもある。&lt;br /&gt;主に出会い、従うようになった。しかし、みことばを受けても、一歩教会の外に出ると、元の日常生活に埋没してしまう。&lt;br /&gt;失望する者に、主はどのように関わり、人生の再出発を備えて下さるのだろうか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１．　原点に返った弟子たち　　～私は漁に行く～（1～3節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ペテロたちは故郷ガリラヤ湖へと舞い戻っていた。&lt;br /&gt;実は、弟子たちは一直線に伝道に励み、邁進したのではない。&lt;br /&gt;人生には浮き沈みがある。同様に信仰生活にも浮き沈みがある。&lt;br /&gt;スランプに落ち込んだ時は、どうすればよいだろうか？&lt;br /&gt;原点に立ち返る。スポーツ選手もスランプになると原点に返るように、&lt;br /&gt;スタートの原点に立ち返る。弟子たちは、原点であるガリラヤ湖の漁師の仕事に赴く。しかし、夜通し働いても一匹の魚も獲れずに、失望落胆していた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２．　落胆した者の傍らに立たれる主　　～イエスは岸辺に立たれた～　（４～５節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;主イエス様が、お姿を現わされたのは、ペテロと仲間たちが落胆の極限にあった時である。主は、失望落胆する者の傍らに立たれる。&lt;br /&gt;大震災の日本は、敗戦の時と同じくらい落ち込んでいる。しかし、覚えよう。主は失望する者の傍らに立たれるお方であることを。&lt;br /&gt;主は5節「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」と呼びかけた。&lt;br /&gt;英語のNIVは”Friends,  haven’t you got any  fish?”（友よ。魚は獲れましたか？）と質問となっている。&lt;br /&gt;これは、弟子たちの心を探る質問であった。&lt;br /&gt;弟子たちの弱さ、失敗、挫折、実を結ばない人生を見透かしておられる主の質問である。イエス様を離れては何も出来ない、弟子たちの弱さ、失敗、落胆を、主は知っておられる。キリストなき家事や育児、仕事や勉強、キリストなき人生設計や家庭形成の空しさ、喜びなき人生を主は知らされた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;３．　人生の再チャレンジの招き　　～網を降ろしなさい～　（６～８節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;イエス様は「舟の右側に網をおろしなさい。」と命令された。&lt;br /&gt;ある意味、不可能への挑戦である。彼らは、疲れ、失望落胆していた。&lt;br /&gt;しかし、主は不可能と思える事にも挑戦しなさいと語っておられる。&lt;br /&gt;私たちの生涯において不可能と思われる事が多くある。&lt;br /&gt;性格を変えたいが、どうしても出来ない、仕事を変えても、何をやっても駄目だ。&lt;br /&gt;しかし、主は「もう一度網を投げてごらん」と語っておられる。&lt;br /&gt;これは、やり直しの可能性、人生の再挑戦のチャンスである。&lt;br /&gt;「右側」とは「神の側」を聖書では意味する。&lt;br /&gt;今までの自分の考えや経験、努力から、新しく神の側に網を打ってみよ！&lt;br /&gt;その結果は、何と153匹の大漁であった。&lt;br /&gt;この数字は、当時知られていた魚の種類とも言われる。&lt;br /&gt;教会は全世界のすべての民族を迎える。&lt;br /&gt;教会はどのような人々が来ても網が破れることがない。１つであることの象徴でもある。私たちも、主のみことばに従う時、大いなる御業を拝するのである。&lt;br /&gt;この体験は、最初の主との出会いの原点と同じである（参照：ルカ５章１～６節）　&lt;br /&gt;「イエス様を信じて、再スタートする時、人生はやり直せる。」&lt;br /&gt;パウロは「私を強くして下さるお方（キリスト）によってどんなことでもできる。」&lt;br /&gt;（ピリピ４：１３）と語っている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;結論：　主のチャレンジに応えよう！　&lt;br /&gt;　　　　～主の豊かな祝福は備えられている～　（９～１４節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「さあ来て、朝の食事をしない。」(１２節)　&lt;br /&gt;疲れた弟子たちに、主は温かい朝食を備えておられた。&lt;br /&gt;黙って弟子たちに給仕し、仕える姿は、叱責以上の効果がある。&lt;br /&gt;弟子たちには、生涯忘れ得ぬ恵みと祝福の交わりとなった。&lt;br /&gt;復活の主は、あなたにも「網をおろしない」と新しいチャレンジを与えておられる。&lt;br /&gt;どんなに難しい課題でも、イエス様を信じて、信仰によるチャレンジをしよう！　&lt;br /&gt;主の豊かな祝福はすでに備えられているのだから。　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;主よ感謝します。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/21132095-6717941802629229875?l=katayanagi-efc-message.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/6717941802629229875'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/6717941802629229875'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://katayanagi-efc-message.blogspot.com/2011/05/blog-post_29.html' title='人生の再出発のチャレンジ①'/><author><name>ハレルヤ</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-21132095.post-1023220973075361025</id><published>2011-05-17T08:49:00.006+09:00</published><updated>2011-05-18T09:21:19.198+09:00</updated><title type='text'>心燃やされて</title><content type='html'>&lt;span style="COLOR: rgb(255,204,102)"&gt;～エマオ途上の物語～&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２０１１年５月１５日&lt;br /&gt;聖書:ルカの福音書２４章１３～３５節&lt;br /&gt;説教：滝田新二牧師　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;　　　　　　　　 　&lt;br /&gt;13．ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;14.そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;15.話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて彼らとともに道を歩いておられた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;16.しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;17.イエスは彼らに言われた。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;18.クレオパというほうが答えて言った。「エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけが知らなかったのですか。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;19.イエスが、「どんな事ですか」と聞かれると、ふたりは答えた。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;20.それなのに私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して死刑に定め十字架につけたのです&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;21.しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;22.また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;23.イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;24.それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;25.するとイエスは言われた。「ああ愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない心の鈍い人たち&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;26.キリストは必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;27.それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;28.彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;29.それで、彼らが、「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中に入られた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;30.彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;31.それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;32.そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;33.すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻ってみると、十一使徒とその仲間が集まって、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;34.「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現された」と言っていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;35.彼らも、道であったいろいろなことや、パンを裂かれたときにイエスだとわかった次第を話した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;序．三浦綾子さんの名作に『氷点』がある。&lt;br /&gt;「氷点」とは摂氏零度、つまり水が凍り始める温度であり、氷が融け始める温度。このような心は誰にもある。確かに私たちは心が凍りついていくのを感じながら日々を過ごすことがある。&lt;br /&gt;あなたの心に誰も融かすことのできない氷点があるだろうか？私たちは、エマオ途上の二人の経験を通して、心の氷点が神の愛で融かされていく美しい物語を学ぶ。そして、みことばを通して私たちの心にも点火して頂こう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１．融かされた心の氷点　　（ルカ24章１３～２７節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　主イエス様が復活された日曜の夕べ、エルサレムからエマオまでその間約１１キロの道程を十字架の出来事を話題にしながら歩く二人連れがあった。&lt;br /&gt;彼らは復活を信じられないで、ただ失望落胆していた。エルサレムに背を向け、エマオに向かう彼らの姿は信仰の世界に背を向けて不信仰の世界を彷徨い歩く人々の姿に似ている。十字架のイエス様を死人の中に捜し続ける人の心はさながら氷点である。&lt;br /&gt;不信仰の目には、近づいて来られたイエス様さえも認識できない。&lt;br /&gt;主イエス様は、彼らの不信仰を責めながらも、共に歩いて「聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。」(27節。参照：ヘブル1：1-2）たとえ、あなたが主に背を向けて孤独な日々を送っていても、イエス様はあなたの人生に近づいて、あなたの愚痴や呟きにじっと耳を傾け、神のみことばへと導き、信仰の交わりへと引き戻して下さる。 現代では、私たちが主にお目にかかる道は、この日曜の主日礼拝である。&lt;br /&gt;「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」（ローマ１０：１７）と教えられている。&lt;br /&gt;だれも融かすことのできない心の氷点を、主イエス様だけは融かすことができるのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２．交わりの回復　（ルカ２４章２８～３５節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;エマオの村で、彼らはイエス様をわが家にお迎えする。&lt;br /&gt;この場面の讃美歌３９番は、「主よ、私と共に宿って、私にも復活の命をお与え下さい」という祈りが歌われている。主が喜ばれる祈りは復活の命を求める祈りである。　　&lt;br /&gt;復活の命に満たされてこそ、この世でのあらゆる誘惑に負けない、きよめられた信仰生活が可能になる。　　　　　　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「賛美の祈りとパンを裂くこと」はその家の主人の役目である。イエス様は、今、食卓の主（あるじ）としてパンを裂かれる。これは聖餐式である。&lt;br /&gt;みことばを受け、十字架の死と復活を信じる者に与えられる特別の恵みとしての食卓である。&lt;br /&gt;イエス様からこのパンを受け取ったその時、二人の目が開け、主イエス様だと分かった。すると不思議なことに、主のお姿が見えなくなった。&lt;br /&gt;しかし彼らは少しも残念がっていない。それどころか、エルサレムにいる仲間の所に引き返して行った。&lt;br /&gt;ふたりの弟子は、聖書の解き明かしを受けた時、心が燃やされ、主の聖餐式に与った時、心の目・霊の目が開かれて信仰が回復した。&lt;br /&gt;そして、主の復活の証人として立てられ、遣わされた。&lt;br /&gt;主に愛された者は、主に愛された者との交わりを大切にする。小グループの交わりである。&lt;br /&gt;私たちの教会は「小グループある教会から小グループからなる教会を目指している」&lt;br /&gt;そして、主に愛された者は、主を知らぬ人々に福音の恵みを証しないではいられない。&lt;br /&gt;エルサレムに引き返すことは、危険を意味する。しかし、そこに敢えて二人は立ち帰って、新しい使命に赴くことができたのはなぜか？心が燃やされていたからである。（32節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;結 論：　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;『復活の主に出会い、心燃やされて、喜びに満たされる。』&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　イエス様が、あなたのために命を懸けて愛して下さった事実を知る時、あなたの心の氷点は融かされる。　　　　　&lt;br /&gt;十字架のイエス様、死に勝利した復活されたイエス様が、いついかなる時にも、あなたの人生を共に歩んで下さる。&lt;br /&gt;この事実を信じるならば、あなたは、二人の弟子たちのように心燃やされて、喜びに満たされるる。　　　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;そして、あなたの人生は開かれ、家庭や学校・職場は祝福される。　&lt;br /&gt;「イエスは、彼らを．．．手を上げて祝福された。そして祝福しながら彼らから離れて行かれた。彼らは、非常な喜びを抱いてエルサレムに帰り、いつも宮にいて神をほめたたえていた。」（ルカ24：50）　　　　　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;　　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;主よ感謝します。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/21132095-1023220973075361025?l=katayanagi-efc-message.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/1023220973075361025'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/1023220973075361025'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://katayanagi-efc-message.blogspot.com/2011/05/blog-post_17.html' title='心燃やされて'/><author><name>ハレルヤ</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-21132095.post-6110569291225880152</id><published>2011-05-08T09:48:00.001+09:00</published><updated>2011-05-08T11:43:32.928+09:00</updated><title type='text'>母の涙の祈り</title><content type='html'>２０１１年５月８日&lt;br /&gt;旧約聖書：　第１サムエル記1章1～20節&lt;br /&gt;説教：滝田新二牧師&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;1.エフライムの山地ラマタイム・ツォフィムに、その名をエルカナというひとりの人がいた。この人はエロハムの子、順次さかのぼって、エリフの子、トフの子、エフライム人ツフの子であった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;2.エルカナには、ふたりの妻があった。ひとりの妻の名はハンナ、もうひとりの妻の名はペニンナと言った。ペニンナには子どもがあったが、ハンナには子どもがなかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;3.この人は自分の町から毎年シロに上って、万軍の主を礼拝し、いけにえをささげていた。そこにはエリのふたりの息子、主の祭司ホフニとピネハスがいた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;4.その日になると、エルカナはいけにえをささげ、妻のペニンナ、彼女のすべての息子、娘たちに、それぞれの受ける分を与えた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;5.しかしハンナには特別の受け分を与えていた。主は彼女の胎を閉じておられたが、彼がハンナを愛していたからである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;6.彼女を憎むペニンナは、主がハンナの胎を閉じておられるというので、ハンナが気をもんでいるのに、彼女をひどくいらだたせるようにした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;7.毎年、このようにして、彼女が主の宮に上って行くたびに、ペニンナは彼女をいらだたせた。そのためハンナは泣いて、食事をしようともしなかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;8.それで夫エルカナは彼女に言った。「ハンナ。なぜ、泣くのか。どうして、食べないのか。どうして、ふさいでいるのか。あなたにとって、私は十人の息子以上の者ではないのか。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;9.シロでの食事が終わって、ハンナは立ち上がった。そのとき、祭司エリは、主の宮の柱のそばの席にすわっていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;10.ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;11.そして誓願を立てて言った。「万軍の主よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします。そして、その子の頭に、かみそりを当てません。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;12.ハンナが主の前で長く祈っている間、エリはその口もとを見守っていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;13.ハンナは心のうちで祈っていたので、くちびるが動くだけで、その声は聞こえなかった。それでエリは彼女が酔っているのではないかと思った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;14.エリは彼女に言った。「いつまで酔っているのか。酔いをさましなさい。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;15.ハンナは答えて言った。「いいえ、祭司さま。私は心に悩みのある女でございます。ぶどう酒も、お酒も飲んではおりません。私は主の前に、私の心を注ぎ出していたのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;16.このはしためを、よこしまな女と思わないでください。私はつのる憂いといらだちのため、今まで祈っていたのです。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;17.エリは答えて言った。「安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;18.彼女は、「はしためが、あなたのご好意にあずかることができますように」と言った。それからこの女は帰って食事をした。彼女の顔は、もはや以前のようではなかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;19.翌朝早く、彼らは主の前で礼拝をし、ラマにある自分たちの家へ帰って行った。エルカナは自分の妻ハンナを知った。主は彼女を心に留められた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;20.日が改まって、ハンナはみごもり、男の子を産んだ。そして「私がこの子を主に願ったから」と言って、その名をサムエルと呼んだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;序．本日は「母の日の礼拝」である。サムエル記の背景は、イスラエルが聖書の祝福の原則に従わずに自分勝手に生きていた時代である。主は、神の人サムエルを起こされた。　イスラエルは、預言者サムエルによって国が再建され、ダビデ王によってイスラエル王国は確立される。　サムエルを与えるために、主は、一人の女性ハンナを選ばれた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;1．ハンナの苦しみ　（１～７節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ハンナの苦しみは、「子どもが与えられない」ことであった。5節「主はハンナの胎を閉ざしておられた」ここに神の意志が働いていたことを示している。当時は、子どもは神の祝福と考えられ、子どもが生まれないことは神の呪いと見なされていた。また、聖書の結婚の原則である一夫一婦制に反して、一夫多妻が受け入れられていた。ハンナの夫エルカナにはもう一人の妻ペニンナがいた。彼女からハンナは嘲られ苦しめられていた。現代も多くの人は、苦しみから逃れるためにアルコールに走り、ドラッグに手を出す。しかし、それらは一時的に苦しみから目をそらさせるが、酔いが覚めたら、もっと大きな不安や恐怖、罪悪感に襲われる。こうして依存症に落ち込んでしまう。心の空しさを満たすために、お腹が空いていないのに食べ続ける「過食症」、必要のないものをどんどん買い続ける「買い物依存症」や「セックス依存症」。また「共依存という人間関係の依存症」もある。これは他の人に隷属したり、反対に他の人をコントロールすることでしか、家族や周りの人との関係を持つことができないというやっかいなもので、その結果、自分を傷つけ、周りの家族を傷つけてしまう。結局、私たち人間は依存しないと生きていけない弱い存在である。だから、依存してはいけない物に依存することをやめて、依存すべきお方（主）に依存して、始めて苦しみから解放される。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２．ハンナの祈り　　～命を注ぎ出す祈り～　（８～１６節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ハンナの夫エルカナは、毎年神の宮に上り礼拝を献げていた。ハンナは神の宮に上る機会を、単なる宗教行事ではなく、主ご自身の前に出る機会にした。10節「ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた。」　　　　　　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;心理学では、夫婦の関係さえ良ければどんなことでも解決するかのように語る。しかし理想的な夫も彼女の苦しみを慰めることができなかった。私たちは、苦しむとき人の励ましや慰めを求める。しかし解決できないことがある。本当の癒しと解決は主の所にしかないからである。ハンナは自分の苦しみを主に携えて行った。ハンナはまっすぐに主に向かい祈った。もし、ハンナが主に背を向け、ペニンナの悪意に対して、嫉妬して、悪をもって復讐していたら？　サムエルが与えられることはなかった。そして家庭は地獄と化したに違いない。ペニンナに嫉妬していたが、ハンナは主のもとに行き、命を注いで祈った。祈りを聞き給う主がおられる。主は、あなたの命、魂、全存在を、まるごと受けとめてくださる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;3．ハンナの勝利　　（１７～２０節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ハンナは祈りの格闘の末に主の答えを受ける。「安心して帰りなさい」（１７節）祭司の言葉を受け家族のもとに帰った。「彼女の顔は、もはや以前のようではなかった」（１８節）。命を注ぎ出して祈り、主に委ね、苦難をも突き抜けて勝利した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;◎結　論：　　『　母の涙の祈りは、祝福をもたらす　』&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ハンナは、サムエルが生まれた時、自分の所有物のように育てるのではなく、真に信仰をもってその子を養い、やがて主に誓ったように、わが子を主に献げることができた。こうして偉大な預言者が世界に送り出された。母の日の礼拝で、このサムエルの母の涙の祈りの姿をしっかりと心に刻み付けたい。私たちも、神の深いご計画によって大きな苦しみと試練を与えられる。その苦しみの中で、決して主に背を向けず、自らの魂を注ぎ出して、涙の祈りをささげ、主の勝利と祝福を受けよう。　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（例話：　母モニカの涙の祈りが偉大なアウグスチヌスを2度生んだ。）　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;主よ感謝します。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/21132095-6110569291225880152?l=katayanagi-efc-message.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/6110569291225880152'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/6110569291225880152'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://katayanagi-efc-message.blogspot.com/2011/05/blog-post.html' title='母の涙の祈り'/><author><name>ハレルヤ</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-21132095.post-898550458806733028</id><published>2011-04-24T14:25:00.004+09:00</published><updated>2011-05-17T13:32:42.957+09:00</updated><title type='text'>石は転がされた</title><content type='html'>&lt;span style="COLOR: rgb(255,204,51)"&gt;～主キリストの復活の勝利～&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２０１１年４月２４日　　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;聖書：マルコの福音書16章1～8節&lt;br /&gt;説教：滝田新二牧師　　　　　　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;　　　　　&lt;br /&gt;1.さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。　　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;2.そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓に着いた。　　　&lt;br /&gt;　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;3.彼女たちは、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか」とみなで話し合っていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;4.ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;5.それで、墓の中に入ったところ、真っ白な長い衣をまとった青年が右側にすわっているのが見えた。彼女たちは驚いた。　　　　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;6.青年は言った。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;7.ですから行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』とそう言いなさい。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;8.女たちは、墓を出て、そこから逃げ去った。すっかり震え上がって、気も転倒していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;序．イースターおめでとうございます！復活の３つの出来事から、勝利の秘訣を御言葉から受けよう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１．大きな問題　（マルコ16章1～3節）&lt;br /&gt;　　　　　　　　&lt;br /&gt;　2000年前のイスラエルの墓は洞窟をくり抜いた横穴の墓であった。墓には小さな部屋があり、そこに死体を置き、1年後、骨を石棺に入れて奥の部屋に安置した。墓の入口には丸い形の大きな石を置いた。総督ピラトは、弟子たちがイエス様の死体を盗み出す事を防ぐために、石を封印し、ローマ軍の番兵が警護した。安息日が終わるの待って墓に向かった女たちにとって大きな問題は、墓の入り口に置かれたこの大きな石であった。それは主を十字架に架け、葬り、完全に封じ込めたサタンの勝利の象徴であった。私たちにも、仕事や経済的な問題・家族の問題・病気の問題・学校や受験という大きな石がある。誰が、その大きな石を除いてくれるのだろうか？&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２．大きな救い　（マルコ16章4節）　　　　　　　　&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　女たちが墓に到着すると、目の前の墓の石は転がされていた。悪の力の勝利の象徴である石は、神の働きにより見事に取り除かれた。そしてイエス様は、死の力を打ち破って甦られた。主イエス様は、復活により、死のトゲを私たちから取り除いて、死に打ち勝つ道を開かれた。　復活は、主による逆転勝利である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;３．大きな信仰　(マルコ16章４～7節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　女たちは、すでに石が転がされて勝利していたことに気づかないで、悩んでいた。その理由はなぜか？　　　　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;①彼女たちはイエス様の復活の御言葉の約束を忘れていた。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;②マリヤたちは下を向いていた。　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;4節に「目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がころがしてあった」とある。彼女らは「下を向いていた」、つまり、問題は実際には解決されているのに、見上げないでうつむいて悩んでいたのである。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;私たちも日常生活で、困難を前にして、絶望し、下を向くことが多いのではないだろうか？　私たちの人生には、困難な問題という大きな石がある。でも一番の問題は何か？それは目の前の石ではなく、苦難を思い悩むことである。目の前の石を見て、悲観して、思い煩い、へたり込んで、将来に希望を持てないことである。「人間」という新約聖書のギリシャ語は、anthropos（アンスロポス）で、「上を向いて歩く」と言う意味の言葉である。それは動物が四足歩行で下を向いて歩くのに対し、人間が二足歩行で、上を向くことから来ている。私たちが主を見上げる時、私たちの課題は解決に向かう。それが「大きな信仰」である。主を見上げるとは「信仰」の象徴である。あなたも、下を見ず、上を見上げよう！（例話：パウロの祈りをあなたの祈りに　エペソ１：１９ー２１）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;●結論：『 復活の主を見上げて、勝利の道を歩もう！　』&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;イースターは、死の力を打ち破った勝利の記念日である。私たちの人生に、死ほど恐ろしいものはない。この死を打ち破られた主イエス様が、あなたと共におられるならば、どんな課題や問題があっても、恐れる必要はない。　その上、復活の朝、墓の前の大きな石は、神の御業によって転がされていた。&lt;br /&gt;復活は、あなたの大きな問題の石を取り除き、あなたを救い出す逆転勝利である。イエス様を信じる信仰によって、あなたも必ずよみがえる。あなたの目の前の困難と問題の石の前で、主を見上げよう。復活&lt;br /&gt;の主イエス様を見上げて信じる時、そこに問題の解決と平安がある。イースターの朝、主イエス様は死を打ち破られ、私たちに希望を与えられたことに感謝し、私たちの目を復活の主に向け、勝利の生活を歩んで行こう！　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;　　　　　　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;（例話：　よみがえった教会「原発から5㌔の福島第1バプテスト教会」の佐藤彰師の証しのDVD）　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;主よ、感謝します。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/21132095-898550458806733028?l=katayanagi-efc-message.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/898550458806733028'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/898550458806733028'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://katayanagi-efc-message.blogspot.com/2011/04/blog-post.html' title='石は転がされた'/><author><name>ハレルヤ</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-21132095.post-1003154786198512163</id><published>2011-03-22T11:57:00.002+09:00</published><updated>2011-03-22T12:12:51.409+09:00</updated><title type='text'>心の癒しと救い</title><content type='html'>&lt;span style="color: rgb(255, 204, 102);"&gt;～東日本大震災を覚えて～&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;2011年3 月20日&lt;br /&gt;聖書:第１ペテロの手紙　２章２２〜２４ 節&lt;br /&gt;説教：滝田新二牧師&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;2:22 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも 見いだされませんでした。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;2:23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、お どすことをせず、正しくさばかれる方にお任せ になりました。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負 われました。それは、私たちが罪を離れ、 義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あな たがたは、いやされたのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;序．3月11日の東日本大震災で亡くなられた方が、20日現在7900 人の方々と行方不明の方々は19,000人を越えました。地震と津 波、そして原発と3重苦の試練で避難されている４０万人の苦 難を共に覚えましょう。&lt;br /&gt;悲しみと痛みの中に方々に主からの慰めと励ました与えられる ように。&lt;br /&gt;今も懸命に救助活動に励んでおられる方々が主に守られるよう に。私たちの教会の青年会のメンバーの藤村拓兄（東京消防隊 員）は東京消防庁の緊急援助隊として大きな被害を受けた宮城 県気仙沼の現地に14日(月)～19日(土)まで派遣され救援活動に 従事し、帰任した。礼拝で、クリスチャンの消防士としての証 を今朝の礼拝で分かち合ってくれた。&lt;br /&gt;また今朝、教会の皆さん、未信者の皆さまも沢山の救援物資を 持参して礼拝に来られました。段ボール35個の救援物資を車2 台で届けました。私たちにできることを精一杯協力していきま しょう。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;被災された方々は、いったいどれほど、多くの涙、痛みがそこ にあるでしょうか？&lt;br /&gt;人が生きるということは、悲しみや苦しみ、痛みや傷を避ける ことはできません。それはどのようにしていやされるのでしょ うか？  &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１． 　人は、誰も、痛み傷つきます。  &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ここに１つの詩があります。相田みつをさんの詩集「人間だも の」の中の「つまずいたおかげで」という詩です。  　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;＜つまずいたおかげで＞&lt;br /&gt;&lt;br /&gt; つまずいたり　ころんだり　したおかげで　　 物事を深く考えるようになりました。 あやまちや　失敗を繰り返したおかげで　　 少しずつだが人のやることを　 暖かい目で見られるようになりました &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;何回も追いつめられたおかげで　 人間として自分の弱さとだらしなさを　 嫌というほど知りました &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;だまされたり　裏切られたりしたおかげで　 鹿正直で親切な人間の暖かさも　知りました そして・・・　身近な人の死に逢うたびに　 人の命のはかなさと&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;今ここに　生きている事の尊さを　 骨身にしみて味わいました  人のいのちの尊さを　骨身にしみて味わったおかげで 人のいのちを　ほんとうに大切にする　 本物の人間に　裸で逢う事ができました &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;一人の　ほんものの人間にめぐり逢えたおかげで　 それが縁となり&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;次々に　沢山のよい人たちに　めぐり逢うことができました だから　わたしのまわりにいる人たちは　 みんなよい人ばかりなんです」 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;このような詩です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;誰でも、思い出されることでしょう。 人生の歩みの長い短いには関係なく、つまずき、転び、傷つい た過去の出来事。失敗や過ちを繰り返して私たちは成長してき ました。でも、どうしても忘れられない、許すことのできない 過去というのもあるでしょう。 今だに、想い出す度に、胸の奥がギュツと痛むという傷を抱え でいらしゃる方もおられるかも知れません。 　  &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２．　人の痛み、傷はどうのように癒されるのでしょうか？  ここに短大を卒業したA子さんがいます。 彼女は結婚しました。&lt;br /&gt;ここに来るまでには色々なことがありました。その最大の事は 妹でした。&lt;br /&gt;妹さんは脊髄性の小児マヒ。両親は男の子が欲しいと希望した のですが、体の不自由な女の子が生まれました。錯乱状態にま で苦悩した両親は幼いA子さんにも八つ当たりしてきました。&lt;br /&gt;　両親と同じようにA子さんにとっても妹は邪魔者でありまし た。中学生の思春期の時、美術クラブの先輩の男子生徒から「 おまえの妹をモデルにしたら面白い絵が描けるナアー」って、 みんなの前でからかわれました。バレンタインのチョコまで贈 った相手だけに、ショックが大きく決定的に傷つきました。彼 への怒りはやがて妹への憎しみと両親への恨みに変わっていた のです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt; 「Kちゃんだって神様からいただいた人なんだよ。」とお母さ んは言いましたが、普段、信仰には縁遠い母が神を語ることに 理解に苦しんだそうです。&lt;br /&gt;　高校生の時、ダウン症の弟を持つ友達と親しくなり、今まで は自分だけが「世界で一番惨めな人間だ」と決めつけていまし たが、不幸な人はたくさんいることを知ります。やがて短大に 進学し、交通事故でご主人を亡くされたおばさんの家に下宿す るようになります。このおばさんに誘われて教会に出席するよ うになりました。でも、どうしてもイエス・キリストが十字架 に架かられた意味が分かりませんでした。&lt;br /&gt; クリスマスにおばさんから神谷恵美子さん（ハンセン氏病の患 者さんに生涯仕えられたクリスチャン医師）の本「こころの旅 」をプレゼントされました。それを機会に彼女は神谷さんの著 作集を読み、１つの詩を読んだとき、目が一点に集中し、体中 が金縛りにあったようになりました。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それは神谷美恵子さんが初めてハンセン氏病患者に出会った時 の体験を書いた詩でした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「なぜ、わたしたちではなく、あなたが、 　　あなたは代わってくださったのだ。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;神谷さんは自分と目の前にいる病気の人を見つめ、この悲劇 をなぜ、あなたが背負い、私はこのように健康なのか。そうだ 、あなたが代わって下さったのだ。その詩を前に、A子さんの 体はわなわなと震えました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　運命は紙一重です。なぜ、妹が小児マヒになり、この私がな らなかったのか。私がなっていたのかも知れない。　 叔父さんの交通事故でA子さんのお父さんは安全運転に心がけ るようになりました。大きい小さいは別にして、一家の中で誰 かがみんなのために代わってくれていることがある。社会の中 でもそうだ。誰かが代わりになっている。いじめによる子供の 自殺はみんなの警鐘となり、反省を与えています。私たちは飢 えを知りませんが、アジア、アフリカの子供たちの飢餓の実態 から飢餓を知り、自分たちがいかに恵まれているかを知ります 。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt; 　A子さんは、何気なくタンスか短大の卒業式に着る着物を取 り出しました。着物と妹の顔がダブつきました。妹はこの着物 と袴を着て卒業式に出ることはできない。　 その時に、カアッと彼女の目が開かれました。 　  　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;イエス・キリストが十字架に架かられた姿が彼女の心の中に 飛び込んできたのです。「ああ、あのお方は私の罪の身代わり として十字架の刑について下さったのだ。 妹など死んでしまったほうがいい、どこかに消えてしまえ。」 そんな考えばかり、ずうっと持ち続けてきた己の罪深さをどう することもできない自分を知りました。 イエス・キリストはこの私の罪を許すために代わって十字架の 刑に架かられたのだ。こうして彼女は心の傷が癒され、家族み んなが教会に通うようになりました。  &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;３．人は、イエス様の十字架によって癒され、救われる。  　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見 出されませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦し められても、おどすことをせず、正しく裁かれる方にお任せに なりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその 身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生 きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなた方は癒され たのです。」 （新約聖書、第一ペテロの手紙　２章２２〜２４節）  　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;イエス様の十字架によって、あなたの痛みと傷は、いやされ るのです。 イエス様の十字架を信じる信仰によって救われます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;被災された方々が、主のいやしと救いにあずかれるように祈り ましょう。 被災された教会とクリスチャンの兄弟姉妹が、主の愛と希望を 届けることができるように祈りましょう。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;主よ感謝します。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/21132095-1003154786198512163?l=katayanagi-efc-message.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/1003154786198512163'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/1003154786198512163'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://katayanagi-efc-message.blogspot.com/2011/03/blog-post_22.html' title='心の癒しと救い'/><author><name>ハレルヤ</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-21132095.post-8033968875149397144</id><published>2011-03-15T11:39:00.002+09:00</published><updated>2011-03-15T11:48:42.578+09:00</updated><title type='text'>神はわれらの避け所、また力である</title><content type='html'>２０１１年３月１３日&lt;br /&gt;聖書：詩篇 ４６篇１～１１節&lt;br /&gt;説教：滝田新二牧師&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;指揮者のために。コラの子たちによる。アラモテに合わせて。 歌 46:1&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある 助け。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;46:2 それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々 が海のまなかに移ろうとも。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;46:3 たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさ が増して山々が揺れ動いても。セラ&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;46:4 川がある。その流れは、いと高き方の聖なる住まい、神 の都を喜ばせる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;46:5 神はそのまなかにいまし、その都はゆるがない。神は夜 明け前にこれを助けられる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;46:6 国々は立ち騒ぎ、諸方の王国は揺らいだ。神が御声を発 せられると、地は溶けた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;46:7 万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれ らのとりでである。　セラ&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;46:8 来て、主のみわざを見よ。主は地に荒廃をもたらされた 。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;46:9 主は地の果てまでも戦いをやめさせ、弓をへし折り、槍 を断ち切り、戦車を火で焼かれた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;46:10 「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国 々の間であがめられ、地の上であがめられる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;46:11 万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれ らのとりでである。　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;セラ    序．3月11日　午後2時46分、マグニチュード9.0の大地震が東 日本の太平洋沿岸の地域を襲った。 多数の亡くなられた方々、行方不明の方々、怪我をされた方々 、震災で被災された大勢の方々、そのご家族の慰めと励ましを 祈ろう。 また、今も懸命に救援活動されている方々の尊い働きが摩おら れるように祈ろう。 私たち教会の青年(藤村　拓兄）が、東京消防庁の緊急救援隊 として仙台に派遣された、彼の働きのためにも祈ろう。 私たちの人生には、突然の災害や試練や苦しみ遭ったりとき、 主が避け所となってくださるという約束のことばが今朝の御言 葉である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１節の「避け所」は「避難所・シェルター」で、主は私たちに とって最も安全な逃込む場所である。また「力」は元々「砦・ 城壁」であり、積極的に敵を滅ぼすことのできる力を意味する 。どのようにして、イエス様を信じる者にとって主が「避け所 」「力」となって下さるのか？　主にあって勝利できるのか？ 御言葉を受けよう！ &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;第１は、「恐れない」　（恐れから解放される　1～3節）  詩人はこの地上でどんなことが起こっても恐れないと告白する 。　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１節の「苦しむとき」、それは国家存亡の苦難の時を意味する 。この詩篇の背景の出来事はBC701年、南王国ヒゼキヤ王の時 代、アッシリアの王セナケリブによるエルサレム攻撃という国 家存亡の危機。（Ⅱ列王記18～20章）預言者イザヤの主の御言 葉通りに、主は一夜にしてアッシリアの大軍18万5千人を撃た れた。　主の奇跡的な救いと勝利であった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ローマ8章31節「 神が私たちの味方であるなら、だれが私たち に敵対できるでしょう。」  &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;第２は、　「揺るがない」　　(4～7節） &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;2～3節で、不動の象徴である山々が揺らぎ，海の中に移るよう な前代未聞の出来事（地震や自然災害等)に遭遇しても「決し て恐れない」と信仰告白できるのは、主の守りと導きを体験し た者の恵みである。 「川や大河」は主の豊かな恵みと守りの象徴である。　　「わ たしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありま せん。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の いのちへの水がわき出ます。」（ヨハネ４：１４）と、イエス 様はサマリヤの女にご自分こそがいのちの水・川であると言わ れた。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１１節「万軍の主」とは、地上の超大国よりも、主なる神こ そが世界最強である。その万軍の主が私たちと共におられると は、まさに恐れるものが何もない。「見よ。私は世の終わりま であなたがたとともにいます」(マタイ28:20)と言われたイエ ス様は、インマヌエルの神である。何と素晴らしい約束だろう か。困難や試練の只中にあっても、私たちの人生は揺らぐこと がない。否、人生ばかりでなく、あなたの家庭も、教会も揺ら ぐことがない。　あなたは主という避け所である分厚い強力な 核シェルターの中に守られている。どんなに槍や弓や砲弾が飛 んできても届かない、高い城壁に囲まれている。  &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;第３は、　「静まること(祈り)」　　(8～11節)  １０節「やめよ。わたしこそ神であることを知れ」の「やめよ 」とは「力を抜け、手を下ろせ」という意味で、武装解除の命 令である。これは、主に信頼すること。主の前に静まること、 つまり「祈り」である。　　　　　　　　　　　　　　　　　 　　　　　　　　 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;結 論： どんな時も、主を「避け所・わが力」としよう！ &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;①「主を避け所とする」人は、主を信頼し、主の中に入ってい つも留まる人です。  言い換えれば、いつも主の臨在の中に入って留まる、みことば に留まり、いつも聖霊に満たされ、主の平安と勝利を受ける人 です。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;② 主の再臨に備えよう！  マタイ24章４～14節　　 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;24:4 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わさ れないように気をつけなさい。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;24:5 わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私こそキリスト だ』と言って、多くの人を惑わすでしょう。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;24:6 また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、 気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こる ことです。しかし、終わりが来たのではありません。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;24:7 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にき きんと地震が起こります。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;24:8 しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めな のです。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;24:9 そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺 します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国 の人々に憎まれます。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;24:10 また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏 切り、憎み合います。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;24:11 また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わ します。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;24:12 不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなり ます。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;24:13 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;24:14 この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての 国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この地震を体験し、再び、世の終わりがあることと、救い主イ エスさまを信じ、救いを受けましょう。 そして、再臨への備えを受けましょう  主こそ、私たちの避け所、また力です。 「もう駄目だ。」「もう絶えられない」という時、あなたの主 が来て下さるのです。人生の谷間に落とされる時も、万軍の主 が共にいて下さり、そこに花を咲かせ、光をあてて下さるので す。そして、その時、主こそがあなたの主であり、避け所、と りで、力であることを知るのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt; 主よ、感謝します。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/21132095-8033968875149397144?l=katayanagi-efc-message.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/8033968875149397144'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/8033968875149397144'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://katayanagi-efc-message.blogspot.com/2011/03/blog-post_15.html' title='神はわれらの避け所、また力である'/><author><name>ハレルヤ</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-21132095.post-6522096248949996793</id><published>2011-03-06T20:43:00.003+09:00</published><updated>2011-03-06T20:48:14.880+09:00</updated><title type='text'>４つの土地と実を結ぶ人生の秘訣</title><content type='html'>&lt;span style="color: rgb(255, 204, 102);"&gt;～あなたのたましいを耕そう～&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２０１１年３月６日&lt;br /&gt;聖書：マタイの福音書１３章１〜９節&lt;br /&gt;説教：滝田新二牧師&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;1.その日、イエスは家を出て、湖のほとりにすわっておられた 。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;2.すると、大ぜいの群衆がみもとに集まったので、イエスは舟 に移って腰をおろされた。それで群衆はみな浜に立っていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;3.イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。 「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;4.蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来 て食べてしまった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;5.また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったの で、すぐに芽を出した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;6.しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまっ た。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;7.また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふ さいでしまった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;8.別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十 倍、あるものは三十倍の実を結んだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;9.耳のある者は聞きなさい。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;序.「種まきのたとえ話」より、私たちの人生において実を結 ぶ秘訣について、主の御言葉を受けよう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;種とは、神の御言葉である。４つの畑とは、御言葉を聞く私た ちの心・たましいである。（参照：マタイ13:20） &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１. 第１番目は、道ばたに蒔かれた種である　（３〜４ 節） 　 　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;４節「蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると 鳥が来て食べてしまった」 人々に踏みつけられた、固い土地である道ばたとは、どのよう な人の心であるのか？　 心を閉ざしてしまった人のことである。主イエス様に躓く、あ るいはクリスチャンに躓く。そして御言葉や信仰に心を閉ざし 、もう不必要と思い。「馬耳東風」決して心を開かない、御言 葉が入り込まない心、霊が閉ざされた状態である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２. 第２番目は、岩地に蒔かれた種である　（５〜６節 ）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;自分で物事を考え判断できない人、浅薄な人。若者を表現し て「読まない・書かない・考えない」三無主義というが、最近 はゲームやネットの影響「感じない」をつけ加えて、四無主義 と言われる。 大学受験もネットでカンニングする時代である。ただ与えられ たものを受けるだけ、物事を考える余地がない心、たましいで ある。霊的な事に無関心で、固く閉ざされた心・たましいの状 態である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;３. 第３番目は、いばらの中に蒔かれた種である　（７節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２２節「みことばを聞きますが、この世の心遣いと富のま どわしとが御言葉を塞いでしまうために実を結ばない人」様々 な事に関心を持っているが、焦点がズレていて、的外れの人。 世の富や罪の誘惑に惑わされて、何が一番大切なのか、ベスト なのかという優先順位を選び取ることのできな人である。霊的 な事に心が開かれていない人である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;４. 第４番目は、良い地に蒔かれて実を結ぶ種である　（８〜 ９節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;良い地とはどのような地か？ よく耕された良い土地など初めからあるものではない。はじめ 土地は、道ばたのように踏みつけられた固い土地であったり、 岩のように石ころごろごろ、イバラや雑草などな生い茂った木 の根っこだらけの土地である。それを端正に時間をかけ、土地 を耕し、石を拾い、雑草を抜いて、良い土地になる。良い地に 種が蒔かれると必ず１００倍、６０倍、３０倍の実を結ぶので ある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;まとめ：実を結ぶ人生の秘訣（悪い地が良い土地となるために） &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;①「みことばを聞いて、イエス様を信じる」（２３節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;罪を悔い改めて、イエス様を救い主として心にお迎えする。良 い土地になるとは、絶えず礼拝の恵みを求める。毎日聖書の御 言葉を読み祈る中で成されていく。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;②「みことばを喜んで受け入れ、イエス様に従う」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;良い地に蒔かれた人は、いつも心を開いて学ぼうとする姿勢 を持っている人のことである。 例話ー１　神学校時代の先生が「あなた方が将来、神様に用い られる人になりたければ、教えられやすい人になりなさい。」 と教えて下さった。私たちの信仰の生涯も同じである。教えら れやすい体質、学ぼうとする姿勢があれば、必ず祝福される。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;③ 「あなたの心・霊（たましい）を耕す」 　（悪い地が良い地に変えられて実を結ぶ）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;④ 「謙遜な心となる」  「神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる」 （ヤコブ4章6節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;心が悟るためには、時間のかかる。種は目に見える早さで育っ たりしない。ゆっくりとじわじわと成長する。ちょっとかじっ て、わかったかとかわからないとか、良いとか良くないとかす ぐ判断をくだすような身勝手な早急さ（悪い土地）では種は育 たない。自分が神の言葉を判断するのではなくて、神の言葉に よって自分が造られる、十分な時間を持つ心が、良い土地を作 る。 人が救われるのも同じである、神の御言葉（種）にはい のちがあるので、蒔かれた種は、いつか必ず芽を出し、花を咲 かせ、３０倍、６０倍、１００倍の実を結ぶのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;例話－２：ライフ・シャワーズの奇跡の人生&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;主よ、感謝します。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/21132095-6522096248949996793?l=katayanagi-efc-message.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/6522096248949996793'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/6522096248949996793'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://katayanagi-efc-message.blogspot.com/2011/03/blog-post.html' title='４つの土地と実を結ぶ人生の秘訣'/><author><name>ハレルヤ</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-21132095.post-5594844912509181835</id><published>2011-02-28T21:56:00.001+09:00</published><updated>2011-02-28T22:01:55.900+09:00</updated><title type='text'>イエス様に認められた人々</title><content type='html'>２０１１年２月２７日&lt;br /&gt;聖書:マルコの福音書 ２章１～１７節&lt;br /&gt;メッセンジャー：JOIN　上野 有　氏&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;1.数日たって、イエスがカペナウムにまた来られると、家にお られることが知れ渡った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;2.それで多くの人が集まったため、戸口のところまですきまも ないほどになった。この人たちに、イエスはみことばを話して おられた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;3.そのとき、ひとりの中風の人が四人の人にかつがれて、みも とに連れて来られた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;4.群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、その 人々はイエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、 中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;5.イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの 罪は赦されました」と言われた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;6.ところが、その場に律法学者が数人すわっていて、心の中で 理屈を言った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;7.「この人は、なぜ、あんなことを言うのか。神をけがしてい るのだ。神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう。 」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;8.彼らが心の中でこのように理屈を言っているのを、イエスは すぐにご自分の霊で見抜いて、こう言われた。「なぜ、あなた がたは心の中でそんな理屈を言っているのか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;9.中風の人に、『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起き て、寝床をたたんで歩け』と言うのと、どちらがやさしいか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;10.人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなた がたに知らせるために。」こう言ってから、中風の人に、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;11.「あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰り なさい」と言われた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;12.すると彼は起き上がり、すぐに床を取り上げて、みなの見 ている前を出て行った。それでみなの者がすっかり驚いて、「 こういうことは、かつて見たことがない」と言って神をあがめ た。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;13.イエスはまた湖のほとりに出て行かれた。すると群衆がみ な、みもとにやって来たので、彼らに教えられた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;14.イエスは、道を通りながら、アルパヨの子レビが収税所に すわっているのをご覧になって、「わたしについて来なさい」 と言われた。すると彼は立ち上がって従った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;15.それから、イエスは、彼の家で食卓に着かれた。取税人や 罪人たちも大ぜい、イエスや弟子たちといっしょに食卓に着い ていた。こういう人たちが大ぜいいて、イエスに従っていたの である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;16.パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たち といっしょに食事をしておられるのを見て、イエスの弟子たち にこう言った。「なぜ、あの人は取税人や罪人たちといっしょ に食事をするのですか。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;17.イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必 要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人 を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」  &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;序．イエス様の公生涯初期の出来事から２つの場面を取り上げ ます。どちらの場面にも、イエス様に認められた人、その人に 対して応答するイエス様、そのイエス様の応答につぶやく律法 学者の３者が登場します。その中からイエス様に認められた人 はどのような人々であったかということに焦点をあてて、御言 葉を聞きたいと思います。  &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１．男たちの、深く熱い友情 （1-12節）  &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;中風を患った友達を運んで来る４人の男の話です。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;①４人の男たちが、病気の友達を運んで来たのには、どのよう な苦労があったのでしょうか？　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;②屋根を破って吊りおろすという、奇想天外な行動に出た理由 は何だったのでしょうか？&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;③イエスさまは、彼らの何を見て「信仰」と認めて下さったの でしょうか？ &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;［結論と適応］ &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;イエス様は、４人の男たちの深く熱い友情を見て、彼らの行い を「信仰」と認め、病気の男に罪の赦しを宣言しました。私た ちの信仰は、愛のある行いを伴ったものでしょうか。当時の律 法主義の世界のように、信仰が形ばかりの本質を見失ったもの となっていないでしょうか。   &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２．呼ばれた男の応答 （13-17節）  &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;福音書の著者でもあるマタイ（レビ）が、イエスさまの弟子と して招かれる場面です。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;①イエスさまに目を留められたマタイはどんな人物であったの でしょうか？&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;②「何もかも捨ててイエスさまに従おう！」と、彼を動かした ものは何だったのでしょうか？&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;③マタイが自宅を開放して行ったパーティーには、どのような 意味があったのでしょうか？ &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;［結論と適応］ &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;イエスさまは、罪人の代表だと考えられていた取税人マタイを 認め、選びました。「罪人である私を選んで下さった！」その 事実に喜び、感動したマタイは、すぐさま自分にできる伝道を 行いました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;イエス様が、罪人である私に下さった愛の深さ、恵みの大きさ を知る時、私たちは感動せずにはいられません。 その喜びと感動を忘れなければ、私たちの人生は、イエスさま の喜ばれる働きを求める人生と変えられていきます。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/21132095-5594844912509181835?l=katayanagi-efc-message.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/5594844912509181835'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/5594844912509181835'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://katayanagi-efc-message.blogspot.com/2011/02/blog-post_28.html' title='イエス様に認められた人々'/><author><name>ハレルヤ</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-21132095.post-6214949501185529260</id><published>2011-02-20T16:57:00.004+09:00</published><updated>2011-02-22T13:55:41.064+09:00</updated><title type='text'>私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む</title><content type='html'>&lt;span style="COLOR: rgb(255,204,102)"&gt;～荒野での信仰の試練の中で～&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２０１１年２月２０日&lt;br /&gt;聖書：詩篇６２篇１～１２節&lt;br /&gt;説教：滝田新二牧師&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;指揮者のために。エドトンによって。ダビデの賛歌&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;1．私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;2.神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私は決して、ゆるがされない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;3.おまえたちは、いつまでひとりの人を襲うのか。おまえたちはこぞって打ち殺そうとしている。あたかも、傾いた城壁か、ぐらつく石垣のように。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;4.まことに、彼らは彼を高い地位から突き落とそうとたくらんでいる。彼らは偽りを好み、口では祝福し、心の中ではのろう。　セラ&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;5.私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;6.神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私はゆるがされることはない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;7.私の救いと、私の栄光は、神にかかっている。私の力の岩と避け所は、神のうちにある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;8.民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。　セラ&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;9.まことに、身分の低い人々は、むなしく、高い人々は、偽りだ。はかりにかけると、彼らは上に上がる。彼らを合わせても、息より軽い。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;10.圧制にたよるな。略奪にむなしい望みをかけるな。富がふえても、それに心を留めるな。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;11.神は、一度告げられた。二度、私はそれを聞いた。力は、神のものであることを。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;12.主よ。恵みも、あなたのものです。あなたは、そのしわざに応じて、人に報いられます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;序．ダビデは、サウル王に憎まれ、命を狙われ、ユダの荒野を１０年間も彷徨った。荒野の試練の中での信仰の告白のまとめである。人生の試練の中で、どこに希望と救いがあるのか？　主の御言葉を受けよう！&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１．「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む」(1～4節)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ダビデは「ただ神を待ち望む」という信仰に立っている。「ただ」とは、主のみに信頼して、人間的な一切の力を捨てて、ひたすら心を主に向け、主だけに救いを求めている姿を示している。&lt;br /&gt;「黙って」とは、①呟かない・文句を言わない。②悪あがきをしない。&lt;br /&gt;詩篇131:2乳飲み子は、母親が目の前にいることに満足して、沈黙していることができる。&lt;br /&gt;神の御前で沈黙することは、神への信頼、最高の愛の表現である。(参照：イザヤ57:20・詩篇16:10)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２．「私の望みは神から来る」（５～７節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ダビデは、サウル王や軍の攻撃の中で、6節「神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私はゆるがされることはない。」と告白した。その秘訣は、たましいに「沈黙せよ」と命じること。&lt;br /&gt;様々な思いが湧き起こっても、川の流れのように、ただ受け流す。&lt;br /&gt;そして「主よ、あわれんでください。主よ感謝します。」（ギリシャ語でキリエ・エレーソン）と繰り返えす。&lt;br /&gt;沈黙の中で、たましいは、自分の願望から自由になり、主からの望みを「私の望み」とするように変えられる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;３．「心を 神の御前に注ぎ出せ」（８～11節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ダビデは、実体験を踏まえて、「民よ。どんなときにも、神に信頼せよ」(8節)しかも、「あなたがたの心を、神の御前に注ぎ出せ」と勧める。実は、「注ぎ出す」とは、「空にする」の意味で、沈黙とは矛盾しない。&lt;br /&gt;神への沈黙は、感情に蓋をすることではない。湧きあがった不安や怒りや悲しみを、主にささげるなら、感情の嵐はしだいに落ち着く。こうして、あなたは８節「神は、われれらの避け所である」&lt;god&gt;」と呼びかける者に変えられる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;例話①：「安全ベルトを忘れた空軍パイロット」　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　主こそ、あなたの人生の避け所であり、城壁であり、力である。　&lt;br /&gt;9、10節は、人間に頼ることのむなしさを語っている。目に見える現実に心が奪われ、神の前に静まることを素通りすると、人の顔色ばかりを気にする人間の奴隷になってしまう。　&lt;br /&gt;「力は、神のもの」(11節)と、目に見える力の背後におられる主に目を向けよう！　&lt;br /&gt;あなたが日々生かされて、信仰を全うできるのは、いついかなる時も、神の恵みによって守られているからである。「あなたこそは、報いてくださる方」とあるように、この世に不条理があっても、主は、最終的にそれらを正し、あなたの人生を完成してくださる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;結　論：ただ黙って、主に向かい、主に従順しよう！&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;例話②：「信仰には、サル式信仰と猫式信仰」がある。&lt;br /&gt;あなたはどちらだろうか？ 私たちの信仰は、サル式ではなく、猫式である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;イザヤ書４６章３～４節「胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;母猫が子猫をしっかりくわえて離さないように、主はあなたの信仰を守り、あなたを見捨てずに、永遠に、天国にまで導いて下さる。&lt;br /&gt;あなたも、ダビデが「ただ黙って」ひたすらに主を信頼したように、主に従順しよう！　　　　　　　　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;主よ、感謝します。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/god&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/21132095-6214949501185529260?l=katayanagi-efc-message.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/6214949501185529260'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/6214949501185529260'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://katayanagi-efc-message.blogspot.com/2011/02/blog-post_20.html' title='私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む'/><author><name>ハレルヤ</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-21132095.post-8770055341640030277</id><published>2011-02-14T20:11:00.003+09:00</published><updated>2011-02-14T20:40:23.111+09:00</updated><title type='text'>善をもって悪に打ち勝つ</title><content type='html'>２０１１年２月１３日&lt;br /&gt;聖書：第１サムエル記　２４章１～２２節&lt;br /&gt;説教：滝田新二牧師&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;1. サウルがペリシテ人討伐から帰って来たとき、ダビデが今、エン・ゲディの荒野にいるということが知らされた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;2. そこでサウルは、イスラエル全体から三千人の精鋭をえり抜いて、エエリムの岩の東に、ダビデとその部下を捜しに出かけた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;3. 彼が、道ばたの羊の群れの囲い場に来たとき、そこにほら穴があったので、サウルは用をたすためにその中に入った。そのとき、ダビデとその部下は、そのほら穴の奥のほうにすわっていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;4. ダビデの部下はダビデに言った。「今こそ、主があなたに、『見よ。わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。彼をあなたのよいと思うようにせよ』と言われた、その時です。」そこでダビデは立ち上がり、サウルの上着のすそを、こっそり切り取った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;5.こうして後、ダビデは、サウルの上着のすそを切り取ったことについて心を痛めた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;6.彼は部下に言った。「私が、主に逆らって、主に油そそがれた方、私の主君に対して、そのようなことをして、手を下すなど、主の前に絶対にできないことだ。彼は主に油そそがれた方だから。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;7．ダビデはこう言って部下を説き伏せ、彼らがサウルに襲いかかるのを許さなかった。サウルは、ほら穴から出て道を歩いて行った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;8 その後、ダビデもほら穴から出て行き、サウルのうしろから呼びかけ、「王よ」と言った。サウルがうしろを振り向くと、ダビデは地にひれ伏して、礼をした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;9.そしてダビデはサウルに言った。「あなたはなぜ、『ダビデがあなたに害を加えようとしている』と言う人のうわさを信じられるのですか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;10.実はきょう、いましがた、主があのほら穴で私の手にあなたをお渡しになったのを、あなたはご覧になったのです。ある者はあなたを殺そうと言ったのですが、私は、あなたを思って、『私の主君に手を下すまい。あの方は主に油そそがれた方だから』と申しました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;11. わが父よ。どうか、私の手にあるあなたの上着のすそをよくご覧ください。私はあなたの上着のすそを切り取りましたが、あなたを殺しはしませんでした。それによって私に悪いこともそむきの罪もないことを、確かに認めてください。私はあなたに罪を犯さなかったのに、あなたは私のいのちを取ろうとつけねらっておられます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;12.どうか、主が、私とあなたの間をさばき、主が私の仇を、あなたに報いられますように。私はあなたを手にかけることはしません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;13.昔のことわざに、『悪は悪者から出る』と言っているので、私はあなたを手にかけることはしません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;14.イスラエルの王はだれを追って出て来られたのですか。あなたはだれを追いかけておられるのですか。それは死んだ犬のあとを追い、一匹の蚤を追っておられるのにすぎません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;15.どうか主が、さばき人となり、私とあなたの間をさばき、私の訴えを取り上げて、これを弁護し、正しいさばきであなたの手から私を救ってくださいますように。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;16.ダビデがこのようにサウルに語り終えたとき、サウルは、「これはあなたの声なのか。わが子ダビデよ」と言った。サウルは声をあげて泣いた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;17.そしてダビデに言った。「あなたは私より正しい。あなたは私に良くしてくれたのに、私はあなたに悪いしうちをした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;18.あなたが私に良いことをしていたことを、きょう、あなたは知らせてくれた。主が私をあなたの手に渡されたのに、私を殺さなかったからだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;19.人が自分の敵を見つけたとき、無事にその敵を去らせるであろうか。あなたがきょう、私にしてくれた事の報いとして、主があなたに幸いを与えられるように。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;20.あなたが必ず王になり、あなたの手によってイスラエル王国が確立することを、私は今、確かに知った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;21.さあ、主にかけて私に誓ってくれ。私のあとの私の子孫を断たず、私の名を私の父の家から根絶やしにしないことを。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;22.ダビデはこれをサウルに誓った。サウルは自分の家へ帰り、ダビデとその部下は要害へ上って行った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;序．この２４章は、第１サムエル記の中で、最も劇的な場面である。第１サムエル記は、イスラエルが王国となり、最初に立てられた王サウルが主のみ心に適わずに堕落していき、代ってダビデが王となって発展し、繁栄していったことを描いている。　王権がサウルからダビデに移った事情を語っている。サウルからダビデへの王権の継承は円滑に行った訳ではない。サウルは、自分の王権に固執し、ダビデを、自分の地位を脅かす者として憎み、その命をつけ狙った。両者の対立、葛藤の中で起った最も劇的で感動的なな場面である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１．サウルと遭遇したダビデ　（２４：１～２）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ダビデは、サウル王に妬まれ命を狙われて、10年に渡りユダの荒野を彷徨う。サウルは３千の精鋭を率いて、死海のほとりエン・ゲディの荒野に追撃して来た。隠れていたダビデは、トイレのために入った洞窟でサウルと偶然に遭遇する。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２．サウルを殺さなかったダビデ　（２４：３～２２）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;サウルはその洞窟にダビデと供の者たちがいることを知らない。&lt;br /&gt;サウルがそこに入ってきたのは、３節にあるように、「用を足すため」であった。それは、「トイレのため」ということである。何も知らずに用をしているサウル。ダビデの部下たちは、「今こそ、サウルを殺す、主が与えた千載一遇のチャンス」と進言するが、ダビデは「主に油そそがれた方、私の主君に対して、手を下すなど、主の前に絶対にできないことだ。」と言って手をかけようとはしなかった。　ダビデは、サウルの後ろから呼びかけて、「私はあなたの上着のすそを切り取りましたが、あなたを殺しはしませんでした。それによって私に悪いこともそむきの罪もないことを、確かに認めてください。私はあなたに罪を犯さなかったのに、なぜ、あなたは私のいのちを取ろうとつけねらうのですか」と語る。サウルはこれを聞くと声をあげて泣いた。これは感動的な場面である。　サウル王は、自分はダビデに悪意をもっていたがダビデは自分に善意を尽くしたことを悟った。そしてダビデが自分に代って王となることを、サウルは認め受け入れた。　本来ならば、これでハッピーエンドになるところだが、実際は違う。　同じことが、２６章でも繰り返されたのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;結論：「善をもって悪に打ち勝ちなさい」　（ローマ１２章１７～２１節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;17.だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;18.あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ち。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;19.愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;20.もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;21.悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。ダビデは、悪をもって悪に返すことをせず、自分で復讐をするのではなくて、主に任せた。　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ダビデは悪に負けることなく、善をもってサウルに対した。ダビデこそ王に相応しいという資質を示した。しかし、悪に対して善を行なえば、必ず報われるという約束はない。実際に、サウルは後悔しても、悔い改めず、和解してダビデに王位を譲ることもしなかった。それでも、ダビデはサウルに対して、最後まで「善をもって悪に勝つ」ことができたのは、なぜか？　サウルが主君であり王であるのは、主が油を注がれたからである。ダビデ自身も、同じ油注ぎを受け、王となる者として選ばれ、立てられた。しかし、今はまだサウルが王位にある。それは、主がサウルに油を注がれた、その御心がまだ生きている。ダビデは、その神の御心を尊重し、御心に従うから、サウルを殺さなかった。もし、サウルを殺して自分が王になれば、自分の力で王位を奪ったことになる。主が、しかるべき時に、しかるべき方法でお立てになる、その神の時を待つことが大事なのである。　だから、ダビデがサウルの悪に対して善をもって勝利したのは、彼の善意や優しい心からではない。主のみ心を尊重し、主に自分のことを委ねる信仰によったのである。善をもって悪に対し続ける事には、苦しみが伴う。しかし、主イエス様が、あなたのために、苦しみと死とを引き受けて下さったゆえに、主のみ心に身を委ねて生きる時に、私たちもダビデと共に、善をもって悪に勝つために苦しみを引き受ける者となる。こうして、最終的には、私たちに、本当の勝利ある人生が与えられるのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;主よ、感謝します。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/21132095-8770055341640030277?l=katayanagi-efc-message.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/8770055341640030277'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/8770055341640030277'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://katayanagi-efc-message.blogspot.com/2011/02/blog-post.html' title='善をもって悪に打ち勝つ'/><author><name>ハレルヤ</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-21132095.post-920883162785370940</id><published>2011-01-30T16:22:00.005+09:00</published><updated>2011-01-31T11:02:37.950+09:00</updated><title type='text'>教会の多様性と一体性</title><content type='html'>２０１１年１月３０日&lt;br /&gt;聖書：第 Iコリント人への手紙１２章１２～３１節&lt;br /&gt;説教：滝田新二牧師&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;12.ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;13.なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;14.確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;15.たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;16.たとい、耳が、「私は目ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;17.もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;18.しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;19.もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;20.しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;21.そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うこともできません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;22.それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;23.また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;24.かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;25.それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;26.もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;27.あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;28.そして、神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇蹟を行なう者、それからいやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;29.みなが使徒でしょうか。みなが預言者でしょうか。みなが教師でしょうか。みなが奇蹟を行なう者でしょうか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;30.みながいやしの賜物を持っているでしょうか。みなが異言を語るでしょうか。みなが解き明かしをするでしょうか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;31.あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１. 多くの器官からなる教会　　（教会の多様性　１２：１２～１４）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;本日は第39回の年次総会が開催される。&lt;br /&gt;教会の総会は聖徒の交わりであり、主のビジョンを確認し、前進の備えの時である。&lt;br /&gt;パウロは教会を「キリストの体」と呼んでいる。12節「からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その部分が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。」（参照：14.20節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;人間の体が多くの器官と部分からなっているように教会も多くの器官からなっている。&lt;br /&gt;世界中に同じ人は一人もいない。クリスチャンもみな違う賜物を持っている。&lt;br /&gt;それぞれが教会のために役割を果たし相互依存している。教会はキリストの体で、神の家族である。&lt;br /&gt;誰も「あなたは、役に立たない人」と言って軽蔑されてはならないし、自分を「教会で役にたたない無用の人だ！」と思ってもならない。家族のひとりひとりが“大切で必要である”。そこに見事な一致がある。&lt;br /&gt;この一致は、体である教会の多様性から来る。教会は、様々な人々、多くの器官からなる体である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２.一つの体である教会　　　（教会の一体性　　１２：１３）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;13節「私たちはみな、ユダヤ人もギリシャ人も、奴隷も自由人も、一つのからだになるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。」　私たちは、主イエス様を救い主として信じ、心に迎え、洗礼を受け、聖霊の働きによる新生（新しい命に生れる）により、兄弟姉妹と一つとされ、一つの体である教会につながる者とされた。教会はイエス様を頭とする1つの体であり、霊的に１つである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;３.かけがえのない体である教会　　（手が尊い？　目が尊い？　１２：１５～２６）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;足が手をひがんで「私は手ではないから駄目なんだ」と言ってはならない。耳が目をひがんで「私は目ではないから」と言ってもならない。（15～17節）それぞれに大切な働きがある。&lt;br /&gt;教会には「足と耳の素晴らしい働き」がある。ローマ10:14～15「宣べ伝える人がなくて、どうして聞く事ができるでしょう。遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次ぎのように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」「口の人」が目立つが、伝道では「足や耳」が大きな働きをする。私たちは互いが大切な器官。（参照：21節）&lt;br /&gt;だから賜物が違う人を羨む必要もなく、また自分を卑下したり出し惜しみする必要もない。&lt;br /&gt;私たちは、お互いを必要とし、仕え愛し合う。その事をどれ程、自分が認識しているかが問われている。&lt;br /&gt;22節「それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私たちの教会には、障害を持った弱い人が多くいる。心や体の病、知的・身体・精神障害者もいる。それは共に苦しみ、共に喜び、いたわり合い、愛し合うためである。25～26節 「それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;例話：ルターはこの注解で「足が踏み付けられた時、指が挟まれた時に全身がどの様に反応するか考えてみなさい」と語っている。他の兄弟姉妹の悲しみや痛みをどれほど感じているだろうか？&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;今年は、小グループの生きた交わりを通して、相互牧会・相互ケア―のできる教会をめざそう。共に喜び、苦しみを共にする交わりを築こう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;まとめ：　キリストの体である教会をみんなで建て上げよう！（１２：２７～３１）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;18と28節は『神』が主語で始まっている。18節「神は備えた」と28節「神は任命した」は原語ギリシャ語では同じ言葉。主は、体に様々な器官を備えられたように、教会にも様々な働き人を任命された。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;第１に使徒（現代の牧師・宣教師）。&lt;br /&gt;第２に預言者（説教者・伝道者）。&lt;br /&gt;第３に教師（CS/JY教師・神学校教師）。&lt;br /&gt;第４に奇蹟を行なう者。&lt;br /&gt;第５にいやしの賜物を持つ者（祈りの人）。&lt;br /&gt;第６に助ける者（奉仕する・教会事務・会堂清掃・印刷など）。&lt;br /&gt;第７に治める者（執事・各会のリーダー）。&lt;br /&gt;第８に異言を語る者。　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;1～3は御言葉に関する働きをする人。教会は神の御言葉により土台が据えられ、御言葉により打ち建てられる。&lt;br /&gt;そして互いの賜物が本当に生かすのは“アガペーの愛”である。主は、私たちの片柳教会を通してご自分を示そうとしておられる。主は、不完全な教会や牧師、土の器である私たちを用いて主の愛と救いを、この世界に現そうとしている。教会のビジョン『地域に開かれた、誰でも安心できる教会』の実現のためにグループホームは宣教と隣人愛の小さな働きとして5年間運営されてきた。私たちの教会を主は用いている。　&lt;br /&gt;あなたにもできる主への奉仕がある。何もできないと思われても、祈り、献さげ、最後まで主にお仕えできる。&lt;br /&gt;私たちは2つの家族を持っている。霊の家族（教会）と肉の家族（家庭）である。初めから完璧な家族、夫婦、親子はありえない。地上の教会も不完全である。主はその傷ついた体を通してでも、やがて完璧にされるその約束を信じて従っていく時に、主は私たちを豊かに用いて下さる。２つの家族のために、みんなで主の体である教会を建て上げ共に信じて歩もう！&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;主よ、感謝します。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/21132095-920883162785370940?l=katayanagi-efc-message.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/920883162785370940'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/920883162785370940'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://katayanagi-efc-message.blogspot.com/2011/01/blog-post_30.html' title='教会の多様性と一体性'/><author><name>ハレルヤ</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-21132095.post-8937735188878782493</id><published>2011-01-25T20:41:00.003+09:00</published><updated>2011-01-27T16:07:59.763+09:00</updated><title type='text'>人生の荒野を旅する時も</title><content type='html'>２０１１年１月２３日&lt;br /&gt;聖書：第１サムエル記23章１～18節&lt;br /&gt;説教:滝田新二牧師&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;1. その後、ダビデに次のような知らせがあった。「今、ペリシテ人がケイラを攻めて、打ち場を略奪しています。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;2. そこでダビデは主に伺って言った。「私が行って、このペリシテ人を打つべきでしょうか。」 主はダビデに仰せられた。「行け。ペリシテ人を打ち、ケイラを救え。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;3. しかし、ダビデの部下は彼に言った。「ご覧のとおり、私たちは、ここユダにいてさえ、恐れているのに、ケイラのペリシテ人の陣地に向かって行けるでしょうか。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;4. ダビデはもう一度、主に伺った。すると主は答えて言われた。「さあ、ケイラに下って行け。 わたしがペリシテ人をあなたの手に渡すから。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;5. ダビデとその部下はケイラに行き、ペリシテ人と戦い、彼らの家畜を連れ去り、ペリシテ人を打って大損害を与えた。こうしてダビデはケイラの住民を救った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;6.アヒメレクの子エブヤタルがケイラのダビデのもとに逃げて来たとき、彼はエポデを携えていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;7.一方、ダビデがケイラに行ったことがサウルに知らされると、サウルは、「神は彼を私の手に渡された。ダビデはとびらとかんぬきのある町に入って、自分自身を閉じ込めてしまったからだ」と言った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;8.そこでサウルは民をみな呼び集め、ケイラへ下って行き、ダビデとその部下を攻めて封じ込めようとした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;9.ダビデはサウルが自分に害を加えようとしているのを知り、祭司エブヤタルに言った。「エポデを持って来なさい。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;10.そしてダビデは言った。「イスラエルの神、主よ。あなたのしもべは、サウルがケイラに来て、 私のことで、この町を破壊しようとしていることを確かに聞きました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;11.ケイラの者たちは私を彼の手に引き渡すでしょうか。サウルは、あなたのしもべが聞いたとおり下って来るでしょうか。イスラエルの神、主よ。どうか、あなたのしもべにお告げください。」&lt;br /&gt;主は仰せられた。「彼は下って来る。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;12.ダビデは言った。「ケイラの者たちは、私と私の部下をサウルの手に引き渡すでしょうか。」主は仰せられた。「彼らは引き渡す。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;13.そこでダビデとその部下およそ六百人はすぐに、ケイラから出て行き、そこここと、さまよった。ダビデがケイラからのがれたことがサウルに告げられると、サウルは討伐をやめた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;14.ダビデは荒野や要害に宿ったり、ジフの荒野の山地に宿ったりした。サウルはいつもダビデを追ったが、神はダビデをサウルの手に渡さなかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;15.ダビデは、サウルが自分のいのちをねらって出て来たので恐れていた。そのときダビデはジフの荒野のホレシュにいた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;16.サウルの子ヨナタンは、ホレシュのダビデのところに来て、神の御名によってダビデを力づけた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;17.彼はダビデに言った。「恐れることはありません。私の父サウルの手があなたの身に及ぶこと はないからです。あなたこそ、イスラエルの王となり、私はあなたの次に立つ者となるでしょう。 私の父サウルもまた、そうなることを確かに知っているのです。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;18.こうして、ふたりは主の前で契約を結んだ。ダビデはホレシュにとどまり、ヨナタンは自分の家へ帰った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;序．私たちは人生の荒野を旅することがある。&lt;br /&gt;ダビデは、サウル王に妬まれ、命を狙われて、ユダの荒野を10年間も彷徨う。&lt;br /&gt;ダビデの荒野の出来事を通して、私たちの信仰の目が開かれ主の救いの御業が見えるように御言葉を受けよう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１．荒野を逃げ惑うダビデ　(1～14節)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ダビデは、故郷ユダのケイラの町をペリシテの略奪から救うために、主に訊ね求めるが、部下は反対する。&lt;br /&gt;しかし、サウル王に居場所を知られるリスクを冒してイエス様の譬え話の「良きサマリヤ人」(ルカ10:30-34)のように助ける。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ルカ10:30-34 『良きサマリヤ人の譬え話』&lt;br /&gt;30.イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。&lt;br /&gt;強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。&lt;br /&gt;31.たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。&lt;br /&gt;32.同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。&lt;br /&gt;33.ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、&lt;br /&gt;34.近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;余裕のない時こそ、私たちは他者を助けるべきなのである。&lt;br /&gt;こうして、ケイラの町は救われましたが、ダビデは、再びサウルに追われ、荒野を彷徨う。主の御心に従った行為でも、報われない時もある。　その中でも、主を信じて行くことで成長していくのである。　「たとえそうでなくとも」（ダニエル3:17-18）という信仰がここにある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ダニエル書3章17～18節&lt;br /&gt;「もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２．荒野を導かれる主　(15～29節)　　～仕切りの岩～&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;荒野を逃避行するダビデを、サウル王の息子ヨナタンが訪ねて来る。&lt;br /&gt;ヨナタンは「神の御名によってダビデを力づけた」16節。これは月並みな励ましではなく、「神に力を見出すように助けた」という意味である。神に目を向けさせたのは、荒野の苦難が神の計画を挫折させることはあり得ない。次に王となるのはダビデである事を知らすため。神のご計画は、ただ機械的には運ばれるのではない。苦難の歩みの中で、主の目的は必ず達成される。だから、主を見上げ、主を信頼し、忍耐して、待ち望まなければならない。&lt;br /&gt;ジフの人々の密告で、ダビデは再びサウルに追われる。(19～20節)　&lt;br /&gt;ダビデはマオンの荒野でサウル軍に追いつかれてしまう。(25～30節)追う者と逃れる者が山を隔て接近する。この場面を山の上からの視点で見ておられた主が絶妙なタイミングで介入される。&lt;br /&gt;ダビデ600人はサウル３千の軍に追われ、もうだめだと思われた時、ペリシテ人の大規模侵攻の知らせがサウルに届き、サウルはダビデ追跡をあきらめて引き返す。神の御手が再び働いた。&lt;br /&gt;退却するサウル軍を見てダビデは危機一髪の事実を知った。この経験を通して、ダビデは、神の視点で自分を見ることを学んだ。この恵みの体験から、この場所を「仕切りの岩」と名づけた。山のこちらと向こうで、ダビデとサウルの運命が分けられていた。&lt;br /&gt;ダビデは、この「仕切りの岩」の意味を荒野の旅の中でさらに確認して行くことになる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;結 論：　 　荒野の聖所で主と出会う　 （詩篇63篇1～5節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;●詩篇６３篇　ダビデの賛歌。彼がユダの荒野にいたときに&lt;br /&gt;1.神よ。あなたは私の神。私はあなたを切に求めます。水のない、砂漠の衰え果てた地で、私のたましいは、あなたに渇き、私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです。&lt;br /&gt;2.私は、あなたの力と栄光を見るために、こうして聖所で、あなたを仰ぎ見ています。&lt;br /&gt;3.あなたの恵みは、いのちにもまさるゆえ、私のくちびるは、あなたを賛美します。&lt;br /&gt;4.それゆえ私は生きているかぎり、あなたをほめたたえ、あなたの御名により、両手を上げて祈ります。&lt;br /&gt;5.私のたましいが脂肪と髄に満ち足りるかのように、私のくちびるは喜びにあふれて賛美します。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ダビデがユダの荒野の経験で歌ったのが詩篇63篇である。　&lt;br /&gt;「神よ。あなたは私の神。私はあなたを切に求めます。水のない、砂漠の衰え果てた地で、私のたましいは、あなたに渇き、私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです。私は、あなたの力と栄光を見るために、こうして聖所で、あなたを仰ぎ見ています。」（1-2節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ダビデは、ユダの荒野で神と出会った。荒野が主を礼拝する聖所に変わる。あなたを荒野に連れて行ったのは、主である。主は、そこであなたを訓練し、砕かれて、養い育て、有益な器にされる。&lt;br /&gt;主は、あなたに災いを与えるためではなく、将来と希望と平安を与えるために荒野に導かれた。荒野でなければ、体験できない恵みの世界がある。　　　　　&lt;br /&gt;荒野の聖所で神との出会いがある。問題の中でも、主はあなたと共にいてくださり、常に守り、導き続けてくださることによって、「主、我と共にいます」という約束の真実を見ることができる信仰を養い育てて下さるのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　主は、あなたから遠く離れておられるのではない。受肉された主イエス様は、私たちの暗闇の只中に来てくださり、失望を希望に、死をいのちに、変えてくださるお方なのである。あなたが最も弱い時、何もできない時、いよいよ主の力と御業が見えてくる。　&lt;br /&gt;今日、主があなたの「仕切りの岩」となって下さるように。　　　　　　　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;主よ感謝します。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/21132095-8937735188878782493?l=katayanagi-efc-message.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/8937735188878782493'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/8937735188878782493'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://katayanagi-efc-message.blogspot.com/2011/01/blog-post_25.html' title='人生の荒野を旅する時も'/><author><name>ハレルヤ</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-21132095.post-4667495106214327499</id><published>2011-01-17T21:33:00.002+09:00</published><updated>2011-01-17T21:42:29.502+09:00</updated><title type='text'>ダビデとヨナタンの友情</title><content type='html'>２０１１年１月１６日&lt;br /&gt;旧約聖書：第１サムエル記18章1～16節&lt;br /&gt;説教：滝田新二牧師&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;1.ダビデがサウルと語り終えたとき、ヨナタンの心はダビデの心に結びついた。ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;2.サウルはその日、ダビデを召しかかえ、父の家に帰らせなかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;3.ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛したので、ダビデと契約を結んだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;4.ヨナタンは、着ていた上着を脱いで、それをダビデに与え、自分のよろいかぶと、さらに剣、弓、帯までも彼に与えた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;5.ダビデは、どこでもサウルが遣わす所に出て行って、勝利を収めたので、サウルは彼を戦士たちの長とした。このことは、すべての民にも、サウルの家来たちにも喜ばれた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;6.ダビデがあのペリシテ人を打って帰って来たとき、みなが戻ったが、女たちはイスラエルのすべての町々から出て来て、タンバリン、喜びの歌、三弦の琴をもって、歌い、喜び踊りながら、サウル王を迎えた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;7.女たちは、笑いながら、くり返してこう歌った。「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;8.サウルは、このことばを聞いて、非常に怒り、不満に思って言った。「ダビデには万を当て、私には千を当てた。彼にないのは王位だけだ。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;9.その日以来、サウルはダビデを疑いの目で見るようになった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;10.その翌日、わざわいをもたらす、神の霊がサウルに激しく下り、彼は家の中で狂いわめいた。ダビデは、いつものように、琴を手にしてひいたが、サウルの手には槍があった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;11.サウルはその槍を投げつけた。ダビデを壁に突き刺してやろう、と思ったからである。しかしダビデは二度も身をかわした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;12.サウルはダビデを恐れた。主はダビデとともにおられ、サウルのところから去られたからである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;13.それでサウルはダビデを自分のもとから離し、彼を千人隊の長にした。ダビデは民の先に立って行動していた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;14.ダビデはその行く所、どこででも勝利を収めた。主が彼とともにおられた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;15.ダビデが大勝利を収めるのを見て、サウルは彼を恐れた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;16.イスラエルとユダの人々はみな、ダビデを愛した。彼が彼らの先に立って行動していたからである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;序．今日のテーマは友情です。あなたには親友と呼べる友がいるでしょうか？&lt;br /&gt;ダビデとヨナタンの友情からみことばを受けよう。　ヨナタンは、サウル王の子で王子、次期王様候補である。一方、ダビデは子どもの頃、ベツレヘムの田舎の羊飼いであったが、敵のペリシテの戦士巨人のゴリヤテを倒して、一躍、英雄となりイスラエルの戦士となる。ダビデはイスラエルの王としての油注ぎを受けたが、実際に王になるまでには多くの時間がかかり、たくさんの辛い経験をした。サウル王から命を狙われて、逃亡の生活を余儀なくされる。希望を失うような状況の中で、ダビデを支えたのは親友ヨナタンであった。私たちが危機的な状況に陥った時、主はこのような友を送ってくださる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１．信仰によって結ばれた友情　(1節)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;18:1 ダビデがサウルと語り終えたとき、ヨナタンの心はダビデの心に結びついた。ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ダビデが巨人ゴリヤテと戦って勝利した時、ヨナタンとダビデの間には新しい友情が生まれた。&lt;br /&gt;“ヨナタンの心は、ダビデの心に結びついた”この言葉は“ヨナタンの魂とダビデの魂は共に編み込まれた”という意味で、固く結ばれた信頼関係だった。　　&lt;br /&gt;“ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛した”これはまさに、イエス様が教えてくださった愛と信頼の関係である。&lt;br /&gt;彼らの友情は、主なる神への信仰によって結ばれた人間関係・友情であった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２．利害を超えた友情　～神中心の信頼関係～　(2～12節)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;18:3ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛したので、ダビデと契約を結んだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;18:4ヨナタンは、着ていた上着を脱いで、それをダビデに与え、自分のよろいかぶと、さらに剣、弓、帯までも彼に与えた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ヨナタンは王位継承者の象徴である鎧、兜、剣、帯のすべてをダビデにプレゼントした。彼は、次の王様になるのは自分ではなく、ダビデこそが主の目に適い、主のみこころである事を知っていた。これは、彼らが、神中心の生き方をしていた結果である。　　　　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;18:6 ダビデがあのペリシテ人を打って帰って来たとき、みなが戻ったが、女たちはイスラエルのすべての町々から出て来て、タンバリン、喜びの歌、三弦の琴をもって、歌い、喜び踊りながら、サウル王を迎えた。&lt;br /&gt;18:7 女たちは、笑いながら、くり返してこう歌った。「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;18:8 サウルは、このことばを聞いて、非常に怒り、不満に思って言った。「ダビデには万を当て、私には千を当てた。彼にないのは王位だけだ。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;18:9 その日以来、サウルはダビデを疑いの目で見るようになった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;巨人ゴリヤテを倒して、ダビデが群衆の称賛を受けた時、サウル王は嫉妬し、ダビデを王位を狙う者として恐れた。&lt;br /&gt;父サウルは自分の王位を守るという自分の利益のみを優先したのに対して、ヨナタンは神のみこころを最優先した。&lt;br /&gt;ヨナタンにとっての喜びは、自分がゆるぎない地位を得る事ではなく、主のみこころが成る事であった。&lt;br /&gt;だから、ヨナタンはダビデに嫉妬する必要がなかった。主のみこころがいつでも、自分にとっての最善であり、国にとっての最善であり、祝福である事を知っていた。　だからヨナタンは、迷うことなくその王座を明け渡した。&lt;br /&gt;この友情は、二人が共に主を第一とする時に築き上げられるものである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;３．犠牲の愛による友情　(19章１～7節)　～もうひとりの友～&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;19:1 サウルは、ダビデを殺すことを、息子ヨナタンや家来の全部に告げた。しかし、サウルの子ヨナタンはダビデを非常に愛していた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;19:2 それでヨナタンはダビデに告げて言った。「私の父サウルは、あなたを殺そうとしています。それで、あしたの朝は、注意して、隠れ場にとどまり、身を隠していてください。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ヨナタンは、怒るサウル王との間に立って命がけでダビデを守った。あなたは、ダビデのような、またヨナタンのような友はいないと感じているならば、祈り求めよう。信仰によって、その友との関係は、揺らぐ事のない真の友情へと育っていくのだから。　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし、幸いなことに、私たちには、もうひとりの友がいる。その友の名は、イエス様である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ヨハネの福音書15章13～15節&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;15:13 人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;15:14 わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;15:15 わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;“私はあなたを友と呼んだ。”　世界が始まる前から存在する神のひとり子イエス様は、あなたを友と呼んで下さっている。&lt;br /&gt;主は、罪人のあなたのために命を捨てて十字架に架かり、永遠の死から救って下さった。&lt;br /&gt;友なるイエス様は、苦しい時も、辛い時も、いつでも共に歩んで下さる。死の影の谷を歩く時も、イエス様という親友が共にいるから、恐れる必要がない。孤立し、世界から忘れ去られたように感じる時も、周りには敵しかいないように思える時でも、主は決して見捨てることなくあなたの側にいて下さる。このお方を心の扉を開いてお迎えしよう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;結論：　『　神との友情　・　信仰の友の３つの祝福　　』&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（１）    物事に対する正しい判断を誤らせない。　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;父サウルがヨナタンと家来にダビデを殺す事を告げた時、父をいさめた。(19:１-7)　&lt;br /&gt;友なるイエス様も、物事に対して誤ることのないように、正しい判断に導いてくれる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（２） 道を誤らせない。　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ヨナタンはダビデに「イスラエルの王となるのはあなただ。私はあなたの次に立つ者となるだろう」&lt;br /&gt;と告げた。（23:１７）&lt;br /&gt;ヨナタンは自分の歩むべき道を、自分の使命をはっきりと認識していた。それをダビデと共有していた。&lt;br /&gt;友なるイエス様は、私たちを誤ることのないように、正しい道に導かれる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（３） 友の困難を未然に防いでくれる。　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ヨナタンは父がダビデを殺す意志の変わらないことを知り、ダビデを逃した。(20:31-42)&lt;br /&gt;友の存在、そして神との友情は、わたしたちひとりひとりの歩みを守り、励まして、正しい道へと導くのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;主よ感謝します。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/21132095-4667495106214327499?l=katayanagi-efc-message.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/4667495106214327499'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/4667495106214327499'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://katayanagi-efc-message.blogspot.com/2011/01/blog-post.html' title='ダビデとヨナタンの友情'/><author><name>ハレルヤ</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-21132095.post-8361539752060137365</id><published>2010-12-28T08:47:00.002+09:00</published><updated>2010-12-28T08:52:34.305+09:00</updated><title type='text'>わがたましいよ。主をほめたたえよ。</title><content type='html'>&lt;span style="color: rgb(255, 204, 51);"&gt;〜 主の良くしてくださったことを忘れるな〜&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２０１０年１２ 月２６日 年末感謝礼拝  &lt;br /&gt;旧約聖書：　詩篇１０３篇１〜５節&lt;br /&gt;説教：滝田新二牧師&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１．わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあ るすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２．わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださ ったことを何一つ忘れるな。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;３．主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病を いやし、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;４．あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみ との冠をかぶらせ、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;５．あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、 わしのように、新しくなる。    &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;序.  今年最後の礼拝、私たち神の家族・教会の恵みを数え、 主に感謝し、主をほめたたえ、新年を迎えよう！&lt;br /&gt;&lt;br /&gt; １.わがたましいよ、主をほめたたえよ。（詩篇１０３：１） &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべて のものよ。聖なる御名をほめたたえよ。」  この１年の最後の礼拝を、私たちの全存在をかけて、全身全霊 で、主をほめたたえよう！  &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２. わがたましいよ、主の恵みを忘れるな。　　 　　　　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;〜５つの主の恵み〜　（詩篇１０３： ２〜５） &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;① 主の恵みは　「罪の赦し」　（３節） &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「主は、あなたのすべての咎を赦された」　 クリスマスに受肉された主イエス様は私たちの弱さ、咎、罪を 身代わりに十字架で背負われて血潮を流された。 その十字架の死と復活の御業によって、私たちの全ての罪は、 過去、現在、未来に渡り赦された。　 主の赦しに心から感謝しよう！ 　  　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;②　主の恵みは　「いやし」　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（３節後半）  「主は、あなたのすべての病をいやす」と語られている。　癒 し主である主は、私たちをいやして下さる。いやしには「時」 がある。病気も、障害もやがて主の時に、最後には天国で完全 に癒される。 だから主の十字架の愛に満たされ、聖霊様が心と魂に豊かに注 がれ、心の傷をいやされ、霊を健康にしていただいて、たとい 病の中でも、主をほめたたえよう！  　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;③　主の恵みは　「救い」（４節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt; 「主はあなたのいのちを穴から贖い」　 この「穴」は、墓、滅び、死への道筋を意味する。 絶望の穴から贖い出されて人生の苦しみにも終りが来る。「贖 う」はヘブル語の原語ガーアル（名詞形ではゴーエール）で「 買い取る・身受け保証人となる・贖い主」という意味である。 イエス様の十字架によって救われ、解放され、神の目的に生き る者と変えられた。（参照：２コリント５：１７）　 　今年は７名の兄姉が信仰告白し、洗礼の恵みに与った。　主 をほめたたえよう！   　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;④　主の恵みは　「良きもので必要を満たして下さる」 （４節後半〜５節） &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生 を良いもので満たされる」　　 一生という言葉は飾り言葉で、主は、過去も、現在も、未来も 、私たちの一生涯の必要を満たして下さる。 あなたの衣食住・経済、進路、仕事、結婚、老後の必要も満た して下さる。　 今年、私たちの家族や教会の必要を満たして下さった主を、ほ めたたえよう！   　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;⑤　主の恵みは　「新しくされる」（５節後半） &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「あなたの若さは、わしのように、新しくなる。」　　 私たちの人生には限りがあり、だんだん老いる。 しかし、内なる人は、日々新しくされ、永遠の命に満ち溢れる 。　 Ⅱコリント 4:16「ですから、私たちは勇気を失いません。た とい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされ ています。」  &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;３.わがたましいよ、すべてを感謝せよ。（第１テサロニケ５：１６〜１８）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt; 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事につ いて、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神が あなたがたに望んでおられることです。」　　 　主のみこころは何か？　すべての事を感謝することである。 　　 あなたは、文字通りすべての事を（失敗も、試練も、病も、弱 さも）本当に感謝しているだろうか？　　  キリスト者とは、主にあって、すべてのことを感謝する人であ る。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;結 論： 『 主の恵みを数え、感謝し、主を賛美し、前進しよう！ 』  　地上の教会、神の民は、時には迷い、主を疑い、不平不満を つぶやく。　そして回りを見れば、人々は不信と裏切り、失望 で相争う。　 だからこそ、私たち神の民・教会は、主の恵みを忘れず、主に 感謝し、主を賛美し、新たなビジョンを受けて前進しよう。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/21132095-8361539752060137365?l=katayanagi-efc-message.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/8361539752060137365'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/8361539752060137365'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://katayanagi-efc-message.blogspot.com/2010/12/blog-post_28.html' title='わがたましいよ。主をほめたたえよ。'/><author><name>ハレルヤ</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-21132095.post-2568589074309581127</id><published>2010-12-20T13:01:00.003+09:00</published><updated>2010-12-20T13:07:17.588+09:00</updated><title type='text'>クリスマスの精神を生きる</title><content type='html'>&lt;span style="color: rgb(255, 204, 51);"&gt;〜受肉のチャレンジ〜&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２０１０年１２月１９日　クリスマス礼拝&lt;br /&gt;新約聖書：ピリピ人への手紙２章２〜１１節&lt;br /&gt;説教：滝田新二牧師&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;2.私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;3.何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;4.自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;5.あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;6.キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;7.ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;8.自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;9.それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;10.それはイエスの御名によって天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;11.すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;序．キリスト教の最大の出来事、最大の神秘とは何か？ クリスマスの受肉である。クリスマスは私たちの救いの歴史の原点である。旧約の民はこの目標点に向かうことにより不滅の希望に満たされた。新約の教会はいつもこの原点に立ち帰ることにより新たな力を得て来た。クリスマスの３つの神秘を通して、今朝、私たちも新約の教会として信仰の原点に立ち返り、クリスマスの精神を生きたい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１.受肉の神秘　（５〜６節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ピリピ２：６−１１は、初代教会で『キリスト賛歌』と呼ばれた讃美歌である。この賛歌に先だつ５節に「あなたがたの間では、このような心構えでいなさい」と私たちが主の模範にならうように勧められている。模範として示された御子イエス様について、しばらく黙想しよう。６節に「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えなかった」と記されている。　あなたも、キリストの受肉の神秘の中に、神の恵みの最高の輝きを発見することができるだろう。　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２.無になる神秘　（７節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「彼はご自分を無にして仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。」（７節） イエス様は、ローマ帝国が繁栄を極めた時代に、ローマの植民地であるユダヤの田舎のベツレヘムという小さな村の小さな宿屋の外の馬小屋でお生まれになられた。このクリスマスの物語は、美しいストーリーとして美化されているが、実際にはむしろ汚らわしく、残酷な物語である。 こうして神の御子はむなしくなり、へりくだり、王の王・主の主が人となられた。主が無になられた神秘の恵みは、私たちの眠りこけた霊の目を開き、父なる神の愛と御心をさらに深く知ることができるようになり、私たちに信仰の決断を迫っている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;３.卑しさの神秘　（８〜１１節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「キリストは人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも、従われたのです。」（８節） 主イエス様は、頑固な民の中で、仕える者となられた。そして貧しい者に食べ物を与え、悲しむ者に慰めを与え、病人を癒し、悪霊を追い出し、御業をなして仕えられた。そしてあらゆる困難、孤独、飢え、敵意を忍ばれ、人間の悲しみと重荷をすべて担われた。主イエス様の愛の御業への報いは、何であったのか？　主は、頭に茨の冠を付けられ、着物を剥ぎ取られ、つばをかけられ、鞭打たれ、十字架に架けられることがその報いであった。 このようにイエス様は、その愛を余すところなく示され、ご自分の命さえも与えられた。こうして私たちは、イエス様を信じる信仰により、罪赦され、救われた。これは愛される価値の無い者をも、無限に愛することを意味している。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;結論：クリスマス・スピリットを生きよう！ー受肉のチャレンジー&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;クリスマスは、滅びる人間にいのちと赦しを与える平和と希望の福音である。ところが、私たちはクリスマスを年中行事のような気持ちで迎え、楽しく過ごしている。しかし、この受肉のメッセージには重大な意味が含まれている。「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい」(５節)つまり“あなたもキリストの模範に従いなさい！”ということである。最初のクリスマスにおいて、あなたのために貧しくなられたキリストの心を、愛を、あなたの生活の中に、受肉せよ、再現せよという主のチャレンジである。一生を通して、あなたの人生に受肉することが求められている。それは、イエス様と同じように、あなたが与えられた賜物・能力や時間を、主に捧げる献身である。　　あなたも、労苦をいとわず、家庭・職場・学校・教会で、隣人や友人・家族・教会員のために、へりくだり、自分を貧しくし、仕えるという、主の受肉のチヤレンジに応え、クリスマスの精神を生きよう！　『あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。』（１コリント６：２０）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;主よ、感謝します。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/21132095-2568589074309581127?l=katayanagi-efc-message.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/2568589074309581127'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/2568589074309581127'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://katayanagi-efc-message.blogspot.com/2010/12/blog-post_20.html' title='クリスマスの精神を生きる'/><author><name>ハレルヤ</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-21132095.post-196353770702732417</id><published>2010-12-13T08:55:00.003+09:00</published><updated>2010-12-13T11:49:33.407+09:00</updated><title type='text'>おことばどおりこの身になりますように</title><content type='html'>２０１０年１２月１２日　アドベント第3週&lt;br /&gt;聖書：ルカの福音書１章２６～３８節&lt;br /&gt;説教：滝田新二牧師&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;1:26 ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のとりの処女のところに来た。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;1:27 この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;1:28 御使いは、入って来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;1:29 しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;1:30 すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;1:31 ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;1:32 その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;1:33 彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;1:34 そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;1:35 御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;1:36 ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;1:37 神にとって不可能なことは一つもありません。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;1:38 マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１．神に選ばれたマリヤ　　～名もない少女～　　(26～27節)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この「受胎告知」を、多くの画家が描いた。どの絵も、突然の出来事に驚き、恐れ、たたずむマリヤの姿が描かれている。　楽しそうな表情のマリヤはない。クリスマスの出来事は、誰もが想像できなかった。神が人となる受肉の神秘である。　　救い主を生む母として選ばれ、用いられたのは、ガリラヤのナザレに住むヨセフのいいなずけ(婚約中)のマリヤであった。当時は、親が決めた結婚で１４～１５歳で婚約した。現代なら中学２・３年生。マリヤは、まだ少女で、人生体験を積んだ分別のある落ち着いた大人の女性ではない。主は、普通の一人の少女を、救い主の母として選ばれて、用いられた。　　マリヤを選ばれた主は、あなたをも選び、神の民の一員とされ、ここに集っている。私たち一人一人の上に、神のご計画があり、神の目的がある。主は、あなたを用いて神の御業を実現しようとしておられる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２．困惑のマリヤ　　～おめでとう。主が共におられる～　（２８～３３節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;天使は「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられます」と呼びかけた。「おめでとう」は元々の意味は「喜びなさい」で、当時挨拶の言葉として用いられていた。しかしマリヤは戸惑い、不安と恐れを感じた。　さらに天使は「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい」と世界の救い主の誕生を告げた。生まれる子は、「いと高き方の子」神の子と呼ばれ、父ダビデの王座が与えられる。　　　　　　主イエス様は新しい神の民である世界中の神の教会を永遠に治め、その支配は終わることがないと宣言した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;３．マリヤの応答　　～神に不可能はない～　（３４～３７節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;マリアの反応は？　３４節「どうして、そのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに」。まだヨセフと一緒になっていない自分が身ごもって子を生むことなど、当然あり得ない。天使はマリヤの疑問に答えて、「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;聖霊様がマリヤに臨み、神の力によって身ごもる「処女降誕」であると説明した。３７節「神にとって不可能なことは一つもない」と宣言された。３７節の原文を直訳すると。「なぜなら、神においては、全ての言葉は不可能ではないからだ。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;原文には「すべての言葉」がある。つまり「神の言葉は全て実現する、実現できない言葉はない」と。そこでマリヤは、３８節「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」と主に応答した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「神が語られたみ言葉は必ず実現する」と告げられたことを受けて、「その主のお言葉がこの身に実現しますように」と応答した。私たちの信仰の確信はどこから来るのか？　奇蹟を体験したら？　いいえ、主のみ言葉を受け、御言葉を信じ、御言葉の救いの約束を受けることである。聖書の御言葉と私たちの信仰が結びついて、初めて確信となる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;マリヤが処女降誕の奇蹟を体験したように、あなたの信仰が御言葉と結びつき、主の奇蹟を経験する者とされる。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;結　論：おことばどおり、この身になりますように　　(1章38節)　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;1:38 マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（１）　　私たちも、主のはしためになる&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　「わたしは主のはしため(女奴隷)です」　マリヤは主に服従した。しかしそれは、無理やりではなく「わたしは主のはしためとして生きます」というマリヤの意思表示である。主に仕える奴隷として生きることをマリヤは自分から選び取った。　主のはしためとなるとは、「おことばどおり、この身になりますように」と祈りつつ生きる者となることである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（２）　　私たちも、本当の喜びに生きる&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　主は「おめでとう（喜びなさい）」と語られた。マリヤの前途は試練といばらの道。しかし、み言葉を受け入れ、主に従う道を選んだ。マリヤの姿に悲壮感はない。むしろ不思議な落ち着き、平安、主に自分の身を委ねた安心がある。マリヤのように「おことばどおりこの身になりますように」と祈り、あなたの人生に御言葉の約束が実現し、本当の喜びと幸せを得ることができるように。主が共にいて下さり、恵みを受け、御業に用いられる、生き甲斐ある人生が開かれる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;主よ感謝します。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/21132095-196353770702732417?l=katayanagi-efc-message.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/196353770702732417'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/196353770702732417'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://katayanagi-efc-message.blogspot.com/2010/12/blog-post.html' title='おことばどおりこの身になりますように'/><author><name>ハレルヤ</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-21132095.post-189411231045035723</id><published>2010-11-29T12:34:00.001+09:00</published><updated>2010-11-29T12:36:58.284+09:00</updated><title type='text'>クリスマスは希望の約束</title><content type='html'>&lt;span style="color: rgb(255, 204, 51);"&gt;〜主はあなたと共におられる〜&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;2010年11月28日　アドベント（待降節第１週）&lt;br /&gt;旧約聖書：イザヤ書７章１〜１４節&lt;br /&gt;説教：滝田信二牧師&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;1.ウジヤの子のヨタムの子、ユダの王アハズの時のこと、アラムの王レツィンと、イスラエルの王レマルヤの子ペカが、エルサレムに上って来てこれを攻めたが、戦いに勝てなかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;2. ところが、「エフライムにアラムがとどまった」という報告がダビデの家に告げられた。すると、王の心も民の心も、林の木々が風で揺らぐように動揺した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;3. そこで主はイザヤに仰せられた。「あなたとあなたの子シェアル・ヤシュブとは出かけて行って、布さらしの野への大路のそばにある上の池の水道の端でアハズに会い、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;4. そこで彼に言え。気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはなりません。あなたは、これら二つの木切れの煙る燃えさし、レツィンすなわちアラムとレマルヤの子との燃える怒りに、心を弱らせてはなりません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;5. アラムはエフライムすなわちレマルヤの子とともに、あなたに対して悪事を企ててこう言っています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;6. 『われわれはユダに上って、これを脅かし、これに攻め入り、わがものとし、タベアルの子をそこの王にしよう』と。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;7. 神である主はこう仰せられる。『そのことは起こらないし、ありえない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;8. 実に、アラムのかしらはダマスコ、ダマスコのかしらはレツィン。──六十五年のうちに、エフライムは粉砕されて、もう民ではなくなる。──&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;9. また、エフライムのかしらはサマリヤ、サマリヤのかしらはレマルヤの子。もし、あなたがたが信じなければ、長く立つことはできない。』」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;10. 主は再び、アハズに告げてこう仰せられた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;11. 「あなたの神、主から、しるしを求めよ。よみの深み、あるいは、上の高いところから。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;12. するとアハズは言った。「私は求めません。主を試みません。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;13.そこでイザヤは言った。「さあ、聞け。ダビデの家よ。あなたがたは、人々を煩わすのは小さなこととし、私の神までも煩わすのか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;14. それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;序. 先週は北朝鮮の韓国・延坪島への攻撃が起こり、先月は中国と日本の尖閣諸島を巡り領土問題で対立が起こった。日本では、人と人との絆が薄れた無縁社会が到来した。世界は経済不況の中で、若者は就職超氷河時代である。人々は明日の見えない不安の中にいる。救い主の預言したイザヤの活躍した時代は、現代のような状況であった。しかし、クリスマスは希望の約束である。　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１.　　　　国家存亡の危機　　　（１〜２節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　主イエス様のご降誕の約７００年前(今から2700年前)、ユダヤの国は、北イスラエルと南ユダに分裂していた。　紀元前７３０年、世界最大の超大国アッシリヤ帝国が世界覇権を狙ってユダヤへと侵略してきた。　アラムの王レツィンと北イスラエルのペカ王は反アッシリヤ同盟を結び、南ユダにも加わるように誘ったが断った。そこで、逆に２つの国は南ユダに攻め上ってきた。南ユダのアハズ王を滅ぼし、傀儡政権を作ろうとエルサレムを包囲した。国家存亡の危機に、アハズ王も民の心も恐れおののいた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２.　　　神の救いのメッセージ　　　（３〜９節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;イザヤは、偶像崇拝と神への不従順という罪深いアハズ王に、神の救いのメッセージを語る。７節の「神である主」（hiiwihy] yg:da dmia; tko) コ- アマル アドナイ アドナイ)は「諸王の上に立つ真の王、主」という意味。歴史の主権者である神は、世界の国々の王の中の王である。人間的な策略や思い通りにはならない。神のご計画により２つの国は、アッシリヤによって65年のうちに滅亡する。&lt;br /&gt;あなたは、今ある危機に囚われず、神の救いを信頼して、心静まって神の時を待つことである。“真に畏れるべき方と恐れる必要のない地上のものを見極める心を与えて下さい！”と祈ろう。  「あなたを創造された主は、あなたの全てに責任を負って下さるのだから安心しなさい。」という、主なる神の救いと希望のメッセージである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;結  論：　　　「 クリスマスは希望の約束です 」　　　（10～14節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（１）    　　主を、信頼しなさい&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　アハズ王とユダの人々は、神の言葉より、人の言葉を受け入れて、目の前の困難を恐れた。ただ神の御言葉を信じ、主に従う者だけが、堅く立つことができる。「まず静まって主を待ち望むこと」である。　&lt;br /&gt;「危機は文字通り危険の危（デンジャラス）であるが、同時に、機会の機（チャンス）でもある」&lt;br /&gt;『私たちにとってのピンチは、神にとってのチャンスなのである』&lt;br /&gt;(第1ペテロ5:6-7・詩篇46篇10節では、「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。」&lt;br /&gt;(文語訳は、「汝ら、静まりて、われの神たるを知れ。」)&lt;br /&gt;パニックに陥ったとき、ジタバタせずに、主を待ち望むことが勝利の秘訣なのである。　&lt;br /&gt;イザヤは『立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて信頼すれば、あなたがたは力を得る。』(イザヤ30:15)と神の救いの約束を語っている。　主を信頼しよう！&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（２）    主は、あなたと共におられる&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　7章14節「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』（神は私たちと共におられる）と名づける。」　&lt;br /&gt;神は、罪を犯した不従順な民と共におられるという約束である。その約束のしるしは、処女が身ごもり、インマヌエルという名の子が生まれるというクリスマスの希望の預言であった。&lt;br /&gt;クリスマスに救い主を、この世界に送られた主なる神は、いついかなる時もあなたと共におられる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;①     まだクリスチャンでない人は：　　&lt;br /&gt;このクリスマスの機会に、あなたの心と人生に主イエス様をお迎えし、「インマヌエル」（主があなたと共におられる）&lt;br /&gt;生活を始める決断をしよう！&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;②　クリスチャンの人は：　　&lt;br /&gt;毎日「インマヌエルの主」を確認しよう。　朝ごとに主と向き合う祈りの時間（静思の時）デボーションで、&lt;br /&gt;主イエス様との人格的な交わりを深めて、祈りの時間を持とう！&lt;br /&gt;＊あなたの生活の中に、聖霊様の導きを求め、主のみこころが行われるように、恵みと祝福を祈ろう。　　&lt;br /&gt;　　&lt;br /&gt;主よ、感謝します。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/21132095-189411231045035723?l=katayanagi-efc-message.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/189411231045035723'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/189411231045035723'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://katayanagi-efc-message.blogspot.com/2010/11/blog-post_29.html' title='クリスマスは希望の約束'/><author><name>ハレルヤ</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-21132095.post-7794951775864193358</id><published>2010-11-24T13:43:00.005+09:00</published><updated>2010-11-25T12:32:41.128+09:00</updated><title type='text'>主への感謝のお返し</title><content type='html'>&lt;span style="color:#ffcc33;"&gt;&lt;span class="Apple-style-span"&gt;～サンクスギビングデーを迎えて～&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/span&gt;２０１０年１１月２１日&lt;br /&gt;旧約聖書：詩篇116篇1～19節&lt;br /&gt;説教：滝田新二牧師&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;116:1 私は主を愛する。主は私の声、私の願いを聞いてくださるから。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;116:2 主は、私に耳を傾けられるので、私は生きるかぎり主を呼び求めよう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;116:3 死の綱が私を取り巻き、よみの恐怖が私を襲い、私は苦しみと悲しみの中にあった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;116:4 そのとき、私は主の御名を呼び求めた。「主よ。どうか私のいのちを助け出してください。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;116:5 主は情け深く、正しい。まことに、私たちの神はあわれみ深い。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;116:6 主はわきまえのない者を守られる。私がおとしめられたとき、私をお救いになった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;116:7 私のたましいよ。おまえの全きいこいに戻れ。主はおまえに、良くしてくださったからだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;116:8 まことに、あなたは私のたましいを死から、私の目を涙から、私の足をつまずきから、救い出されました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;116:9 私は、生ける者の地で、主の御前を歩き進もう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;116:10 「私は大いに悩んだ」と言ったときも、私は信じた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;116:11 私はあわてて「すべての人は偽りを言う者だ」と言った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;116:12 主が、ことごとく私に良くしてくださったことについて、私は主に何をお返ししようか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;116:13 私は救いの杯をかかげ、主の御名を呼び求めよう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;116:14 私は、自分の誓いを主に果たそう。ああ、御民すべてのいる所で。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;116:15 主の聖徒たちの死は主の目に尊い。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;116:16 ああ、主よ。私はまことにあなたのしもべです。私は、あなたのしもべ、あなたのはしための子です。あなたは私のかせを解かれました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;116:17 私はあなたに感謝のいけにえをささげ、主の御名を呼び求めます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;116:18 私は自分の誓いを主に果たそう。ああ、御民すべてのいる所で。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;116:19 主の家の大庭で。エルサレムよ。あなたの真ん中で。ハレルヤ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;序。今日は礼拝後「サンクスギビング」の愛さん会が行われる。清教徒が信教の自由を求め、渡米し、インデアンの助けで、翌年収穫し、教会で共に主を礼拝し、感謝し、お祝いした記念日である。主への感謝のお返しについて、御言葉を受けよう！　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１．　　主の恵みからはじめる　　（12節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　詩篇の作者は、人生の大きな危機の中から主に救い出された。魂の暗闇を通り、救いを体験した。その喜びと感謝が主への祈りと賛美となっている。12節「主が、ことごとく私に良くしてくださったことについて、私は主に何をお返ししようか」と語っている。私たちが主のために何かをする以前に、主が先に、素晴らしいことをしてくださっていたことを覚えよう。（ローマ 11:35～36）　主が下さる恵みの中で一番大きなものは罪の赦しと救いである。Ⅰヨハネ4章10節「 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」　救いは、主がイニシャティブを取り、神の側の大きな犠牲によって成し遂げられた。主は、私たちが求める前から、悔い改める前から、信仰を持つ前から、私たちのために救いを備えた。それどころか、あなたが生まれる前から、世界が造られる以前から、あなたは選ばれていた。（エペソ1章3～7節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２．　　主の恵みに感謝する　　（５～１４節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　主の恵みに応えるためには、神の恵みの御業を深く学び想うことである。　聖書は、基本的には、人間に何をすべきかを教える倫理の書物ではなく、神が人間の救いのために何をしてくださったかを知らせる書物である。　　　神の人類に対する救いのラブ・ストーリー（神の愛の物語）の記録である。主の愛を知り、それを深く思うことから、主のために何をすべきかが見えてくる。十戒は、第一戒から始まっていない。主は十の戒めを与える前に、主がイスラエルをエジプトから救い出されたこと、奴隷であった民を神の民とした宣言から始まっている。十戒の戒めは、この神の救いの御業に基づいて命じられている。(参照：エペソ書やローマ書も同じ)　詩篇の作者は、苦しみと悲しみの中で救いを体験し、神の憐みを体験した。(６～１１節)。そして「主が、ことごとく私に良くしてくださったことについて、私は主に何をお返ししようか。私は救いの杯をかかげ、主の御名を呼び求めよう。私は、自分の誓いを主に果たそう。ああ、御民すべてのいる所で。」（12-14節）という祈りが生まれた。あなたへの神の救いと愛を知ると、おのずと、主のために何をすべきか、何ができるかが分かるようになる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;３．　主の恵みに応える　　(１６～１９節)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;主の恵みを受け入れ、それに応えよう。主は私たちの応答を待っておられる。（ルカ１５章「放蕩息子の譬え話」）　本物の愛は、応答を求める。　愛とは、相互の関係で、私たちを愛された主は、私たちに神への愛を求められる。神の愛と神への愛が出会って、そこに神との交わりが生まれる。神の愛は、私たちをきよめ、私たちに変化（チェンジ）を求める。（申命記32:6）第２コリント5章20節「神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代って、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。」主が礼拝を通して、あなたにキリストによる和解を受け入れるように懇願しておられる。&lt;br /&gt;　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;例話：1719年5月20日、ドイツ青年貴族ニコラス・ツィンツェンドルフ伯爵は美術館で絵画「 Ecce Homo（この人を見よ）」という作品を見た。いばらの冠をかぶせられたキリストを描いた、その絵に「わたしはあなたのために、このことをした。あなたはわたしのために何をしたか？」（This I have done for you. What have you done for Me?）と書かれていた。彼はキリストの愛に悔い改め、主に献身してモラビア兄弟団を創立した。モラビア兄弟団は、インドやグリーンランドやアメリカに宣教師を派遣した。　ヨーロッパと世界にリバイバルをもたらした。　　　　　　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;あなたも主の愛を知り、悔い改めて、神に立ち返り、そして、自分を主に献げて、主の愛の呼びかけに応えよう。この感謝祭を迎え、主への感謝を献身でお返ししよう！　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;主よ感謝します。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/21132095-7794951775864193358?l=katayanagi-efc-message.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/7794951775864193358'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/7794951775864193358'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://katayanagi-efc-message.blogspot.com/2010/11/blog-post_24.html' title='主への感謝のお返し'/><author><name>ハレルヤ</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-21132095.post-3871264881004259347</id><published>2010-11-16T08:58:00.007+09:00</published><updated>2010-11-16T20:56:38.342+09:00</updated><title type='text'>子どものように</title><content type='html'>&lt;span class="Apple-style-span"&gt;&lt;span class="Apple-style-span"&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#ffcc33;"&gt;～子どもと一緒に礼拝をささげる祝福～&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２０１０年１１月１４日&lt;br /&gt;新約聖書：マルコの福音書１０章１３～１６節&lt;br /&gt;説教：滝田新二牧師&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;13． さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;14．イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;15．まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;16． そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;序．今日は『子ども祝福式』が礼拝で行われる。主イエス様が子どもたちを招かれて祝福された御言葉を受けよう！&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１．　　子どもたちを叱った弟子たち　　（13節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;親たちがイエス様の評判を聞き、子どもたちを祝福して頂きたいとの願いを持って、連れて来た。しかし、弟子たちは叱った。忙しい大切な先生を守らなければ、というイエス様のボディガードとしての忠義の心は多少あったかも知れないが、それよりも子どもたちは邪魔な存在だ、迷惑だという気持ちであった。弟子たちはイエス様のお心を汲み取れなかった。私たちの最大の関心事は、何だろうか？自分自身の行動と動機を顧み、主のみ心を行えるように助けを祈り求めよう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２．　　子どもたちを招かれたイエス様　　（1４節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;主の怒りは福音書に３回記されている。①パリサイ人の頑なさに対して、②神殿で金儲けをしている人々に対して、　　③弟子たちに対して。それは感情的な爆発ではなく、神の正義と憐れみに反する行動に対してであった。現代は、子どもたちがイジメや虐待で苦しみ、家庭や学校で、友達関係で多くのストレスを受けている。主が現代の子どもをご覧になったなら、どんなに大きな痛みや悲しみを表わされるだろうか？　今日も「子どもたちを私の所に」と招いておられる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;３．　　　神の国は子どもように　　（１５～１６節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;① &lt;span style="WHITE-SPACE: pre" class="Apple-tab-span"&gt;&lt;/span&gt;子どものすばらしさは、その単純さ、素直さにある。　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私たちも疑わずに素直にみことばを信じる信仰が大切である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;② &lt;span style="WHITE-SPACE: pre" class="Apple-tab-span"&gt;&lt;/span&gt;子どものすばらしさは、無力さ、謙遜さにある。　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;子どもは親に拠り頼まなければ生きていけないことを知っている。　　　　　&lt;br /&gt;私たちは、自分の弱さを認め、へりくだり、主にだけより頼む信仰が求められている。　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;③ &lt;span style="WHITE-SPACE: pre" class="Apple-tab-span"&gt;&lt;/span&gt;子どものように、神の前に富む者となる。　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;弟子たちは神の国を、子どもたちのような者たちのものではないと考えた。マルコ9章で、誰が一番偉いかと論争をして主にたしなめられた。彼らの考えは「自分はこれができるから偉い」という価値観の中にいた。現代にも通じる。反対に「子どもたちは何もできない、無力な存在だから偉くない」と考えた。神との関係も、長く祈る人、断食する人、施しやささげものをする人が「偉い人」と評価された。もちろん、それ自体は悪いものではない。彼らの間違いは「これらは神の国の価値観ではない。言いかえれば、この世の価値観を満たしたからと言って、神の前に富める者となったとは言えない」ということを見落とした。人々は律法を守ることを絶対的な価値観にして、律法主義がはびこり、十字架の救い、信仰義認の意味を見落としていた。現代でも同じである。私たちがいくらこの世の価値観を満たしても、神の国の価値観とは違う。私たちは人生を全うするための力を、神の目に適う、主の前に富む者となるために傾けることである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;例話：ヘンリー・ナーウエンの証。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;彼は、オランダ生まれのカトリックの司祭です。主に導かれてアメリカの最高学府といわれるハーバード大学の教授から、知的障害者の施設「ラルシュ共同体」のチャプレンとなりました。そこでナーウエンは大きな衝撃を受けます。その施設では、彼の今までこの世での華々しい学問や仕事の業績、出版され沢山の本、この世の賞さん、ハーバードの教授・哲学博士号の肩書は何の魅力も力もありませんでした。主の前に自分は、何者かであるかのように思ってきましたが、何者でもないことを痛感させられたのです。主の前では、知的障害者も、自分も同じ、弱さを身にまとった、土の器にすぎないこと。そして共に、主の憐みと恵みによって生かされていることを学び、霊性の問題、キリスト教のスピリチャリティーに目が開かれ、世界的ベストセラーの著書が生み出されることになりました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（マタイ１８章１～４節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;結　論：　　子どもと一緒に礼拝をささげ、主の祝福を受けよう！　（１６節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;イエス様に抱かれ按手して祝福された子どもたちは、どんなに嬉しかったことだろうか。生涯忘れられない出来事である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;①　私たちも、へりくだり、子どものようになれるように祈ろう。　　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;②　私たちも、子どものように主に頼ろう。　　　　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;③　私たちも、子どもと一緒に礼拝をささげ、主に導こう。　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;(申命記３１章１１～１３節)　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;11．イスラエルのすべての人々が、主の選ぶ場所で、あなたの神、主の御顔を拝するために来るとき、あなたは、イスラエルのすべての人々の前で、このみおしえを読んで聞かせなければならない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;12.民を、男も、女も、子どもも、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も、集めなさい。彼らがこれを聞いて学び、あなたがたの神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばを守り行なうためである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;13.これを知らない彼らの子どもたちもこれを聞き、あなたがたが、ヨルダンを渡って所有しようとしている地で、彼らが生きるかぎり、あなたがたの神、主を恐れることを学ばなければならない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;エジプトの苦難から救い出され、約束の地に入ろうとする直前の事、モーセはいのち燃え尽きる前に、民に向かい渾身の説教を語った。モーセの遺言は礼拝である。「皆が集まり、男も女も、外国人も、子どもたちも一緒になって、主を礼拝せよ。皆がひとつとなって公の礼拝をささげ続けること。それがあなたがたの生命線である」とメッセージを遺した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（例話：　絵画『朝の祈り』　林 竹治郎作1904年）　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;詩：『キリストは私の家の主』　「キリストは私の家の主です。毎日の食卓に迎える見えない客です。私たちの会話の静かな聞き手です。 」　　　　　　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;主よ、感謝します。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/21132095-3871264881004259347?l=katayanagi-efc-message.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/3871264881004259347'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/3871264881004259347'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://katayanagi-efc-message.blogspot.com/2010/11/blog-post_16.html' title='子どものように'/><author><name>ハレルヤ</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-21132095.post-853778269859699411</id><published>2010-11-01T10:04:00.003+09:00</published><updated>2010-11-08T15:45:56.170+09:00</updated><title type='text'>信仰義認の恵み</title><content type='html'>&lt;span class="Apple-style-span"&gt;～宗教改革の三大原則～&lt;/span&gt; &lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;２０１０年１０月３１日宗教改革記念礼拝 &lt;/div&gt;&lt;div&gt;聖書：ローマ人への手紙 ３章２０〜２４節&lt;/div&gt;&lt;div&gt;説教：滝田新二牧師　　　 　　　　　　　　　　　　　 &lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;20.なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の 前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪 の意識が生じるのです。 &lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;21.しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によっ てあかしされて、神の義が示されました。 &lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;22.すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義で あって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もあり ません。 &lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;23.すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けるこ とができず、 &lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;24.ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆ えに、価なしに義と認められるのです。 &lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;序. 本日は「宗教改革記念日」である。 500年前、青年マルチン・ルターは、1505年雷に打たれて大転 換をする。 雷に神の怒りを見、死の恐怖におののく、21歳のドイツ青年は 神への献身を誓い、将来が約束された法律の学びを捨てて、修 道院に飛び込む。まじめに魂の救いを求める修道士が誕生した 。宗教改革の夜明けである。 ローマ書やガラテヤ書の研究を通じて、信仰義認による救いの 恵みを体験した。 &lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;１. 当時のカトリック教会の「救い」　〜行いによる救 い〜　　(20節) &lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;◎ 信仰（５０％）+行い（５０％）=　救い（１００％） 　&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;当時のカトリック教会では、魂の救いには、神の恵みだけ では不十分である、救われるためには、良い行い（善行）を積 まなければならないと教えていた。 ルターの課題は「いかにしたら、私は恵み深い神の愛を私のも のにすることができるのか、私の魂はどうすれば救われるのか ？」であった。 ルターの修行は難行苦行の連続であった。しかし、修行を重ね るほど、ますます、自分の罪深さを知り、恐れおののいた。「 私はこのような義の神を憎んだ。」と後に語っている。 彼はノイローゼになり、先輩の修道士が「気晴らしに聖書でも 読んでみないか？」とアドバイスした。 当時、聖書は軽んじられていた。修道院の学びは、アリストテ レスのギリシャ哲学が中心であった。まじめな青年ルターは今 度は聖書の研究に没頭し、ついに1512年、28歳の時に聖書学博 士号を受ける。 翌年からビッテンベルク大学で聖書学教授として詩篇・ローマ 書・ガラテヤ書の講義を始める。 実は、この聖書研究が、マルチン・ルターの生涯を変えること になる。つまり本当の信仰、福音の理解へ、長年求め続けた神 の救いの体験をすることになる。いわゆる『塔の体験』（回心 と救いの体験）と呼ばれるものである。 &lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;２. 「信仰義認」の再発見　 　　〜信仰により、恵みによって救われる〜　(22 ～24節) 　　 &lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;◎ 信仰（１００％）+　行い（０％）=救い（１００％）　&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「信仰義認」の核心は「神の義」の解釈にある。 従来カトリック教会では、「神の義」を神が義である、義であ る神が、それにより罪人を裁かれる義であると解釈していた。 しかし、ルターは「神が不義である罪人を義と認めるところの 義」であると理解した。24節「ただ神の恵みにより、キリスト ・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです 。」 （参照：Ⅰペテロ2章２２～24節 2:22 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも 見いだされませんでした。 2:23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、お どすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。 2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負 われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるた めです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされ たのです。 主イエス様が私たち罪人のために身代わりに十字架に架かり、 死んで、３日目に甦られた。 十字架と復活を信じる信仰によって誰でも信じる者に神の義が 与えられる。永遠の命と救いが与えられる。 ルターはついに、十字架の死と復活により完成された信仰によ る救い、パウロが語った信仰義認の福音を再発見した。 ルターは「クリスチャンはあらゆる事物から自由である。すな わち義と認められ救われるために、何の行いも必要とせず、た だ信仰によってこれらの賜物を豊かに受け取るのである。」と 語っている。 そして、教会の改革に立ち上がったルターは、1517年10月31日 ビッテンベルク教会の扉に「９５箇条の提題」という質問書を 張り出した。 こうして当時のヨーロッパ全土に宗教改革運動が広がり、プロ テスタント教会の誕生を見た。 &lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;３. 　宗教改革の三大原則に立つ　　&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;①「聖書のみ」：　 ローマ・カトリック教会は、聖書の上に教会の権威を置いてい た。しかし、教会さえも、聖書66巻の権威に服さねばならない 。聖書こそ、信仰と生活の唯一の規範だからである。 &lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;②「恵みのみ」：　 救いは、ただで、ふさわしくない者に与えられるキリストの恵 みである。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;③「万人祭司」： 　 クリスチャンは、神の召し（Call）によって、それぞれの職（Calling ）に就き、神と社会に仕える。 (Ⅰペテロ2:9 ） 「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、 神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中か ら、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらし いみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;結論：信仰義認の恵みとキリスト者の自由を生きよう。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;『キリスト者は、すべてのものの上に立つ自由な君主であって 、何人にも従属しない。 キリスト者は、すべてのものに奉仕する僕であって、何人にも 従属する。』（マルティン・ルター「キリスト者の自由」より ） 私たちも、宗教改革の「信仰義認の恵み」の原点に立返り、た だ信仰による救いを主に感謝し、キリスト者の自由の恵みの中 を歩んで行こう！　　　　　　&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;主よ感謝 します。&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/21132095-853778269859699411?l=katayanagi-efc-message.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/853778269859699411'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/853778269859699411'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://katayanagi-efc-message.blogspot.com/2010/11/blog-post.html' title='信仰義認の恵み'/><author><name>ハレルヤ</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-21132095.post-4054460374278688683</id><published>2010-10-25T17:41:00.001+09:00</published><updated>2010-10-25T17:43:54.582+09:00</updated><title type='text'>洗礼(バプテスマ)の恵み</title><content type='html'>２０１０年１０月２４日&lt;br /&gt;聖書：マタイの福音書28章１８～２０節&lt;br /&gt;説教：滝田新二牧師&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;序．教会には、洗礼と聖餐の２つの聖礼典がある。本日は洗礼式が執り行われる。今年7人目の受洗者を与えられた主に感謝します。あなたが洗礼を受けられた時を、今一度想い起こして、洗礼の恵みを共に御言葉から受けよう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１．    　　洗礼(バプテスマ)の2つの誤解&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;①    第１の誤解は、「洗礼を受けなければ救われない。救われるために洗礼を受ける」という誤解である。（参照：第１ペテロ3章21節）　私たちは、バプテスマという儀式によって救われて、クリスチャンになるのではない。主の十字架と復活の救いを知り、救い主として信じ救われたから、洗礼を受けるのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;②　第2の誤解は、「洗礼は形式なので、信じていれば受けなくとも良い」という誤解である。洗礼を受けるのは、主のご命令だからである。（マタイ28章１８～20節）以来2000年に渡り、世界中の教会は洗礼式と聖餐式を主のご命令に従って、２つの教会の聖礼典として授けてきた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２．    　　洗礼(バプテスマ)の３つの意味&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;①    　洗礼は、私たちと主イエス様が一つとなる　　(マタイ２０章１８～１９節)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;主は、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授けなさいと命じられた。「よって」とは「の中へ」という意味で、三位一体の神に結合するという意味する。洗礼が象徴するものは、主と私たちが有機的に結合したことを告白し、確認するものである。先日のヨハネ１５章の「ぶどうの木のたとえ話」の主はぶどうの木で、私たちは枝の関係である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;②　　洗礼は、私たちがキリストの死にあずかる　　　～古い人の葬式～　(ローマ６章３～４節)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;パウロは、バプテスマによって古い私たちがキリストと共に葬られ、新しい命に生かされたと語る。洗礼とは、そのような意味を持つ象徴的な行為である。 ギリシア語でバプテスマは「水に浸す」という意味で、初代教会では、文字通り水に浸けていた。私たち教会も、健康に問題がなければ全身浸かる。 これは、古い自分が死んで、水に埋葬されるということを意味した。それと同時に神の栄光と力によって実現したキリストの復活に与ることでもある。&lt;br /&gt;洗礼式は、あなたの古い人の「お葬式」ということである。（ガラテヤ２：２０）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;③    　洗礼は、私たちの新しい出発　　　～新しい人の誕生～　（ローマ６章４～８節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;洗礼は、単なる儀式か？　象徴的な行為であるが、単なる人間の行為ではなく、そこに神の言葉と聖霊様の力が働く行為である。キリストと共に死んだ私たちは、復活のキリストのいのちに結合され、新しい永遠の命に生かされて、新しい歩みが始まった。これは、私たちが自らの決意や努力で変わったのではなく、主によって新しく変えられたのである。　（参照： 創世記3章のエデンの園の誘惑とイエス様の荒野の誘惑の出来事の共通性。）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;結　論：　　洗礼は、主との第２の人生のスタートである。　(マタイ１８章２０節)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ18:20)の「いつも」とは「すべての日々」という意味である。喜びの日、悲しみの日、逆境の日、病の日、どんな日にも主イエス様はあなたと共にいてくださる。時代は変わり、人の心も変わる。そして人は去って行く。しかし、イエス様は決してあなたから離れず、変わることがない。「すべての日々」に共におられる約束は何とすばらしいことか？　あなたは今、歩んできた道を振り返る時、どんな告白をすることができるだろうか？　あなたも主と「すべての日々を」共に歩んで行こう！&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;（例話:　メジャーリーグ・テキサスレンジャーズのジョシュ・ハミルトン選手の挫折と復活の証）　　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;主よ感謝します。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/21132095-4054460374278688683?l=katayanagi-efc-message.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/4054460374278688683'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/4054460374278688683'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://katayanagi-efc-message.blogspot.com/2010/10/blog-post_25.html' title='洗礼(バプテスマ)の恵み'/><author><name>ハレルヤ</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-21132095.post-5044752257878868777</id><published>2010-10-11T10:21:00.000+09:00</published><updated>2010-10-11T10:24:52.951+09:00</updated><title type='text'>豊かな実を結ぶ人生の秘訣(２)</title><content type='html'>&lt;span style="color: rgb(255, 204, 102);"&gt;〜主はぶどうの木、私は枝です〜&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２０１０年１０月１０日&lt;br /&gt;聖書：ヨハネの福音書１５章１〜１１節&lt;br /&gt;説教：滝田新二牧師&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;1.わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です 。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;2.わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き 、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込み をなさいます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;3.あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって 、もうきよいのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;4.わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとど まります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実 を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとど まっていなければ実を結ぶことはできません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;5.わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしに とどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そうい う人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは 何もすることができないからです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;6.だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように 投げ捨てられて枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込 むので、それは燃えてしまいます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;7.あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたが たにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさ い。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;8.あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによ ってわたしの父は栄光をお受けになるのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;9.父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しま した。わたしの愛の中にとどまりなさい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;10.もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがた はわたしの愛にとどまるのです。　それは、わたしがわたしの 父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと 同じです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;11.わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたし の喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たさ れるためです。  &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;序．先週「ぶどうの木のたとえ話」から、私たちの生涯ですば らしい主の祝福、実を結ぶ３つの秘訣を学んだ。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;①　第１の秘訣は、実を結ばない木が、実を結ぶための「悔い 改め」（方向転換）である。  2節「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り 除き」はギリシャ語の「アイロー」で「持ち上げる」という意 味である。ぶどうの枝は、垂れ下がり地面に沿って伸びて、雨 や泥で汚れて病気になり、実を結ばない。農夫はバケツに水を 入れて、汚れた枝や葉を１つ１つ丁寧に洗って、つるを棚に持 ち上げて結び竿で支え、実を結ぶようになる。私たちの人生で 、実を結ばない時、主は、あなたを取り上げ、持ち上げてくだ さる。　 新しい希望に満ちた神への方向転換、それは「悔い改め」であ る。神との関係を回復して、過去の深い傷や痛みが主に癒され る。  &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;②　第２の秘訣は、実を結んでいる木が、もっと実を結ぶため に、主は「聖める」（手入れしてくださる。）  2節「実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り 込みをなさいます。」「刈り込み」はギリシャ語で「カイサイ ロー(手入れする・聖める)」で名詞は「カサローテス(聖別)」 である。  私たちが、多くの実を結ぶために、農夫のように、主は刈り込 んで(聖めて)くださる。人生の優先順位の選び直しである。自 分が一番、子どもが一番、恋人が一番、仕事が一番、お金が一 番の生き方をやめ、価値観の転換をし、あなたが神との関係を 第一にすることである。  &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;③　第３の秘訣は、さらに多くの実を結ぶために、&lt;span style="border-bottom: 1px dashed rgb(131, 181, 0);" class="wEntMarkerPattern"&gt;キリスト&lt;/span&gt;に とどまることである。(4～5節)  本　論：　『　主にとどまり実を結ぶ３つの原則　』&lt;br /&gt;&lt;br /&gt; １．　みことばで、主にとどまり実を結ぶ （みことばの原則　　7節） &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;毎朝、デボーションを通して、主イエス様のみことばを受け、 祈りと交わりの時を持つことである。「静思の時」(ディボー ション)で、主にとどまり祝福された1日のスタートを始めよう ！ 　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２．祈りで、主にとどまり実を結ぶ（祈りの原則　　7～8・16節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt; 祈りによって、主にとどまり、主の祝福を受けよう。 7節「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあな たがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求め なさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられま す。」 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（例話：ジョージ・ミュラー　(1805年生まれ） 　イギリスの孤児の父・65年間の祈りの生涯で、5万回の祈り の回答を得た。「神にあっては失望などありません。莫大な経 費がいる時も、山のような困難も、また、万策つきて行き詰っ たようでも、なお、なすべきことがあります。神に望みをおく ことです。」  &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;３．愛の中で、主にとどまり実を結ぶ（愛の原則　　9～11節） &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;9節「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛 しました。わたしの愛の中にとどまりなさい」  &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;結論：主にとどまり祝福を受けよう！　　(4つの祝福 ) &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;①主のみ&lt;span style="border-bottom: 1px dashed rgb(131, 181, 0);" class="wEntMarkerPattern"&gt;こころ&lt;/span&gt;を知り、主の導きを感じやすくなる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;②主の霊的な富と物質的な富のすべてにあずかる。 （詩篇1編2～3節）　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;結ぶ実は、2種類ある。 外に結ぶ実(聖霊の賜物)と私たちの内に結ぶ実(御霊の実)。( ガラテヤ5:22～23)  仕事や奉仕において実を結び&lt;span style="border-bottom: 1px dashed rgb(131, 181, 0);" class="wEntMarkerPattern"&gt;キリスト&lt;/span&gt;の体である教会を建て上 げ、イエス様に似た愛の人へと変えられる（聖化）  （例話：母の教えに従い、成功した石油王ジョン・ロック・フ ェラーの信仰の証　）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;③大きな収穫のための必要な「休息」を与えられる。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;④主の愛と喜びに満たされる。（11節）　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt; （例話：中国宣教のハドソン・テーラー、750人の宣教師を派 遣する。　）　　　　　　　　　 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;主よ感謝します。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/21132095-5044752257878868777?l=katayanagi-efc-message.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/5044752257878868777'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/5044752257878868777'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://katayanagi-efc-message.blogspot.com/2010/10/blog-post.html' title='豊かな実を結ぶ人生の秘訣(２)'/><author><name>ハレルヤ</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-21132095.post-8913848691484226753</id><published>2010-09-26T12:49:00.002+09:00</published><updated>2010-09-26T12:54:44.404+09:00</updated><title type='text'>主と共に生きる人生</title><content type='html'>&lt;span style="color: rgb(255, 204, 51);"&gt;～何をなしたかではなく、誰と生きてきたのか～&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２０１０年９月２６日&lt;br /&gt;旧約聖書：創世記５０章２２～２６節&lt;br /&gt;説教：滝田新二牧師&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;22. ヨセフとその父の家族とはエジプトに住み、ヨセフは百十 歳まで生きた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;23. ヨセフはエフライムの三代の子孫を見た。マナセの子マキ ルの子らも生まれて、ヨセフのひざに抱かれた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;24. ヨセフは兄弟たちに言った。「私は死のうとしている。神 は必ずあなたがたを顧みて、この地からアブラハ　 ム、イサク、ヤコブに誓われた地へ上らせてくださいます。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;25. そうして、ヨセフはイスラエルの子らに誓わせて、「神は 必ずあなたがたを顧みてくださるから、そのとき、あなたがた は私の遺体をここから携え上ってください。」と言った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;26. ヨセフは百十歳で死んだ。彼らはヨセフをエジプトでミイ ラにし、棺に納めた。  　　　　　　　　　　 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;序．　歳をとることは不幸？それとも祝福？&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この世は、歳をとることを嫌がる、しかし、聖書は歳を重ねる ことの幸いを語る。 先週の「敬老の日の礼拝」で学んだヤコブの子ヨセフの生涯か ら「人生の晩年が喜びであり、祝福であること」を主の御言葉 から受けよう！&lt;br /&gt;&lt;br /&gt; １．ヨセフの苦難の生涯　　(50章22節)    　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;聖書の中で、波乱万丈な生涯を送った人、それはヨセフであ る。彼の人生は、ドラマティックであった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;父ヤコブは最愛の妻ラケルとの間に生まれたヨセフを溺愛した 。それゆえに、ヨセフは、兄弟たちの妬みと怒りを買い、エジ プトに奴隷として銀貨30枚で&lt;span style="border-bottom: 1px dashed rgb(131, 181, 0);" class="wEntMarkerPattern"&gt;イエス&lt;/span&gt;様のように売られる。さら に濡れ衣を着せられ、2年間牢屋に入れられてしまう。 しかし、牢屋で知り合った人がきっかけとなり、エジプトの王 様に引き合わされ、&lt;span style="border-bottom: 1px dashed rgb(131, 181, 0);" class="wEntMarkerPattern"&gt;王様&lt;/span&gt;の見た夢を解き明かした結果、30歳で エジプトの総理大臣となった。 ひどく困難な目に会いながらも、ひたすらに主を信頼し続けた 人生であった。１１０歳の最晩年、ヨセフは死の間際に、遺言 を通して、自分の信仰を子孫に伝えた。  &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２．ヨセフの遺言　　(50章23～25節)　　 　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;～神は必ずあなたがたを顧みてくださる～　　  　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ヨセフは、エジプトの王に次ぐ総理大臣の地位に上り、国を 左右する権力と富を得た。 世界的な大飢饉の中で、エジプトと世界の危機を救ったのは、 ヨセフの働きによる。彼が自分の人生を振り返り、何を語った のか？　 自分の成した大事業を自慢しても不思議ではない。　 しかし、ヨセフは「神は顧みて下さる方だ。」と短く、しかも2 度語る。 人生の最後に家族に伝える最も重要な事は、信仰であった。　 『主は必ずあなたがたを顧みて下さるお方である。』　と語っ た。 ヨセフは、このように自分の信仰の確信を子と子孫たちにハッ キリと伝えた。信仰者の姿の清々しさがある。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;あなたは人生の終わりに、子どもや家族、最愛の人に何を伝え るのだろうか？  ヘブル１１章２２節「信仰によって、ヨセフは臨終のとき、イ スラエルの子孫の脱出を語り、自分の骨について指図しました 。」  　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;聖書は、ヨセフの人生の中で、偉大な事業ではなく、臨終の 場面を信仰者の姿として示した。何をなしたかではなく、主と 共に歩んだ。その素晴らしさを次の世代へ伝えていく。これこ そ&lt;span style="border-bottom: 1px dashed rgb(131, 181, 0);" class="wEntMarkerPattern"&gt;クリスチャン&lt;/span&gt;の姿である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;結　論：主と共に生きる信仰を継承しよう！　(50章25～26節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt; ヨセフの信仰は、子々孫々にまで引き継がれた。 ４３０年を経て、エジプトで奴隷となったイスラエルの民(当 初エジプトで70人であったヤコブ一族は、出エジプト時には200 万の大民族となった）　出エジプトを導いたモーセは、ヨセフ の遺体も一緒に運び出した。 （出エジプト記１３章19節）そして約束の地カナンに入った民 は、シェケムの地にヨセフの遺骨を葬った。（ヨシュア記２４ 章３２節）　ヨセフの信仰は、子々孫々に引き継がれ、多くの 聖徒に影響を与えた。  　私たちも、ヨセフの信仰に見習おう！&lt;br /&gt;&lt;br /&gt; ① 高齢の皆さまは、主と共に歩む人生の素晴らしさ、神が顧 みてくださることを、若い世代に教えてほしい。  言葉でも、態度でも、その生き様でも、その信仰をご自身の家 族に、また教会の神の家族に、分かち合い下さい。主と共に歩 む人生が、どんなに素晴らしいものか示して下さい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;② 若い皆さまは、人生の先輩方に敬意を払い、どのような人 生を歩まれたのか、耳を傾けよう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;やがて、あなたの子孫、また次の世代へと信仰を継承していこ う。主&lt;span style="border-bottom: 1px dashed rgb(131, 181, 0);" class="wEntMarkerPattern"&gt;イエス&lt;/span&gt;様の再臨の時まで、主と共に生きる歩みを、神の 家族全員でなしていこう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;最後にモーセの遺言を心に刻もう。（申命記４章９節） 「ただ、あなたは、ひたすら慎み、用心深くありなさい。あな たが自分の目で見たことを忘れず、一生の間、それらがあなた の心から離れることのないようにしなさい。あなたはそれらを 、あなたの子どもや孫たちに知らせなさい。」　　　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;主よ、感謝します。　&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/21132095-8913848691484226753?l=katayanagi-efc-message.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/8913848691484226753'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/8913848691484226753'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://katayanagi-efc-message.blogspot.com/2010/09/blog-post_26.html' title='主と共に生きる人生'/><author><name>ハレルヤ</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-21132095.post-7112744489886702408</id><published>2010-09-19T11:39:00.004+09:00</published><updated>2010-09-21T21:59:03.227+09:00</updated><title type='text'>晩年のヤコブ</title><content type='html'>～信仰の遺産と祝福の遺言～&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２０１０年９月１９日&lt;br /&gt;旧約聖書：創世記49章１～33節&lt;br /&gt;説教：滝田新二牧師&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;49:1 ヤコブはその子らを呼び寄せて言った。「集まりなさい 。私は終わりの日に、あなたがたに起こることを告げよう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;49:2 ヤコブの子らよ。集まって聞け。あなたがたの父イスラ エルに聞け。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;49:3 ルベンよ。あなたはわが長子。わが力、わが力の初めの 実。すぐれた威厳とすぐれた力のある者。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;49:4 だが、水のように奔放なので、もはや、あなたは他をし のぐことがない。あなたは父の床に上り、そのとき、あなたは 汚したのだ。──彼は私の寝床に上った──&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;49:5 シメオンとレビとは兄弟、彼らの剣は暴虐の道具。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;49:6 わがたましいよ。彼らの仲間に加わるな。わが心よ。彼 らのつどいに連なるな。彼らは怒りにまかせて人を殺し、ほし いままに牛の足の筋を切ったから。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;49:7 のろわれよ。彼らの激しい怒りと、彼らのはなはだしい 憤りとは。私は彼らをヤコブの中で分け、イスラエルの中に散 らそう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;49:8 ユダよ。兄弟たちはあなたをたたえ、あなたの手は敵の うなじの上にあり、あなたの父の子らはあなたを伏し拝む。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;49:9 ユダは獅子の子。わが子よ。あなたは獲物によって成長 する。雄獅子のように、また雌獅子のように、彼はうずくまり 、身を伏せる。だれがこれを起こすことができようか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;49:10 王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れ ることはない。ついにはシロが来て、国々の民は彼に従う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;49:11 彼はそのろばをぶどうの木につなぎ、その雌ろばの子 を、良いぶどうの木につなぐ。彼はその着物を、ぶどう酒で洗 い、その衣をぶどうの血で洗う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;49:12 その目はぶどう酒によって曇り、その歯は乳によって 白い。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;49:13 ゼブルンは海辺に住み、そこは船の着く岸辺。その背 中はシドンにまで至る。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;49:14 イッサカルはたくましいろばで、彼は二つの鞍袋の間 に伏す。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;49:15 彼は、休息がいかにも好ましく、その地が、いかにも 麗しいのを見た。しかし、彼の肩は重荷を負ってたわみ、苦役 を強いられる奴隷となった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;49:16 ダンはおのれの民をさばくであろう、イスラエルのほ かの部族のように。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;49:17 ダンは、道のかたわらの蛇、小道のほとりのまむしと なって、馬のかかとをかむ。それゆえ、乗る者はうしろに落ち る。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;49:18 主。私はあなたの救いを待ち望む。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;49:19 ガドについては、襲う者が彼を襲うが、彼はかえって 彼らのかかとを襲う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;49:20 アシェルには、その食物が豊かになり、彼は王のごち そうを作り出す。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;49:21 ナフタリは放たれた雌鹿で、美しい子鹿を産む。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;49:22 ヨセフは実を結ぶ若枝、泉のほとりの実を結ぶ若枝、 その枝は垣を越える。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;49:23 弓を射る者は彼を激しく攻め、彼を射て、悩ました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;49:24 しかし、彼の弓はたるむことなく、彼の腕はすばやい 。これはヤコブの全能者の手により、それはイスラエルの岩な る牧者による。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;49:25 あなたを助けようとされるあなたの父の神により、ま た、あなたを祝福しようとされる全能者によって。その祝福は 上よりの天の祝福、下に横たわる大いなる水の祝福、乳房と胎 の祝福。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;49:26 あなたの父の祝福は、私の親たちの祝福にまさり、永 遠の丘のきわみにまで及ぶ。これらがヨセフのかしらの上にあ り、その兄弟たちから選び出された者の頭上にあるように。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;49:27 ベニヤミンはかみ裂く狼。朝には獲物を食らい、夕に は略奪したものを分ける。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;49:28 これらすべてはイスラエルの部族で、十二であった。 これは彼らの父が彼らに語ったことである。彼は彼らを祝福し たとき、おのおのにふさわしい祝福を与えたのであった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;49:29 彼はまた彼らに命じて言った。「私は私の民に加えら れようとしている。私をヘテ人エフロンの畑地にあるほら穴に 、私の先祖たちといっしょに葬ってくれ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;49:30 そのほら穴は、カナンの地のマムレに面したマクペラ の畑地にあり、アブラハムがヘテ人エフロンから私有の墓地と するために、畑地とともに買い取ったものだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;49:31 そこには、アブラハムとその妻サラとが葬られ、そこ に、イサクと妻リベカも葬られ、そこに私はレアを葬った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;49:32 その畑地とその中にあるほら穴は、ヘテ人たちから買 ったものである。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;49:33 ヤコブは子らに命じ終わると、足を床の中に入れ、息 絶えて、自分の民に加えられた。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;序．「敬老の日の礼拝」に、信仰の人ヤコブの12人の子どもへ の遺言から主の祝福を受けよう。　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;1． 　　最初は長男のルベン　(3～4節)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;長男は親の期待を背負う者。 ルベンは長男らしい威厳と能力を持っていた。 しかし、自由奔放な性質は、裏を返せば自制心に欠ける故に大 きな失敗を犯す。ヤコブは長男の弱点に釘を刺すことを忘れな かった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２．　　次男のシメオンと三男のレビ　（５～７節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;シメオンとレビは激しやすい性質の持ち主であった。 妹のディナが土地の若者に乱暴されたと聞くや否や、相手の家 の男たちを虐殺し、その町を略奪する大事件を起こした。それ 故にヤコブは苦境に陥った。火山のような短気を父ヤコブは叱 っている。 「私は彼らをヤコブの中で分け、イスラエルの中に散らそう」 との預言の通りに、やがてシメオン族はユダ族に吸収され、レ ビ族は祭司となって各地に分散して住むこととなる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;３． 　四男のユダ　（8～12節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;後のユダヤ人という呼び名のもととなっている。 若い時、兄弟たちと弟ヨセフをエジプトに奴隷として売り飛ば す事件を起こしたユダ。しかし、やがてエジプトでヨセフと再 会。誰よりも罪を悔い改め、自分を家族の身代わりにと、自ら 身を捧げる自己犠牲の人・愛の人となった。 ユダへの祝福は、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;①ユダ族の強さ、その力は百獣の王ライオン に喩えられている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;②「王権はユダを離れず」ユダ族からは王 が出る。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;③救い主が出るとの祝福。 「シロ」は、伝統的にダビデ王とその後に続く真の救い主、神 の国の王キリストを指す。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;４． 　十男ゼブルンと九男イッサカル　(13～15節)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ルベンからユダまでの４人と、この２人を足して合計５人が、 レアから生まれた息子。　 ゼブルン族は地中海岸一帯、つまり海辺に定住した。 イッサカル族は、ゼブルン族の南に住む。農業牧畜を営んだ。 良き土地に恵まれ、安きに流れ自立の精神に欠けた。 結果、彼らはカナン人に使われる人々となってしまった。 　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;５． 　ダン、ガド、アシェル、ナフタリの４人　(16～21節)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ダン、ガド、アシェル、ナフタリの四人は、ヤコブと側女たち との間に生まれた息子たち。 屈強な一族となり、有名な怪力サムソンはダン族出身で強敵ペ リシテ人を恐れさせた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;６． 　ヨセフとベニヤミン　（22～27節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;最後に残る二人は、ヤコブと最愛の妻ラケルの間に生まれた子 ども。 ヨセフはエジプトの大臣として活躍する自慢の息子。 ベニヤミンは可愛い末っ子。二人への遺言は祝福の花束。 ヨセフの前半生は苦難の連続。苦難を切り抜けた後半生は、兄 弟の中で最高の栄誉に恵まれた。 ヨセフ族の祝福は、子孫の繁栄だった。 末っ子ベニヤミンは狼の如く勇敢な一族となる。 士師のエフデや最初の王サウル、使徒パウロもベニヤミン族出 身。  ヤコブは、息子たちへの遺言を伝え終え、死後、先祖のマクペ ラの洞穴に葬るように命じる。「エジプトは安住の地ではない 、私の本当の故郷は神の約束の地なのだ」という強烈な信仰の 遺産を遺した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;結　論：　　信仰の遺産と主の祝福を遺す　　(28～33節)  　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;心に残るのは父ヤコブの子らに対する愛である。 遺言には戒めあり、注意あり、賞賛があり、励ましがある。 しかし、すべては父としての愛に溢れた言葉であった。 各々にふさわしい祝福である。　 しかし、天の父の愛はヤコブ以上である。 （エペソ1：5）　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;エペソ1：5「神は、ただみこころのままに、私たちを&lt;span style="border-bottom: 1px dashed rgb(131, 181, 0);" class="wEntMarkerPattern"&gt;イエス&lt;/span&gt;． キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじ め定めておられたのです。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私たちも子どもや子孫に、信仰の遺産と主の祝福を遺こしてい こう。　　　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;主よ感謝します。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/21132095-7112744489886702408?l=katayanagi-efc-message.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/7112744489886702408'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/7112744489886702408'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://katayanagi-efc-message.blogspot.com/2010/09/blog-post_19.html' title='晩年のヤコブ'/><author><name>ハレルヤ</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-21132095.post-3522491676848928878</id><published>2010-09-12T12:27:00.003+09:00</published><updated>2010-09-13T09:19:07.753+09:00</updated><title type='text'>雲の証人に囲まれて</title><content type='html'>&lt;span style="COLOR: rgb(255,204,51)"&gt;～天国の完成と聖徒の交わり～&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２０１０年９月１２日&lt;br /&gt;聖書：ヘブル人への手紙11章39節～12章2節&lt;br /&gt;説教：滝田新二牧師&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;11:39 この人々はみな、その信仰によってあかしされましたが 、約束されたものは得ませんでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;11:40 神は私たちのために、さらにすぐれたものをあらかじめ 用意しておられたので、彼らが私たちと別に全うされるという ことはなかったのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;12:1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のよ うに私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさい の重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれてい る競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さ ないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえ に、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右 に着座されました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;序、今日のテーマは「天国について」です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;1．私たちは、天国において一つとなる。(ヘブル11章39～40節)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ヘブル書11章は、聖書に登場する信仰の英雄伝である。 彼らは地上では約束のものを得ることはなかった。しかし、神の約束の実現を楽しみにしている。 彼らの天国での報いは、実は私たちなのである。アブラハムや 旧約の聖徒たちの信仰は、私たちがいて初めて完成する。みこ とばは驚くべき真理を教えている。 天国は、イエス様によって救われた人みんなが入らないと完成 しない。 天国は非常に美しく、天の聖徒は私たちを待っている。 信仰者が皆、完全に１つになる時を待っている。 天国は、個人主義の国ではなく、共同体の国・神の家族の国だ からである。私たちは、キリストの体として、お互いにかけが えのない存在である。 （参照：黙示録5章8～11節） 私たちは、天国の美しい大きなジグソーパズルの絵のピースの 一部なのである。全員が家に着くまでは　その絵は完成しない 。彼らは表現できないくらい大きな喜びをもってあなたを迎え てくれる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;2．私たちは、雲のような証人に囲まれている（ヘブル12章１ ～２節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ヘブル書の記者は、天国をスタジアムのイメージで描いている 。 観客席は、「雲のように」先に天に召された聖徒たちで埋め尽 くされている。観客は、フィールドを見て応援して一緒に戦っ ている。 競技者は誰か？ それは地上にあって戦っている私たちである。 「多くの証人たちに雲のように囲まれている。 みんながあなたを応援しているから、さあ、あと1週がんばり なさい。主が命じられた競争を忍耐をもって走り続けよう！」 と力強い声で励ましている。 みことばは最後の最後まで戦うように勧めている。 そこには旧約や新約の預言者、使徒や近代の宣教師たちもいる 。あなたの祖父や祖母・家族がいる。 あなたのために祈ってくれた人々、もう会えないと思った人た ちが、今もあなたを応援している。 天の祝宴は、にぎやかで楽しい。 (参照：ヘブル12章22～23節・ルカ15章10節・黙示録6章10節、 ヘブル7章25節)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;イエス様は、永遠のとりなし手として生きておられ、あなたの ために今も祈っていてくださる。 天国で誰かがあなたを応援しているとは、想像もしなかったか も知れない。 使徒信条に「我は聖徒の交わりを信じる」とある。 聖徒の交わりとは次の世界の命との交わりでもある。 地上に留まらず、先に召された人とまだ生きている者との交わ りでもある。キリストの体は天国と地上の溝を越えるのである 。これは聖人崇拝ではない。 （例話：ルターは聖徒の交わりについて1536年ブレーメンの人 に手紙を書いた。「もしも、私が先に召されたら、私は君を引 っ張ることになる、もし君が先に召されるなら君が私を引っ張 るのだ。私たちは神と聖徒が救い主にあって１つであると告白 しているのだから。」） イエス様ご自身もモーセとエリヤの訪問を受けて祝福された。 （ルカ9章28-31節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（例話：ディチオニの絵画『雲の証人』　 講壇の若い説教者の背後に聖書の聖徒たちが取り囲んでいる。 ）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;結 論：　忍耐をもって走り続けよう！　（ヘブル12章1～2節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;あなたが今、遣わされている場所（家庭・学校・職場）で、目 の前のレースを忍耐して走り続けよう！　 信仰の創始者であり完成者であるイエス様から目を離してはい けない。将来、あなたは雲のような証人たちを見ることだろう 。大きな家族を見る。 やがて天で雲の証人たちの祝福に迎えられて、地上での労苦が 報われるのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;(例話：映画『きみの帰る場所 / アントワン・フィッシャー』 　 刑務所で生まれ、孤児であった青年が、自分の家族を探し求め 、やがて出会う感動の物語。) 　&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/21132095-3522491676848928878?l=katayanagi-efc-message.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/3522491676848928878'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/3522491676848928878'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://katayanagi-efc-message.blogspot.com/2010/09/blog-post.html' title='雲の証人に囲まれて'/><author><name>ハレルヤ</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-21132095.post-1279033730834430751</id><published>2010-08-30T12:14:00.002+09:00</published><updated>2010-08-30T12:18:01.121+09:00</updated><title type='text'>神はわれらの避け所、また力</title><content type='html'>２０１０年８月２９日　&lt;br /&gt;聖書：詩篇 ４６篇１～１１節&lt;br /&gt;説教：滝田新二牧師&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;指揮者のために。コラの子たちによる。アラモテに合わせて。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;歌 46:1 神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある 助け。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;46:2 それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々 が海のまなかに移ろうとも。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;46:3 たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさ が増して山々が揺れ動いても。セラ&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;46:4 川がある。その流れは、いと高き方の聖なる住まい、神 の都を喜ばせる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;46:5 神はそのまなかにいまし、その都はゆるがない。神は夜 明け前にこれを助けられる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;46:6 国々は立ち騒ぎ、諸方の王国は揺らいだ。神が御声を発 せられると、地は溶けた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;46:7 万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれ らのとりでである。　セラ&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;46:8 来て、主のみわざを見よ。主は地に荒廃をもたらされた 。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;46:9 主は地の果てまでも戦いをやめさせ、弓をへし折り、槍 を断ち切り、戦車を火で焼かれた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;46:10 「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国 々の間であがめられ、地の上であがめられる。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;46:11 万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれ らのとりでである。　セラ  &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;序．宗教改革者マルチン・ルターは、４６篇から有名な讃美歌267 番『神はわがやぐら』を作詞作曲した。ルター自身この賛美に よって困難な宗教改革を進めた。１節の「避け所」は「避難所 ・シェルター」で、主は私たちにとって最も安全な逃込む場所 である。また「力」は元々「砦・城壁」であり、積極的に敵を 滅ぼすことのできる力を意味する。イエス様を信じる者にとっ て主が「避け所」「力」となる時、どのような恵み・祝福がも たらされるのか？　３つの主の祝福がある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;第１は、「恐れない」　（恐れから解放される　　1～3節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;詩人はこの地上でどんなことが起こっても恐れないと告白する 。　１節の「苦しむとき」、それは国家存亡の苦難の時を意味 する。この詩篇の背景の出来事はBC701年、南王国ヒゼキヤ王 の時代、アッシリアの王セナケリブによるエルサレム攻撃とい う国家存亡の危機。（Ⅱ列王記18～20章）預言者イザヤの主の 御言葉通りに、主は一夜にしてアッシリアの大軍18万5千人を 撃たれた。　主の奇跡的な救いと勝利であった。ロ ーマ8章31節「 神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに 敵対できるでしょう。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;第２は、　「揺るがない」　　(4～7節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;2～3節で、不動の象徴である山々が揺らぎ，海の中に移るよう な前代未聞の出来事（地震や自然災害等)に遭遇しても「決し て恐れない」と信仰告白できるのは、主の守りと導きを体験し た者の恵みである。「川や大河」は主の豊かな恵みと守りの象 徴である。　　「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決し て渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうち で泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」（ヨハネ４ ：１４）と、イエス様はサマリヤの女にご自分こそがいのちの 水・川であると言われた。 １１節「万軍の主」とは、地上の 超大国よりも、主なる神こそが世界最強である。その万軍の主 が私たちと共におられるとは、まさに恐れるものが何もない。 「見よ。私は世の終わりまであなたがたとともにいます」(マ タイ28:20)と言われたイエス様は、インマヌエルの神である。 何と素晴らしい約束だろうか。困難や試練の只中にあっても、 私たちの人生は揺らぐことがない。否、人生ばかりでなく、あ なたの家庭も、教会も揺らぐことがない。　あなたは主という 避け所である分厚い強力な核シェルターの中に守られている。 どんなに槍や弓や砲弾が飛んできても届かない、高い城壁に囲 まれている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;第３は、　「静まること(祈り)」　　(8～11節)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１０節「やめよ。わたしこそ神であることを知れ」の「やめよ 」とは「力を抜け、手を下ろせ」という意味で、武装解除の命 令である。これは、主に信頼すること。主の前に静まること、 つまり「祈り」である。　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;結 論： 　御言葉と祈りによって、聖霊様に満たされ歩もう！&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「主を避け所とする」とは、避け所である主の中に入って留ま ることである。言い換えれば、いつも主の臨在の中に入って留 まり、いつも聖霊様に満たされた状態にいることである。　私 たちがいつも聖霊様に満たされているならば、御霊によって歩 むことになる。そうすると肉の欲を満たすことがなくなる。（ ガラテヤ５章１６節）。肉欲から解放されると、罪を犯すこと からも離れる。その結果、罪から来る災いや悩みを避けること ができる。聖霊様に満たされるにはどうしたらよいか？　「祈 る」ことである。祈りは、神と人との霊的な交わり、人格的な 交わりである。主の御前に静まることから、一日を始めよう！ 　「まことに、あなたの大庭にいる一日は、千日にまさります 。私は悪の天幕に住むよりは、むしろ神の宮の門口に立ちたい のです。」（詩篇8４:10）　よく祈って聖霊様に満たされて働 く１時間は、そうでない千時間にもまさる。私たちが世に勝つ 者となるために、生活の中で「祈り」を最優先しよう！　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（例話：マルチン・ルター） マルチン・ルターが、「聖書に書いてある通りに、救いはイエ ス様の十字架においてすべて完成したんだ！信じるだけで救わ れる！」と霊の目が開けた時、最高の権威はローマ教皇ではな く、聖書に最高の権威があることを知って、宗教改革を起こし ました。その時、カトリックはもちろんあらゆる人から激しい 迫害を受けました。彼が失望落胆し、立ち直れなくなっている 時、妻カタリーナが喪服を着て立っているのを見ました。「ど うしてそんな格好をしているんだ？誰かなくなったのか？」と 聞くと、彼女は「だって、今日はあなたの神様が亡くなられた 日でしょう？」と答えたそうです。その言葉で、ルターは自分 の状態に気づかされ、「そうだ！『神はわれらの避け所、また 力。苦しむ時、そこにある助け』ではないか！」と聖書の言葉 を握り、再び立ち上がったというのです。　  「もう駄目だ。」「もう絶えられない」という時、あなたの主 が来て下さるのです。人生の谷間に落とされる時も、万軍の主 が共にいて下さり、そこに花を咲かせ、光をあてて下さるので す。そして、その時、主こそがあなたの主であり、避け所、と りで、力であることを知るのです。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/21132095-1279033730834430751?l=katayanagi-efc-message.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/1279033730834430751'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/1279033730834430751'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://katayanagi-efc-message.blogspot.com/2010/08/461-462-463-464-465-466-467-468-469.html' title='神はわれらの避け所、また力'/><author><name>ハレルヤ</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-21132095.post-2075011418529610136</id><published>2010-08-15T15:20:00.002+09:00</published><updated>2010-08-15T15:24:31.538+09:00</updated><title type='text'>和解の福音に生きる</title><content type='html'>２０１０年８月１５日　　敗 戦６５周年記念礼拝 &lt;br /&gt;聖書：第２コリント人への手紙５章１７～２１節&lt;br /&gt;説教：滝田新二牧師&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造 られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しく なりました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;5:18 これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、 キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務 めを私たちに与えてくださいました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;5:19 すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と 和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のこと ばを私たちにゆだねられたのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;5:20 こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ち ょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たち は、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を 受け入れなさい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;5:21 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされま した。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるため です。   &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;序．『人類の歴史は戦争の歴史である。』 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;資料がある6000年間で発生した戦争は1万５千回以上である。 ドイツ社会学者のソローキンは「第二次世界大戦後の半世紀だ けで約150回の戦争や内戦が起こった。戦争が世界から無くな った日は三週間だけであった。」  聖書は、戦争の原因は人間の心のうちにある「敵意」にあると 教えている。 それは、神に背き、堕落した原罪にさかのぼる。その解決は、 どこから来るのだろうか？ 　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　 　　　　　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１．  　神と和解せよ。（2コリント5章18～19節）　　　　　 　　　　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;聖書のメッセージは、神に背き、神との平和を失った私たち人 類への「和解の福音」である。　 神は、私たちの罪を取り除くために、主イエス様を十字架に渡 された。十字架の贖いによって、私たちは罪赦され、救われ、 神との和解の道が開かれた。  「和解」はギリシャ語(アラセン)で「両替をする」という意味 である。「1つの物を他の物に交換する」転じて「相手を敵と して感じるその心が変えられる」という意味になった。パウロ はこの言葉を用いて、神との和解の福音を説明した。和解の福 音とは「イエス様の十字架の御業により、神と人間の失われた 関係が回復され、神との平和が与えられる。悔い改めて主に立 ち返るように招かれている。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt; ２． 　自分と和解せよ。　（2コリント5章17節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt; イエス様によって実現された神との和解は、自分自身との和解 をもたらし、人と人、人と自然との和解を生み出す。  (参照：ローマ5章8～11節)　 ５:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私た ちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する ご自身の愛を明らかにしておられます。 5:9 ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた 私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらの ことです。 5:10 もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解さ せられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによっ て救いにあずかるのは、なおさらのことです。 5:11 そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立た せてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たち は神を大いに喜んでいるのです。  私たちは喜びに溢れ、みことばによって成長し、主の恵みを味 わっている時もある。けれども、自分が変わらない時もある。 それは私たちの自我が砕かれていない所に原因がある。「主よ 、へりくだりを与えてください。私の自我を砕いて下さい。」 という祈りによって始まる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;主は、様々な出来事を通して私たちの自我を砕かれ、主の愛に より、あなたの内に生ける水の川が流れ始め、慰めと癒しが起 こる。こうしてあなたは、自分自身と和解する。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;３． 　人と和解せよ　～和解の使者となる～　（2コリント5章20～21節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt; この和解の恵みに与ったものは、新しく創造された者として、 和解の任務を授けられている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;例話：『ルワンダの大虐殺』  人口800万のアフリカの中央にある小国ルワンダで1994年に内 戦が起こる。80％のフツ族が、国を支配していた15％のツチ族 を襲い、約100日間で人口の10％にあたる80万人の人々が虐殺 された。そこで『真実は癒す(ウクリ・クラキザ)』という癒し と和解の働きが教会を中心に始まった。  イエス様は、『山上の説教』で「平和をつくる者は幸いです。 その人は神の子どもと呼ばれるからです。」（マタイ5章9節） と語られた。 私たちも平和を作る人「ピースメーカー」を目指そう！　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt; 例話：『アッシジのフランチェスコの平和の祈り』 　　　　（共に祈ろう！）　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt; 「わたしをあなたの平和の道具としてお使い下さい。／憎しみのあるところに愛を／いさかいのあるところにゆるしを ／分裂のあるところに一致を／ 疑いのあるところに信仰を／  誤っているところに真理を／    絶望のあるところに希望を／ 闇に光りを／  悲しみのあるところに喜びをもたらす者としてください。 慰められるよりは慰めることを／ 理解されるよりは理解する事を/ 愛されるよりは愛することを／ わたしが求めますよに/ わたしたちは与えるから受け／ ゆるすからゆるされ/自分を捨てて死に／ 永遠の命をいただくのですから。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;主よ感謝します。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/21132095-2075011418529610136?l=katayanagi-efc-message.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/2075011418529610136'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/2075011418529610136'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://katayanagi-efc-message.blogspot.com/2010/08/blog-post_15.html' title='和解の福音に生きる'/><author><name>ハレルヤ</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-21132095.post-2245155681235236857</id><published>2010-08-08T14:10:00.003+09:00</published><updated>2010-08-10T20:42:00.780+09:00</updated><title type='text'>すべては益となる</title><content type='html'>２０１０年８月８日&lt;br /&gt;新約聖書： ローマ人への手紙８章２８節&lt;br /&gt;説教：滝田新二牧師&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「神 を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々の ためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださること を、私たちは知っています。」　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;序．　口で絵を描く車イスの証人・ジョニー・エリクソンは語 る。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;『人生がバラ色の時、私たちは主イエス様のことを知っている と思い、主イエス様のように生きているつもりになっていて、 何となく主イエス様の教えを引用してみたり、主イエス様のこ とを話したりしています。しかし、苦難を通してでなければ、 私たちが本当に主イエス様を知ることはないのです。」 困難や試練に直面した時、私たちの希望は、積極思考や楽観主 義にあるのではない。それは主がこの全宇宙を支配し、私たち を愛して下さっているという確かな真理にある。それが今月の 暗唱聖句の御言葉である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１．　　「神はすべてのことを」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;すべての背後には、偉大なデザイナーである主の御手がある。 あなたの人生は、決して偶然や運命の産物ではなく、マスター プランに基づいて造られている。 『歴史は神の物語である。（History is His Story）』　 主が背後で導いておられる。 私たちは間違いを犯すが、主は決して間違うことがない。 あなたの人生には神の計画と目的がある。神の計画の中には、 あなたの人生に起こるすべてのことが含まれている。 成功や素晴らしい出来事も、反対に、あなたの失敗・罪・傷・ 病気・失業・災害・死別も含まれている。 主は最悪の事態から最良のものを引き出すことがおできになる お方である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２．　　「共に働かせて」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;原語では「神は」という言葉はない。 「すべてのこと」が主格となり「すべてのものが一緒に働いて 益となる」という意味である。神の計画の中で、１つ１つの出 来事は他と個別のものではなく、共に働いて、あなたをイエス 様に似た者とする。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;３．　　「益としてくださる」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「益となる」という原語は「善となる」という言葉。 主は、悪いものから良いものを引き出すことを得意としておら れる。 つまり、神は善の神であり、人の悪や罪さえも、益に変えて下 さる。　 （例話：イエス様の系図の中に、タマル、ラハブ、ルツ、バテ ・シェバという決して立派とは言えな経歴の４人の女性が登場 する。救い主はこの家系から誕生された。）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;例話：内村鑑三は語っている。 「すべてのことというのは、我らの上に起こりうる一切を指す 。すなわちパウロは、この世の悲しみも苦しみも一緒に働いて 、我々に永遠の生命を与え、復活の希望を与え、我々の救いと なると言っているのであります。実に有難いことではありませ んか。このことが本当に自分の確信となったら、我々は悲しみ に文句を言わなくなる。その時は辛いが、苦しみから逃避しな くなる。そして勇敢に立ち向かう力が与えられるのである。」 「神の目的に従って」とは、私たちが御子イエス様と同じ姿に なることである。あなたの人生においてこれが実現する。 （例話：ミケランジェロのダビデ像）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;結　論：　　イエス様のように問題に対処しよう！&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（１）　 神のご計画は良いものであることを覚える　 （エレミヤ２９章１１節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知ってい るからだ。─主の御告げ─それはわざわいではなくて、平安を 与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのも のだ。」 自分の痛みや問題にではなく、神の計画に焦点を合わせ続ける 。イエス様はそのようにして十字架の痛みを耐えしのばれた。 私たちもその模範に習おう。 ヘブル１２章２節 「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さない でいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、 はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着 座されました。」 （例話：ナチスドイツのアウシュビッツの体験者 　　　　コーリー・テン・ブーン）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（２）　 喜び、感謝する　 　　　　 （Ⅰテサロニケ５章１６～１８節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;5:16 いつも喜んでいなさい。 5:17 絶えず祈りなさい。5:18 すべての事について（どのような状況にあっても） 感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって 神があなたがたに望んでおられることです。 主は、邪悪な事、罪、艱難、この世の痛ましい出来事に感謝を ささげることを期待しておられるのではない。主があなたの問 題を用いて主の目的を達成しようとしておられることについて 、あなたが主に感謝をささげるようになることである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（３）　 決してあきらめない　 　　　　 （ヤコブ書１章２～４節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;1:2 私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。1:3 信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。1:4 その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。 霊的な成長（聖化の歩み）は、ラセン階段を登るようなもので ある。人生の困難な問題を避けようとしたり、逃げ出しても、 かえって自分の成長を遅らせるだけである。　 “主よ、私を造り変えて下さい”と祈り求めよう。　 こうして、あなたはみことばと聖霊様によって主の似姿へと変 えられるのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;主よ感謝します。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/21132095-2245155681235236857?l=katayanagi-efc-message.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/2245155681235236857'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/2245155681235236857'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://katayanagi-efc-message.blogspot.com/2010/08/blog-post.html' title='すべては益となる'/><author><name>ハレルヤ</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-21132095.post-3427823423557984998</id><published>2010-07-26T20:53:00.004+09:00</published><updated>2010-07-27T11:01:13.834+09:00</updated><title type='text'>真の隣人となろう！</title><content type='html'>&lt;span style="COLOR: rgb(255,204,51)"&gt;～良きサマリヤ人のたとえ話より～&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２０１０年７月２５日　　　　&lt;br /&gt;新約聖書：　ルカの福音書10章25～37節　&lt;br /&gt;説教：滝田新二牧師&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;25.すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;26.イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;27.すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;28.イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;29.しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;30.イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;31.たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;32.同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;33.ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;34.近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;35.次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;36.この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;37.彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;序.　今年の主題『聖霊様に満たされ、宣教と愛に生きる』について、年初に「良きサマリヤ人のたとえ話」より御言葉を受けた。下半期を迎え、再度、「真の隣人となるために」、良きサマリヤ人のたとえ話から主の御言葉を受けよう！&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１．　強盗に襲われた旅人　　(３０節)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　エルサレムからエリコに下る道は危険な道で、箱根の山のような山賊の出る所であった。旅人が強盗に襲われて、傷ついて助けを求めていた。現代も、強盗的ともいえるような力の支配する世界の中で、多くの人が傷つき倒れている。　現代の競争社会と格差社会のひずみで、学校や家庭、職場も病んで、子どもも大人も傷ついている。自殺者もこの１０年間毎年３万人を超えている。この時代の病理的な孤独のゆえに、若者もお年寄りも生きにくさを感じている。 家族は80年代のバブル経済崩壊以降、危機的な状態に陥っている。幼児虐待のように家族機能が崩壊している。その結果、学校や社会も病んで、イジメや暴力、アルコールや薬物中毒が蔓延してきている。このように現代は、傷つき倒れた旅人のようにみな助けを求めている。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;２．　通り過ぎた祭司・レビ人　　(３１～３２節)　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;～祭司やレビ人の中に、現代人の他者に対する２つの無力性を見る～&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（１）　「忙しい現代人の悲劇」がある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;休む間もない勉強や仕事の中で、目の前の人間の必要が見えない。ここでは傷ついた旅人の現実が見えない。人間の必要よりも自分の勉強や仕事が優先されてしまう。人よりも、自分の事が先という現代人の姿である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（２）　「問題と関わると面倒だという現代人の無関心」がある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;関わることによって起こる様々な煩わしさを避けたい。　私たちが、人の問題、傷に関わるためには、ある程度の覚悟が要る。最大のポイントは「愛が試される」ことである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（例話：　リルケの言葉）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;３．　真の隣人となった良きサマリヤ人　　(３３～３７節)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ここに私たちが「真の隣人となる」ための３つの条件がある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（１）　　「相手が誰であるかを問題にしないで、傷ついている旅人を助けた。」(３３～３４節)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;当時、サマリヤ人とユダヤ人は一切交流がなかった。彼には、人種的偏見や差別を乗り越えた、人に対する尊厳の思いと無条件の愛を見ることができる。ここに癒し人・真の隣人となる第１の条件を見る。人は、どんな人も神の愛の対象である。パウロは「キリストが代わりに死んでくださったほどの人」（ローマ14章15節）　と呼んでいる。（参照：ルカ23章34節）私たちも、人種を越え、障害（身体・知的・精神）を越えて、自分のできる範囲で、愛を実践しよう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（２）　　「この人は、彼を見てかわいそうに思った。」(３３節)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;他者の痛みに対する共感である。つまり傷の痛みの分かる心、キリストの愛の心である。それが地域に仕える教会となるため、また真の隣人になるための第２の条件である。「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」(ローマ１２:１５) 同情とも違う、共感すること。つまり、苦悩や、喜びや、苦しみを共にするということである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（３）　　「近寄って助けて介抱した。」(３４～３５節)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ここは物語のクライマックスである。&lt;br /&gt;第３の条件は、このサマリヤ人のように私たちも傷を癒す手段である「オリーブ油とぶどう酒と包帯」を持つことである。では霊的な意味でのオリーブ油とぶどう酒と包帯とは何か？それは「イエス様の十字架」である。罪のために傷ついた私たちの心を癒すため、イエス様の十字架の傷と流された血潮が、実はブドウ酒とオリーブ油と包帯である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;第１ぺテロの手紙2章24節&lt;br /&gt;「 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;イエス様が十字架の傷をもって、私たちの傷を癒された。私たちの傷は、他の人への包帯となる。こうしてあなたは、傷ついた癒し人となるのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（例話：星野富弘さんの詩『れんぎょう』　&lt;br /&gt;「わたしは傷を持っている。　でも　その傷のところから、あなたのやさしさがしみてくる。」）&lt;br /&gt;私たちはオリーブ油とぶどう酒と包帯を、すでに主から頂いている。それを用いて真の隣人になろう！&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（例話：　マザーテレサ「イエス様の愛に心を満たされて」）イエス様が私たちに愛し、与え、仕えられたように、人々にお仕えした。私たも、イエス様に倣い、地域に開かれた教会として、また真の隣人として、教会・家族・学校・職場で神と人に仕えよう！&lt;br /&gt;　　　　&lt;br /&gt;主よ、感謝します。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/21132095-3427823423557984998?l=katayanagi-efc-message.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/3427823423557984998'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/3427823423557984998'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://katayanagi-efc-message.blogspot.com/2010/07/blog-post_26.html' title='真の隣人となろう！'/><author><name>ハレルヤ</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-21132095.post-3527097367249910436</id><published>2010-07-11T12:57:00.003+09:00</published><updated>2010-07-26T11:16:05.107+09:00</updated><title type='text'>効果的な祈りの秘訣（２）</title><content type='html'>２０１０ 年７月１１日&lt;br /&gt;聖書：ルカの福音書１１章５～１３節&lt;br /&gt;説教：滝田新二牧師&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;5. また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうち、だれ かに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『 君。パンを三つ貸してくれ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;6． 友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるも のがないのだ』と言ったとします。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;7． すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをか けないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも 私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;8． あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということ で起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続 けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでし ょう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;9． わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうす れば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。た たきなさい。そうすれば開かれます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;10. だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、 たたく者には開かれます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;11. あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚 の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか 。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;12. 卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう 。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;13.してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の 子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば 、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下 さらないことがありましょう。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;序． 主イエス様は、真夜中に来た旅人のために、友人の家を 訪ねパンを３つ求め続けた人のたとえ話から「効果的な力ある 祈りの３つの秘訣」を教えられた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１.　主に、不可能はないと信じて祈る。(5～6節)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;～彼は、扉のむこうにはパンがあることが知っていたから強く 求めた～&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;祈りは、神との会話である。効果的な祈りの秘訣の第１条件は 、「主に不可能はないと信じて祈る」ことである。主は、全能 なる神、主にとってできないことはない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;例話①：「日本最大の聖隷福祉事業団の創立者・長谷川 保氏 の無一文からの出発」　マルコ10章52節『イエスは、彼に言わ れた。「あなたの信仰があなたを救ったのです。」』の御言葉 の約束に立ち、無一文の病気の生活の中から、当時「死の病」 と恐れられていた結核患者の世話を始めた。反対する浜松の村 人の焼き討ちに遭い、経済的危機の中で勝利した。信じた通り 、主が働いて、危機が好機に変えられた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２.　主に、具体的に祈る。　(5節)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;～彼は、パンを求めるだけではなく、その数をも願った。具体 的に願った～&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;効果的な祈りの秘訣の第２条件は、具体的にどうして欲しいの かを祈ること。中途半端な願いではなく、「これをください」 と祈る事である。たとえば、家族の救いのように、御言葉の約 束に立って祈ろう。 使徒の働き16章31節『主イエスを信じなさい。そうすれば、あ なたもあなたの家族も救われます。』&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;３.　主に、あきらめずに祈り続ける。(8～10節)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;～彼は、その願いが聞かれていると信じて求めた～&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;効果的な力ある祈りの秘訣の第３は、あきらめずに、主に祈り 求め続けることである。　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;例話②：英国のジョージミューラーは、孤児2000人を祈りだけ で養った「祈りの人」として知られている。 彼は祈りの答えが遅れても落胆する事はなった。彼は「祈りの カード」を作り、毎日欠かさず、救いのために名前を上げて、1 年、2年、5年、10年と祈り続けた。ある2人のために60年以上 毎日祈った。ミューラーの死後、ついに彼らはイエス様を主と 告白して死んだと言われている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;結　論：　効果的な祈りの実践的な提案&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;① 1日の始まりの朝、起きる前に祈り始める。 （まず主に思いを向けよう）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;② 朝、静思の時（デボーション）を持つ。 マルコ1：35「イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂し い所へ出て行き、そこで祈っておられた。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;③ 絶えず祈ることを実行する。 （待たなければならない時は祈る） Ⅰテサロニケ5章17節　「 絶えず祈りなさい」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;④ 祈りのノートを作って祈る。 （具体的に課題や名前を上げて祈ろう） ディボーションや食事の感謝の祈 りで、救われて欲しい友人や家族の名前を上げて祈ろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;⑤ 1日の終わりに、主に祈る。 失敗の赦しを乞い、主の祝福は感謝しよう。 黙想・黙祷は、あなたの心と体を完全な休息へと導く。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;詩篇 4:8 「平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつき ます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてください ます。」 　　　 　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;主よ、感謝します。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/21132095-3527097367249910436?l=katayanagi-efc-message.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/3527097367249910436'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/3527097367249910436'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://katayanagi-efc-message.blogspot.com/2010/07/blog-post.html' title='効果的な祈りの秘訣（２）'/><author><name>ハレルヤ</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-21132095.post-6075910571247564998</id><published>2010-06-27T13:17:00.005+09:00</published><updated>2010-07-05T15:10:41.940+09:00</updated><title type='text'>効果的な祈りの秘訣（１）</title><content type='html'>&lt;span style="COLOR: rgb(255,204,51)"&gt;～普通の人が祈るとすごい事が起こる～&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２０１０年６月２７日&lt;br /&gt;新約聖書：　ヤコブの手紙5章13～18節&lt;br /&gt;説教：滝田新二牧師&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;13. あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;14. あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;15.　 信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;16. ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;17. エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六か月の間、地に雨が降りませんでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;18. そして、再び祈ると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。「あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;序．　普通の人が祈るとすごい事が起きる。祈りは、つまらないものではなく、主に語りかけることである。祈りは、一方通行ではなくて、深みと奥行きがある。16節「ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。」　聖書は、エリヤは私たちと同じような普通の人だと言っている。(17・18節)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１．　祈りによって、あなたは主につながる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　あなたが主に祈る時にあなたは主につながることができる。祈る時、主が普通の私たちの生活に入ってこられる。祈りは天で力を発揮する。あなたが祈る時、天が揺り動かされる。あなたがこの地で祈る時、祈りは、天において力を持っている。マタイ16章19節「わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」祈りは天を揺り動かし、私たちの普通の生活に変化をもたらすことができる。あなたの周りの状況の中で、変わる必要があるものはあるか？ 「祈りは物事を変える」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２．　祈りと賛美によって、あなたは主の臨在を体験する&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;賛美によって、私たちは神の臨在の中に入る。(詩篇100篇)　賛美とは、主の偉大さ、栄光をほめたたえること、主の祝福に感謝することである。疲れを覚え月曜日の朝、目を覚ました時、主を賛美すると心が主に向かい、霊が変わる。否定的な思いが、主の約束のみことばで元気になっていく。なぜなら、賛美して祈る時、主の臨在の中に入るからである。賛美しつつ、感謝して主の門に入ろう！賛美には力がある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;３．　祈りによって、あなたは主を知る。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;詩篇４６篇１０節「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。」文語訳「汝、静まりて、我の神たるを知れ」主について知るのではなく、主ご自身を知り、主を体験する。静かに主を待ち望むことには力がある。静まる時、主の御声が聞こえるようになる。だから、祈りはつまらないものだとは思わずに、賛美し、静まって主を知り、主を体験しよう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;結　論：　「願い事を最小限にとどめずに、最大限に求めよう。」　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この世では、自分の願いをはっきり表明する事は、失礼な時があるが、主の御前では、主の御座に近づき、何でも願い求めよう。（参照：Ⅰヨハネ４章14～15節）私たちは、主に信頼を置いている。何でも主に願い、主の御心にかなう事を祈り求めよう。願い事を、最小限にとどめずに、最大限に求めよう！15～16節「信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私たちは賛美を持て主の臨在の中に入り、静まって、主を待ち望み御言葉を受け、主の御声を聞こう。そして大胆に主に願い、主の祝福を受けよう。主の勇気を求め、勉強や仕事の成功、奉仕の賜物を、家族の救い、経済的祝福を求めよう。心の痛みや傷が癒され、内なる人が解放されることは、主のみこころだろうか？　　主のみこころである。だから、あなたが平安で満たされるように願い求めよう。&lt;br /&gt;祈りの力を体験しよう。　（参照：マタイ7章7～8）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;主よ、感謝します。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/21132095-6075910571247564998?l=katayanagi-efc-message.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/6075910571247564998'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/6075910571247564998'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://katayanagi-efc-message.blogspot.com/2010/06/blog-post_27.html' title='効果的な祈りの秘訣（１）'/><author><name>ハレルヤ</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-21132095.post-7865107453591481000</id><published>2010-06-20T14:42:00.000+09:00</published><updated>2010-06-20T14:44:15.392+09:00</updated><title type='text'>祈りの戦い</title><content type='html'>&lt;span style="color: rgb(255, 204, 51);"&gt;～男はいつでも手を上げて祈りなさい～&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２０１０年６月２０日　&lt;br /&gt;聖書：出エジプト記17章1～16節&lt;br /&gt;説教：滝田新二牧師&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;1. イスラエル人の全会衆は、主の命により、シンの荒野から旅立ち、旅を重ねて、レフィディムで宿営した。そこには民の飲む水がなかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;2. それで、民はモーセと争い、「私たちに飲む水を下さい」と言った。モーセは彼らに、「あなたがたはなぜ私と争うのですか。なぜ主を試みるのですか」と言った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;3. 民はその所で水に渇いた。それで民はモーセにつぶやいて言った。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのですか。私や、子どもたちや、家畜を、渇きで死なせるためですか。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;4. そこでモーセは主に叫んで言った。「私はこの民をどうすればよいのでしょう。もう少しで私を石で打ち殺そうとしています。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;5. 主はモーセに仰せられた。「民の前を通り、イスラエルの長老たちを幾人か連れ、あなたがナイルを打ったあの杖を手に取って出て行け。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt; 6. さあ、わたしはあそこのホレブの岩の上で、あなたの前に立とう。あなたがその岩を打つと、岩から水が出る。民はそれを飲もう。」そこでモーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりにした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt; 7. それで、彼はその所をマサ、またはメリバと名づけた。それは、イスラエル人が争ったからであり、また彼らが、「主は私たちの中におられるのか、おられないのか」と言って、主を試みたからである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;8. さて、アマレクが来て、レフィディムでイスラエルと戦った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;9. モーセはヨシュアに言った。「私たちのために幾人かを選び、出て行ってアマレクと戦いなさい。あす私は神の杖を手に持って、丘の頂に立ちます。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;10. ヨシュアはモーセが言ったとおりにして、アマレクと戦った。モーセとアロンとフルは丘の頂に登った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;11. モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;12. しかし、モーセの手が重くなった。彼らは石を取り、それをモーセの足もとに置いたので、モーセはその上に腰掛けた。アロンとフルは、ひとりはこちら側、ひとりはあちら側から、モーセの手をささえた。それで彼の手は日が沈むまで、しっかりそのままであった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;13. ヨシュアは、アマレクとその民を剣の刃で打ち破った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;14. 主はモーセに仰せられた。「このことを記録として、書き物に書きしるし、ヨシュアに読んで聞かせよ。わたしはアマレクの記憶を天の下から完全に消し去ってしまう。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;15. モーセは祭壇を築き、それをアドナイ・ニシと呼び、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;16.「それは『主の御座の上の手』のことで、主は代々にわたってアマレクと戦われる」と言った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;序、今日は父の日の礼拝である。奴隷の地、エジプトを脱出した民がアマレク来襲という大きな試練に遭った時、イスラエルの信仰の父モーセがどのように対処して勝利できたのか？　主の御言葉を受けよう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１．    神の杖を持つモーセ　　～信仰の杖を持つ～　(8～9節)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;アマレクの襲撃は、荒野の旅で民がモーセに不平不満を爆発させ、石打にしようとした直後の追い打ちのような出来事であった。モーセにとっては内憂外患で、内には分裂、外にはアマレクの敵。打ちのめされた上に、踏みつけられて、もう立ち上がれない気持ちであったのではないか。しかし、モーセは若き指導者ヨシュアに「アマレクと戦いなさい。あす私は神の杖を手に持って、丘の頂に立ちます」と語る。信仰を持って共に戦おう！杖は信仰の杖である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;2．　　祈りの手を上げるモーセ　　(10～11節)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　イスラエルの民は、奴隷の地エジプトを脱出したばかりの、ついこの間まで奴隷としてレンガを造っていた人々であった。まともな武器もなく、訓練された兵隊がいない。まさに烏合の衆のような弱小軍団を率い、ヨシュアは竹槍のような武器で、あの屈強なアマレク人と戦わなくてはならない。その戦いに自分たちの存続がかかっている。モーセとアロンとフルは丘の頂に登った。&lt;br /&gt;11節「モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になった。」　戦いの趨勢(すうせい)が一人の人の祈りの手の上げおろしによって、シーソーのようにめまぐるしく変わった。地上の一進一退が、天に向けられている祈りの手に懸かっている。「祈ることにおいてのみ、神の民は前進する」祈る時に、私たちは前に進み、祈らなくなる時に、私たちの信仰は後退してゆく。祈る時に、神の御手が私たちとともにあり、祈りを忘れる時、私たちは知らず知らず、主の御力を失っている。なぜ、祈れなくなるのか？実に骨の折れる重労働であるからである。&lt;br /&gt;（例話①：横山幹夫著『祈りが苦手と感じているあなたへ』「祈りは仕事です。世界中で最も精力を必要とする仕事です」）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;３．　　共同の祈りで勝利したモーセ　　（12～16節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;モーセは一人で祈ったのではない。アロンとフルがモーセと共に祈り、モーセの祈りの手を支えた。&lt;br /&gt;自分が祈れなくなる時に、自分と共に祈ってくれる友がいる。自分の側らに立って、共に祈りを捧げる仲間や家族がいる。これが神の家族である教会の姿である。　&lt;br /&gt;●マタイ18：19‐20　「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;結 論：　「男は、いつでも手を上げて祈りなさい。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;聖書が語る男(父親)のイメージは何か？　それは「いつも手を上げて祈る」父の姿である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;●第Ⅰテモテ2章8節&lt;br /&gt;「ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;●エペソ6章12節&lt;br /&gt;「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私たちの祈りは戦いである。私たち自身の罪や弱さ、怠惰や限界との戦いでもある。でも、それは決して孤独な戦いではない。一人で祈るだけでなくて、共に祈るのである。家族で共に祈る。教会で兄弟姉妹と共に祈る。　そして、いつでもどこででも祈る。どんな状況でも祈る。家を出かける時、学校に行く子どものために頭に手を置いて祈る。車の運転の前に、仕事を始める前に、顧客を訪問する前に祈る。ピンチの時、腹が立ち怒りが湧き起こった時に祈る。信仰の杖を持ち、祈りの手を上げよう！　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;本当の勝利は、祈りによって主に働いていただくこと、聖霊様に働いていただくこと以外にないことをあなたは信じるか？　主イエス様が、私たちの祈りの輪の中にいつもいてくださることを信じるか？&lt;br /&gt;あなたに与えられた、この偉大な御名による祈りが聞かれるために、主が十字架に血を流されたことを信じるか？　では、モーセのように、祈りの戦いを戦い、父の祝福を子どもたちや家族に与えよう！&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/21132095-7865107453591481000?l=katayanagi-efc-message.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/7865107453591481000'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/21132095/posts/default/7865107453591481000'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://katayanagi-efc-message.blogspot.com/2010/06/blog-post_20.html' title='祈りの戦い'/><author><name>ハレルヤ</name><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-21132095.post-7435550011837406519</id><published>2010-06-13T12:28:00.003+09:00</published><updated>2010-06-13T17:55:20.492+09:00</updated><title type='text'>祝福される教会生活</title><content type='html'>&lt;span style="COLOR: rgb(255,204,51)"&gt;～教会は神の家族です～&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２０１０年６月１３日　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;新約聖書： 使徒の働き ２章３６〜４２節&lt;br /&gt;説教：滝田新二牧師&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;40.ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って彼らに勧めた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;41. そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;42. そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;43. そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;44. 信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;45. そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;46. そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;47. 神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;序： ペンテコステに、3000人が罪を悔い改めて、イエス様を信じて救われ、洗礼を受け主の弟子となった。イエス様を救い主・人生の主と信じたクリスチャンは、主のご命令に従い洗礼を受け、主の弟子となったのです。こうして教会が誕生しました。ペンテコステによって誕生した教会。生き生きとして姿に、祝福された教会生活があります。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１.　 祝福された教会生活　　〜４つの基本〜　（４２節）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　42節「そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（例話：大リーガーのイチローは、毎日、誰よりも早く球場に入ります。そして毎日同じ基本練習メニューから入ります。&lt;br /&gt;一流選手ほど基本に忠実であるのです。）&lt;br /&gt;これはクリスチャンライフの基本である。聖霊様に満たされた信仰生活の秘訣は、この４つである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;① 使徒たちの教えを堅く守る、（御言葉を学ぶ教会生活）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;教会の礼拝や祈祷会、学生会や女性会で熱心に聖書の御言葉を学ぶ。また個人的にディボーションで毎日御言葉を学ぼう。みことばに聴き神の愛と恵み、自分の罪と弱さを知り、聖霊様の力を頂くのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;② 交わり　（愛し合う教会生活）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;44. 信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。&lt;br /&gt;45. そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。&lt;br /&gt;46. そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、&lt;br /&gt;47. 神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;交わりとは、分かち合うこと。家族が食卓で、１日の喜びや悲しみを分かち合い、励まし合う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（例話：ホィートン大学教会のケント・ヒューグース牧師は『交わりとは、「与えること」です。&lt;br /&gt;真の交わりは、犠牲を伴います。多くの人たちは、クリスチャンの交わりの楽しさを全く知りません。なぜなら、自分自身を捧げることを学んだことがないからです。教会や各会や小グループに行っても、（他の人々の必要にほとんど気づくことなく）自分自身の必要しか見えていないのです。そして、「ここには交わりはない」と言って去ってしまうのです。本当は周りの人たちに手を差し伸べて、自分の何かを犠牲にしていく時こそ、真の交わりとなるのです。』と語っている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;③ パンを裂き（礼拝と聖餐にあずかる教会生活）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;聖霊様に満たされたクリスチャンは、教会で礼拝を主にささげることを第一にする。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;④ 祈り　（互いに祈る教会生活）　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;みことばが私たちのいのちの糧なら、祈りは霊的な呼吸である。祈りなくして、この世に打ち勝つことはあり得ない。日々の熱心な祈りを通して新鮮な聖霊様の油注ぎと神の力をいただこう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２．　　教会は、祝福され、成長し前進した。(47節)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;47. 神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この4つの祝福され
